いつからだろう、自由に絵を描けなくなったのは…
小学校3、4年生の時に「パン工場」を見学&写生しに行った。
その時はキャットウォークのような所からベルトコンベアやパン生地をこねる機械や緑の床タイルなどを見下ろしてスケッチをし、確か教室で着色したような気がする。とにかく好きなように描いた。
それが金賞をとった。といっても校内のその学年での賞であったのでたいしたことはないのだけど、その時は「この絵のどこがよかったんだろ?」と不思議に思ったので先生に聞いてみた。すると「ベルトコンベアの前に立って作業している人や機械を動かしている人などの様子がよく描いてあるからだよ」といったような答えが返ってきた。その絵はもうどこかにいってしまったのだけど、できることならもう一度みてみたい。
それから少しずつ先生や友達から「絵が上手だね」と言われるようになった。最初は自分で絵が上手いなどと考えたことはなかったので、気が付かなかったが、どうやら私は絵が上手いらしいということが分かってきた。
小学校~中学校では毎年行われる写生会というイベントが運動会よりも何よりも自分にとって自信を持って取り組めるイベントだった。中学生くらいになると自分でも「私は絵が得意だ」と思い込んでいるので写生会などで、「うまく描けない」と最初からあきらめて描こうとしない人や最初から丁寧に繊細に描く人をみると、「絵を描くってのはそういうんじゃないんだよ」と思っていた。要は記録じゃないのだから細かく写真のように描く必要はないということを分かっていた。
伝わるかどうか分からないけれど、絵を描くときには頭か身体か心かどこかのスイッチが入るのだ。
宮崎駿の映画『魔女の宅急便』でいうと、キキが修行に出発するシーン、「ゴーゴーキーキ」という友達の声援を背に飛び立つ直前、ぶわ~っと髪の毛が逆立つときのような感覚。
あるいは…やったことないですが、直線の道路でアクセル全開でぐわ~っと走る時の疾走感。ハンドルを握っているときの車と一体になる感じとでもいうのかな…
とにかく余計なことは考えず、その世界に入り込むことです。
そのスイッチの切り替えが自由にできたのは中学2年生くらいまでだったかな。
それから、描けなくなった。描かなくなったというのが正しい。
絵を描くことが怖くなった。それは上手くかけない、思い通りにかけない自分がそのまま絵にでてしまうから。描こうと思って描くと何を描いても気に入らなかった。
このスケッチは今日、上下ともに同じストレリチアという観葉植物の葉を描いたものです。絵のテストじゃないから絵を描くことのみをやっても仕方ないのだけど、空間を表現する時にどうしても効果的な絵の表現は必要で、特に陰影についての表現をカラーでやっておきたかったのだ。実際のテストでは当然対象を見ながら描くことはできないのでやったからといって不安はあるけども…とにかく色鉛筆の表現を少しでも自分のものにしておきたかった。
スケッチの上の方は職業訓練で学んだ、色相・明度、光について理論的に考えながら描いたもの。明らかにおかしい。まるで病気にかかったような葉だ。そう思ってもうまく描けない。そこで…スターウォーズでいうところのフォースのようなものをつかってみた。つまり、感じるということ。知識を使って描くということを考えずに描いてみたのが下の方の葉だ。その結果、良く見ると粗い表現だが、最初のよりもずっとストレリチアの葉っぱだ。色鉛筆だと陰影や光、微妙な色あい、や立体感の表現がうまくできなくてずっと苦手意識があったけど、上手い人はもっと上手いだろうけど、自分なりにはよく描けた。文章でも、絵でも良くかけたと思うときは、自分のかいたものを何度もみてしまう。そんな時「絵を描くのが好きだ」と思う。
今日改めて分かった。真っ白い紙に絵を描くということは、自分の心がそのままでるんだ。迷ってる時も、頭でっかちになっている時も、そのままでる。でも、そこから逃げずに本当にストレートにしつこく描いてみると…これだ!って思う表現ができる、あるいは発見があるということが分かった。
私の場合、絵を描くことは好きだけど、対象を深く知る、あるいは伝える手段として描くことが好きなんだと思う。子供の時は上手い下手関係なしに純粋に描いてきた。純粋に描くことを楽しんでいた。いつからか、自分は上手く描けるんだと過信して技術を磨くことを怠ってきた。社会で絵をかくことのみで生きていくことの難しさと意義を見出せずに放っておいた。
でも、やっぱり私は絵を描く自分が好きだ。それは自分を信じ、向き合っているということと同じだからだ。それくらい、私にとって絵を描くことや表現することは自分らしくあるために必要なことなのだ。
このスケッチが物事をみる時は表面的なことじゃなくて、心で感じ、捉えなさいといっている。それが「みる」ということだと。これは私にとっては大きな発見だった。そして、少し自信がついた。
もう日付は19日、試験前日となってしまった。
後悔のないように、試験を楽しんできます。
小学校3、4年生の時に「パン工場」を見学&写生しに行った。
