百名山の著者、深田久弥はいつもの仲間と北杜市の茅ヶ岳登山中に脳出血で亡くなりました。早すぎる68歳。この時の様子を書いたのが藤島敏男で、深田の生涯もっとも山行を共にしました。29回だそうです。略歴を見ると、作家藤島泰輔の父であり、なんと孫はジャニーズの副社長藤島ジュリー景子だそうです。
さて後半には小西政継、長谷川恒男、加藤慶信、中嶋正宏が並びますが、当時の日本を代表するアルピニストで、日本山岳会を引っ張った人たちですが、みな雪崩、滑落で亡くなりました。畳の上で死なないというのは、武士の死に様に似ていますね。
「山は輝いていた」神長幹雄編 新潮文庫
山は輝いていたを半分まで。80年代の話ですが、山はその頃も今も変わりません。でもそこに住んでいた人たち(山間の住民)はすっかり変わっているだろうと想像できます。
山ブームは日本で何度かありますが、1980年代、つまり昭和最後の頃の山は輝いていたと言えるそうです。現在はSNSのおかげで誰もがリアルタイムに山のことを発信しています。今山小屋でどんなおかずが出ているかなんてのも可能です。でも、1980年代はSNSどころかケータイも存在しません。山のことを発表するとしたら文章で残すしかありません。自分の日記に書き付けることはできますが、人に読んでもらうのは至難の業です。80年代が輝いていたというのは山のことをプロの文章家のみならず、登山者も深く思考して文章化し読まれていたからですね。SNSのように思いつきではありません。読んでいて味わいが全然違いますね。今のライターの記事は事実の羅列に終始しています。掘り込んだ文章を書けるライターはなかなかいません。山は輝いていたは元山と渓谷の編集長を務めた神長幹雄氏が1980年台の多くの文章から選んだものです。田中澄江、田淵行男、串田孫一などを今日は読みました。
震災の大火災の中、上野の山には多くの避難民が集まりましたがここには上野動物園があります。今のような大きさはないものの、猛獣もいました。動物園は動物の確保に最大の努力をし、餌の調達にも苦労しました。水は井戸水が豊富にあったそうです。これは避難民にも配られました。猛火が上野の山の下まで迫った時、園内に避難民を入れる寸前まで行ったそうです。もしそうなったら、鳥類は皆食べられてしまっただろうと・・。そして猛獣も射殺することも予定されたそうです。それには至りませんでした。しかし、20年後、大戦の中で動物たちは結局射殺されてしまいました。
最後に一文「治にいて乱を忘れず」易経が紹介されています。平和な時こそ、乱に備えよ。まさに今に必要な言葉です。
「関東大震災 文豪たちの証言」石井正巳編 中公文庫
この3日間発熱と咳で思うように生活できていません。横になっているのですが、かと言って本をこの際読もうと思っても集中力が続きませんね。NHKプラスでニュースを見ているのが楽です。
関東大震災で起きた悲劇の一つに大逆事件があります。大逆事件は関東大震災と因果関係は無いのですが、どさくさに紛れて起こされた事件です。当時の最危険人物とされていた(社会主義者、アナーキスト)大杉栄が震災後2週間ほどたって妻の伊藤野枝と甥っ子共々憲兵隊に連行され、惨殺死体として井戸で発見されたものです。主犯は憲兵隊長甘粕大尉でしたが、彼は投獄後しばらくして保釈され、やがて満州映画理事長として満州を裏で牛耳る人物となりました。この大逆事件を綴ったのが、大杉の近所に住んでいて近所付き合いもあった内田魯庵、女性活動家平塚らいてうなどです。朝鮮人虐殺についても吉野作造が載っています。情報が現代よりも極端に少なかった当時、噂、流言により民衆が策動されて行ったことを語っています。この大震災を契機に、ラジオ放送が本格化することになります。
文豪が感じた関東大震災ですが、与謝野晶子は麹町の自宅は残ったものの、源氏物語に関する原稿が、駿河台の文化学院というところに置いてあって、灰燼に喫してしまったことを嘆いています。原稿は土中に保存すべきだったと。また、野上彌生子は上野の大学図書館が燃えて、35万冊とも70万冊ともいわれる書物が消失したことを、頭上に舞ってくる紙片から知って嘆きます。与謝野晶子の原稿もさることながら、知の宝庫が逸失したことは日本にとっての損失でした。
今日の関東大震災は久米正雄、谷崎潤一郎、小泉登美です。小泉登美は女性ですが、作家でもなんでもなくこの一文のみが残されていてその後の詳しいことは不明だそうです。しかし、本所被服厰跡で罹災し、人々が焼け死んでいく中で死体の下に潜り込んで助かった人です。久米正雄は京都で変事を聞き、中央線経由信越線経由で川口までやってきます。後から後から人が乗り込んでくる様はすごいものがあります。谷崎潤一郎は箱根で被災します。箱根ホテルから小涌園ホテルまでバスで移動中、タッチの差で落盤から逃れます。横浜に行きたかったのですが、根府川の東海道線(当時は熱海線)崩落で行かれず、三島、沼津と廻って船で横浜に行ったそうです。谷崎は大の地震嫌いで、この震災の後関西に移住します。細雪などの作品で作風が変わったそうです。
昨年は関東大震災100年ということで色々な関連本がでました。去年買っておいた関東大震災 文豪たちの証言を読み始めました。大正12年当時は多くの文豪がいてそれぞれの経験を文にしています。その中でもフランス大使ポール・クローデル(詩人・劇作家)の一文は、横浜港の船と大火の様子を描いていて、つい東京の被服厰跡のことばかり印象に残る大震災ですが、東京よりも実は被害の大きかった神奈川のことがよくわかります。
小松左京短篇集を残った半分を一気に読み終えました。全部で14編ありますが、あまりSFチックでないものもあります。「天神山縁糸苧環」という関西落語を扱ったものはSF感はほとんどなく、一人の落語の師匠の懸命な姿を描いています(幽霊は出てきますが)。最後の「氷の下の暗い顔」が典型的なスペースオペラでSFらしかったです。
「小松左京短篇集 大森望セレクション」角川e文庫