道楽ねずみ

ドイツに関するものを中心に美術展,オペラ,映画等の趣味の世界を紹介します。

新宿歴史博物館・長谷川等伯展講演(新宿区三栄町)

2010年03月01日 | 美術道楽
東京国立博物館で現在開催中の長谷川等伯展につきまして,新宿歴史博物館で記念講演会が開催されましたので,出席して参りました。東京国立博物館の絵画・彫刻室長を務めていらっしゃる田沢裕賀先生の講演でした。

スライドをたくさんつかってわかりやすい解説でした。
長谷川等伯は能登国七尾の出身で,32歳ころまでは七尾で長谷川信春の名前で活躍していたそうです。そのため,石川県七尾市,羽咋市,富山県富山市,高岡市のお寺には,長谷川信春の作品が残っているそうです。
その後,長谷川信春は,京都に旅立ちます。既に北陸では名声を揺るぎないものにしていた信春ですが,さらに大きな舞台を求めて旅だった訳でして,京都に旅立つ信春をイメージした像が現在でも七尾駅の前にあるそうです。
長谷川信春ないし等伯の名前はその後,しばらく記録には出ていないそうです。この間は,狩野派が絶対的な力を有する京都で,下積みをしながら,狩野派の商売のシステム等も学んでいったそうです。
そして1589年になって突然,長谷川等伯の名前が記録に表れます。長谷川等伯は,大徳寺山門天井画・柱絵を作成したのを初めとして,一流の絵師として,多数の作品の製作に精力的に取り組みます。狩野派という寡占企業の支配する業界に穴をあけ,新規受注を試みるヴェンチャー企業さながらに,狩野派に強いライバル意識を持ち,パフォーマンスも行ったようです。もっとも,狩野派からも相当な妨害工作を受けたようですが・・・
長谷川等伯は晩年に江戸に向かいますが,江戸に到着すると2日で死亡してしまったそうです。

その後,江戸時代も狩野派が日本画を支配し,長谷川等伯の名前は歴史から消えていきます。七尾の長谷川信春と京都の長谷川等伯が同一人物ということすら,江戸時代には知られていなかったという話には驚きました。

先生のお話は興味深かったのですが,日本画の技法や見方に詳しくない私には,等伯の一生,京都での下積み生活,狩野派とのライバル関係等の話の方が面白かったです。特に長谷川等伯自身も狩野派の商業システムをきっちり身をもって学んだ上で,果敢に新規参入を図ったという話は面白かったです。今までの自分のイメージでは,長谷川等伯=芸術の世界に生きる職人,狩野派=既得権に胡座を書き,新規参入に妨害ばかりする悪徳企業というイメージばかりだったものですから。

質疑応答の内容も面白かったです。参加者の1人が長谷川等伯の息子久蔵が狩野派によって暗殺されたという説の真偽を質問していましたが,先生はそういう説もあるが,何ら証拠によって裏付けられた説ではないと否定しておられました(私もこの説をずっと信じていたのですが。)。