エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

梅香に逝く記憶と翔ぶイマージュ

2012年02月17日 | ポエム
古民家には梅花が似合うと数日前に言った。
改めて言い直そう。
「古民家には梅香が良く似合う」のである。



今年は開花が大幅に遅れている。
水戸の偕楽園はどうだろうか?
去年は、梅の時期に出かけたものであった。



その後、あの忌まわしい東日本大震災が発災し、大津波によってリアス式海岸が悲劇に見舞われたのであった。
遅れている花たちの開花・・・。
きっと、逝く記憶に拘泥する御霊の仕業ではないのだろうか。

そうだとすれば悲しい。



梅は開けば馥郁として香り立つ。
あの甘酸っぱい梅の香りは、決して忘れられない多くの人たちが逝く記憶である。



紅梅も白梅も、逝く記憶を惜しむかのように「密やかに」「しめやかに」開き始めたのである。
ああ、忌まわしき逝く記憶よ!





      春うらら記憶重なる逝く人や       野 人







      滴るは春の息吹ぞ梅何輪         野 人





梅は連想が無限に拡がっていく。
希望に満ちた季節の魁だからだろうか。

姿形は真に正しい。
その放つ香りは胸を締め付けるほど痛ましくも初々しい。



梅香・・・そんな名前の記憶も蘇ってくる。
高校生、コーラス部の部長だったぼく。

梅の花のように、ぽっちゃりとした小柄な女の子だった。
懐かしい思い出である。
好きだとか嫌いだとかの問題では無く、妹のような存在だった梅香ちゃんだった。

家は、飯田蛇笏師の近くだった。



話題はスト~ンと飛ぶのだが、日曜日に国際的オーボエ奏者・宮本文昭氏を取り上げた「題名のない音楽会」を見た。
彼の新たな旅立ちが描かれていた。

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の音楽監督に就任したのだという。
最近彼が指揮をする姿を多く見かけるようになっていたけれど、そうしたレベルとは不覚にも知らなかった。

指揮をする姿は、あたかも活火山のようでマグマが激しく噴出する風情である。
デビュー当時に、岩城宏之氏が活火山と称された事を思い起こさせる指揮ぶりである。
音楽に真正面から向き合っている姿が見える。

宮本氏がその番組の中で振った、ワグナーのニュールンベルクのマイスタージンガー前奏曲を聴きながら泣いてしまった。
涙腺がここまで緩んでいたとは・・・不覚である。
かつてのサムライだったら「士道不覚悟」である。

梅の花から宮本氏、ワグナー、マイスタージンガーと連想がとりとめもなく飛翔してしまった。
だがしかし、断固とした連想は、梅の香りである。
その甘酸っぱさであり、一瞬にして過去・現在・未来が想起されるほどの感動があると言う事である。

梅には、多くの別名がある。
別名に好文木(こうぶんぼく)春告草(はるつげぐさ)木の花(このはな)初名草(はつなぐさ)香散見草(かざみぐさ)風待草(かぜまちぐさ)匂草(においぐさ)などがある。

多くの人をたぶらかす花である。

ああ、これで桜花が開いたらぼくはどうなってしまうのだろうか。
季節の虜になってしまうのだろうか・・・それもまた楽しからずやである。





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     荒 野人


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