今日から、里中實さんの遺句集「夢捨てず」の鑑賞を書き継ぐ。
最初にお断りしておきたいのだけれど、この實俳句を語る時、ぼくの俳句は書き記さない。
この稿の最後に、追悼句を載せたいのである。
中里 實さんに哀悼の誠を捧げる。
ここから、鑑賞に入るのである。
實俳句
「墨絵その色彩との会話」
はじめに
實俳句を論じようと思う。
中里實さんの遺句集がリリースされたからである。
遺句集のカバーである。タイトルは「夢捨てず」とある。
1周忌を機に、夫人の春枝さんが墓前に捧げたのである。
夢は捨てるものに非ず、いかなる困難に出会おうとも持ち続けるべし!
麗しくも心に響く夫婦愛である。とりわけ、由利主宰の序文には胸を打たれた。近頃続いている、同人の逝去は主宰の心を蝕んでいないだろうか?などと勝手に心配していたのだったけれど、序文は気力に溢れる文体と詩情に溢れている。全く心配はないと推測した。だがしかし、旧知の友を次々と失うのは辛い。
近頃、その哀しみは主宰の背中から滲んでおられる。
略歴に、實さんは平成19年にからまつに入会されたとある。
だがしかし、句歴は長く平成8年にはつるまき俳句会、秦野山麓俳句協会に入会されておられる。高橋天雷師に師事。由利主宰も教えを受けた事があり、俳句の血脈は連綿として繋がっている。
この遺句集の編纂には「つるまき俳句会」の皆さんが御尽力されたと、これまた夫人のあとがきに記されている。その労を多としたい。
さて、遺句集である。
ぼくは、サラッと読了した。決して軽い句集ではないけれど、サラッと読み終わった。
實俳句は、正しく上善如水。
日本酒に例えれば、甘口でも辛口でもない旨口なのである。實さんには、酒をしたたかに飲んだ上での俳句は無いのだけれど、そんな口あたりの俳句であると見た。上善水の如し、サラッとしているのである。だがしかし、後からの余韻が心地良い。
下戸の實さん。上善如水の精神を、ど真ん中から貫いておられる。
夫人にお聞きしたところ、實さんはビール二杯でダウンされたそうである。
主宰も下戸だ。かくいうぼくも下戸である。下戸には下戸の気持が良く分かる。
酒席は嫌いではないのだけれど、酒飲みの面倒臭さと、厄介さと、そして倦怠感という彼我の海溝の深さである。
また、實さんは絵心も繊細であって、絵画の中に悠久の世界観を持っておられると見た。
遺句集に挿絵として控え目に置かれている「墨絵」。墨の濃淡で描きつつ、色を感じさせる筆使いを見た。
實俳句がそうである。墨絵のように詠まれつつ、そこにポイントとして色を落とす。そんな實俳句である。
實さんは、俳句の道に入って以降、絵を描くことは無かったという。俳句一筋であった。書斎を見れば、それが良く分かる。句集に差し込まれた墨絵には、ところどころ紙魚があって、却って一心不乱に俳句の道を極めんとした姿が浮かび上がってくるのである。
同時に鶴巻俳句会、現在の秦樹会の面々の魅力もまた見えてくる。實さんにとって、得難い句友だったのに違いない。
遺句集の實さんの遺影は、薔薇(おそらく紫雲という名前の)を背景にして少し頬を緩めておられる。眼鏡の奥の細い眼差しは暖かそうである。白くなった眉は少し下がり気味で、その斜度のまま眼差しが置かれている。白い帽子が良くお似合いである。
穏やかで、優しい日常だったのだろうと充分に理解できるのである。確かに、誰にお聞きしても穏やかで優しかったと言われる。
つづく
最初にお断りしておきたいのだけれど、この實俳句を語る時、ぼくの俳句は書き記さない。
この稿の最後に、追悼句を載せたいのである。
中里 實さんに哀悼の誠を捧げる。
ここから、鑑賞に入るのである。
實俳句
「墨絵その色彩との会話」
はじめに
實俳句を論じようと思う。
中里實さんの遺句集がリリースされたからである。
遺句集のカバーである。タイトルは「夢捨てず」とある。
1周忌を機に、夫人の春枝さんが墓前に捧げたのである。
夢は捨てるものに非ず、いかなる困難に出会おうとも持ち続けるべし!
麗しくも心に響く夫婦愛である。とりわけ、由利主宰の序文には胸を打たれた。近頃続いている、同人の逝去は主宰の心を蝕んでいないだろうか?などと勝手に心配していたのだったけれど、序文は気力に溢れる文体と詩情に溢れている。全く心配はないと推測した。だがしかし、旧知の友を次々と失うのは辛い。
近頃、その哀しみは主宰の背中から滲んでおられる。
略歴に、實さんは平成19年にからまつに入会されたとある。
だがしかし、句歴は長く平成8年にはつるまき俳句会、秦野山麓俳句協会に入会されておられる。高橋天雷師に師事。由利主宰も教えを受けた事があり、俳句の血脈は連綿として繋がっている。
この遺句集の編纂には「つるまき俳句会」の皆さんが御尽力されたと、これまた夫人のあとがきに記されている。その労を多としたい。
さて、遺句集である。
ぼくは、サラッと読了した。決して軽い句集ではないけれど、サラッと読み終わった。
實俳句は、正しく上善如水。
日本酒に例えれば、甘口でも辛口でもない旨口なのである。實さんには、酒をしたたかに飲んだ上での俳句は無いのだけれど、そんな口あたりの俳句であると見た。上善水の如し、サラッとしているのである。だがしかし、後からの余韻が心地良い。
下戸の實さん。上善如水の精神を、ど真ん中から貫いておられる。
夫人にお聞きしたところ、實さんはビール二杯でダウンされたそうである。
主宰も下戸だ。かくいうぼくも下戸である。下戸には下戸の気持が良く分かる。
酒席は嫌いではないのだけれど、酒飲みの面倒臭さと、厄介さと、そして倦怠感という彼我の海溝の深さである。
また、實さんは絵心も繊細であって、絵画の中に悠久の世界観を持っておられると見た。
遺句集に挿絵として控え目に置かれている「墨絵」。墨の濃淡で描きつつ、色を感じさせる筆使いを見た。
實俳句がそうである。墨絵のように詠まれつつ、そこにポイントとして色を落とす。そんな實俳句である。
實さんは、俳句の道に入って以降、絵を描くことは無かったという。俳句一筋であった。書斎を見れば、それが良く分かる。句集に差し込まれた墨絵には、ところどころ紙魚があって、却って一心不乱に俳句の道を極めんとした姿が浮かび上がってくるのである。
同時に鶴巻俳句会、現在の秦樹会の面々の魅力もまた見えてくる。實さんにとって、得難い句友だったのに違いない。
遺句集の實さんの遺影は、薔薇(おそらく紫雲という名前の)を背景にして少し頬を緩めておられる。眼鏡の奥の細い眼差しは暖かそうである。白くなった眉は少し下がり気味で、その斜度のまま眼差しが置かれている。白い帽子が良くお似合いである。
穏やかで、優しい日常だったのだろうと充分に理解できるのである。確かに、誰にお聞きしても穏やかで優しかったと言われる。
つづく