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「セクシー田中さん」原作・芦原妃名子さんが死去~原作の映像化について考える。コミックと映像の文体は違う。

2024年01月30日 | コミック・アニメ・特撮
『セクシー田中さん』の原作者・芦原妃名子先生が亡くなった。
 心からのお悔やみとご冥福をお祈りいたします。

 原作の映像化は難しい。
「小説・コミックの文体」と「映像の文体」が違うからだ。

 特にテレビドラマは60分の尺に収めなければならない。
 だから寄り道をしている暇がないし、監督の現場判断でカットされることもある。
『推しの子』でも描かれていたが、
 事務所との関係で下手な役者を使わなくてはならないこともあるし、
 事務所のプッシュで役者の出番を増やさなければならないこともある。
『セクシー田中さん』の場合、うるさい事務所や役者さんはいなさそうですけどね。

 だから自分の作品にこだわりをもつ作家さんは映像化を許諾しない方がいい。
「映像と原作は別物だから映像スタッフにお任せします」と割り切るくらいの方がいい。

 原作は「カルピスの原液」だ。
 作家の個性によって「オレンジカルピス」や「カルピスソーダ」になったりする。
 たとえば『ゴジラ』。
 庵野秀明さんも山崎貴さんも『ゴジラ』という設定を使って自分の世界を作っている。
『クレヨンしんちゃん』『ルパン三世』もそうだろう。
 一方、通常のテレビドラマは「カルピスの原液」を水で薄めたものと言える。
「カルピスの原液」は一般人には飲みにくい。だから水で薄めて飲みやすくする。
 だが原作ファンはそれでは物足りない。

 原作の映像化で成功した作品で思い浮かぶのは──
 映画『砂の器』
 映画『STAND BY ME ドラえもん』
 アニメ『うる星やつら ビューティフルドリーマー』
 アニメ『ルパン三世 カリオストロの城』
 いずれも橋本忍、野村芳太郎、山崎貴、押井守、宮崎駿といった一流の人たちだ。

 一方、下手なクリエイターに映像化された場合は悲惨なものになる。
 ……………………………………………………………………………………

 さて、今回の一番の問題はどこにあるのだろう?

 日テレにあると思う。
「コミックと映像はまったく別なものであること」を説明せず、映像化権を取るために原作者に期待を抱かせるような契約を結んだことがまずい。
 もししっかり説明していたら芦原先生は許諾しなかっただろう。
 あるいは、
 制作の過程で日テレが原作側とコミュニケーションを尽くさなかったことも悪い。

 そもそもこの日曜22時30分の日テレドラマ枠はトラブルが多い。
『城塚翡翠』でも原作者と揉めて、確か原作者が後半のシナリオを書いていた。
 現在放送中の『厨房のありす』は設定と演出がパク・ウンビンさんの某韓流ドラマに似ている。
 僕は門脇麦さんもパク・ウンビンさんも好きだから残念だ。

 もっともこの枠、『ブラッシュアップライフ』や『3年A組』のような名作もあるのだが……。

『セクシー田中さん』の脚本・相沢友子さんは挑発的なインスタの投稿はまずかった。
 聞く所に拠ると相沢さんと芦原先生は一度も会って話をしていないらしい。
 間に入っていたのは日テレのプロデューサー。
 相沢さんにしてみれば自分の脚本が直されて、9話10話を奪われたことは面白くなかっただろう。
 脚本家として理不尽を感じていただろうし、芦原先生も原作者として同様であったはず。
 ふたりがしっかり話をしていれば、今回のようなことは起きなかったかもしれない。

『セクシー田中さん』は好きな作品だっただけに残念だ。


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 「セクシー田中さん」作者・芦原妃名子さん急死。脚本めぐりトラブルか(サンスポ)


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6 コメント

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脚本家と原作者 (コウジ)
2024-02-11 09:27:40
2020-08-15 21:07:49さん