その時はキャットウォークのような所からベルトコンベアやパン生地をこねる機械や緑の床タイルなどを見下ろしてスケッチをし、確か教室で着色したような気がする。とにかく好きなように描いた。
それが金賞をとった。といっても校内のその学年での賞であったのでたいしたことはないのだけど、その時は「この絵のどこがよかったんだろ?」と不思議に思ったので先生に聞いてみた。すると「ベルトコンベアの前に立って作業している人や機械を動かしている人などの様子がよく描いてあるからだよ」といったような答えが返ってきた。その絵はもうどこかにいってしまったのだけど、できることならもう一度みてみたい。
それから少しずつ先生や友達から「絵が上手だね」と言われるようになった。最初は自分で絵が上手いなどと考えたことはなかったので、気が付かなかったが、どうやら私は絵が上手いらしいということが分かってきた。
小学校~中学校では毎年行われる写生会というイベントが運動会よりも何よりも自分にとって自信を持って取り組めるイベントだった。中学生くらいになると自分でも「私は絵が得意だ」と思い込んでいるので写生会などで、「うまく描けない」と最初からあきらめて描こうとしない人や最初から丁寧に繊細に描く人をみると、「絵を描くってのはそういうんじゃないんだよ」と思っていた。要は記録じゃないのだから細かく写真のように描く必要はないということを分かっていた。
伝わるかどうか分からないけれど、絵を描くときには頭か身体か心かどこかのスイッチが入るのだ。
宮崎駿の映画『魔女の宅急便』でいうと、キキが修行に出発するシーン、「ゴーゴーキーキ」という友達の声援を背に飛び立つ直前、ぶわ~っと髪の毛が逆立つときのような感覚。
あるいは…やったことないですが、直線の道路でアクセル全開でぐわ~っと走る時の疾走感。ハンドルを握っているときの車と一体になる感じとでもいうのかな…
とにかく余計なことは考えず、その世界に入り込むことです。
そのスイッチの切り替えが自由にできたのは中学2年生くらいまでだったかな。
それから、描けなくなった。描かなくなったというのが正しい。
絵を描くことが怖くなった。それは上手くかけない、思い通りにかけない自分がそのまま絵にでてしまうから。描こうと思って描くと何を描いても気に入らなかった。
このスケッチは今日、上下ともに同じストレリチアという観葉植物の葉を描いたものです。絵のテストじゃないから絵を描くことのみをやっても仕方ないのだけど、空間を表現する時にどうしても効果的な絵の表現は必要で、特に陰影についての表現をカラーでやっておきたかったのだ。実際のテストでは当然対象を見ながら描くことはできないのでやったからといって不安はあるけども…とにかく色鉛筆の表現を少しでも自分のものにしておきたかった。
スケッチの上の方は職業訓練で学んだ、色相・明度、光について理論的に考えながら描いたもの。明らかにおかしい。まるで病気にかかったような葉だ。そう思ってもうまく描けない。そこで…スターウォーズでいうところのフォースのようなものをつかってみた。つまり、感じるということ。知識を使って描くということを考えずに描いてみたのが下の方の葉だ。その結果、良く見ると粗い表現だが、最初のよりもずっとストレリチアの葉っぱだ。色鉛筆だと陰影や光、微妙な色あい、や立体感の表現がうまくできなくてずっと苦手意識があったけど、上手い人はもっと上手いだろうけど、自分なりにはよく描けた。文章でも、絵でも良くかけたと思うときは、自分のかいたものを何度もみてしまう。そんな時「絵を描くのが好きだ」と思う。
今日改めて分かった。真っ白い紙に絵を描くということは、自分の心がそのままでるんだ。迷ってる時も、頭でっかちになっている時も、そのままでる。でも、そこから逃げずに本当にストレートにしつこく描いてみると…これだ!って思う表現ができる、あるいは発見があるということが分かった。
私の場合、絵を描くことは好きだけど、対象を深く知る、あるいは伝える手段として描くことが好きなんだと思う。子供の時は上手い下手関係なしに純粋に描いてきた。純粋に描くことを楽しんでいた。いつからか、自分は上手く描けるんだと過信して技術を磨くことを怠ってきた。社会で絵をかくことのみで生きていくことの難しさと意義を見出せずに放っておいた。
でも、やっぱり私は絵を描く自分が好きだ。それは自分を信じ、向き合っているということと同じだからだ。それくらい、私にとって絵を描くことや表現することは自分らしくあるために必要なことなのだ。
このスケッチが物事をみる時は表面的なことじゃなくて、心で感じ、捉えなさいといっている。それが「みる」ということだと。これは私にとっては大きな発見だった。そして、少し自信がついた。
もう日付は19日、試験前日となってしまった。
後悔のないように、試験を楽しんできます。
ほんちゃんの描いたパース上手だったもんね。
パースみたいなイメージ図って、理論的に正確に描くところと、微妙な色やあえてゆがませて仕上げるとか経験がなくてもちゃんと伝わるように描ける人だと思います。
なんて、えらそーにすまん。
のびのび子、明日はのびのびがんばってこい!