僕は会社員時代、映像のプロデューサーをやっていて、今はライターをやっているので、今回の件は経験上イメージできます。

脚本家と原作者を会わせるか否かはプロデューサーの判断次第。
脚本家はプロデューサーの判断・仕切りに従います。
クリエイター同士が直接会うと、多くの場合、ぶつかり合うので間に人が入った方がスムーズに進むので。

まあ、僕が「田中さん」のプロデューサーだったら、揉めそうだと思った段階で、相沢さんと芦原先生を会わせる判断をしますが。
僕はあまり優秀なPではなかったので。
「田中さん」のプロデューサーは「自分は仕切れる」という自信があったんでしょうね。
小学館にも芦原先生をコントロールできるという思いがあったのでしょう。
小学館と日テレの関係も頭の隅にあったかもしれません。

なので今回の責任の度合いは
日テレ>小学館>脚本家 だと思っています。
返信する
ラフマニノフ (2020-08-15 21:07:49)
2024-02-10 21:20:16
>ブログ本文でも書きましたが、問題なのは間に入っているプロデューサーや編集者だと考えています。

間に人が入れば電報ゲームになって齟齬が生じると考えるのであれば、直接話をしようと試みると思います(テレビの関係者さんや出版社の編集さんが同席するかどうかは別として)。
その「直接会おうとトライした」形跡がどうも見られないことと、お仲間とおぼしき脚本家K沢さんが「アタシは原作者には会わない派」といったことをSNSに書いたことから、話が余計にややこしくなったのかもしれません。
わたしのような部外者の素人としては、脚本家は原作者とそれなりに話をしているものと、何となく思っていたものですから、この「アタシは会わない派」という発言は驚きでもあり、一部には傲慢と考える人も出てきたわけですね。

動画ありがとうございます。やはりクラシック音楽の関係者には、関連づけて考える人もいるわけですね。
わたしが個人的に思っているのは、ラフマニノフのピアノ演奏です。19世紀末から20世紀の人なので、自作自演の録音も残っています。
現在の演奏家は、ラフマニノフの作品をロマンチックに演奏することが多いのですが、彼自身の自作演奏は、割と明快なタッチであっさりとしたアーティキュレーションのものが多く、正直に言えば「あれれ、こんなに素っ気なくていいの?」という印象です。
自作自演を最高とすれば、今の演奏家の演奏の多くは不合格になるかもしれませんが、ロマンチックな演奏も確かにラフマニノフです。

>演奏とは楽譜どおりに再現することではない。作曲家の精神を再現することだ
名言だと思います。
返信する
脚本家の気持ちはわからなくはない (コウジ)
2024-02-10 12:42:35
2020-08-15 21:07:49さん

脚本の相沢友子さん。
おそらく原作者にムカついていたんでしょうね。

相沢さんのコメントに拠れば、相沢さんは芦原先生がブログで書いていた経緯を「まったく知らなかった」とのこと。
だとすると、
・自分の脚本を原作者に修正されて面白くない。
・9話10話の執筆を奪われて悔しい。
と思ってもおかしくありません。
その不平不満が爆発してインスタグラムの投稿になってしまったのでしょう。
大人げないとは思いますが、その気持ちはわからないではありません。

ブログ本文でも書きましたが、問題なのは間に入っているプロデューサーや編集者だと考えています。
…………………………………………

作曲家と演奏者の改変については、下記の動画が面白かったです。
https://www.youtube.com/watch?v=-7glGgm9myU
シューベルト、ヴェルディは自分の楽譜どおりに演奏されないことに怒っていたようですね。
指揮者トスカニーニは楽譜を改変してプッチーニの曲を演奏したようですが、プッチーニはトスカニーニ版の方が優れていたので納得したとか。

今回の件の答えとして有効なのが、フルトベングラーの下記の言葉でしょうか。
「演奏とは楽譜どおりに再現することではない。作曲家の精神を再現することだ」
返信する
いろいろ思うこと (2020-08-15 21:07:49)
2024-02-10 11:44:50
いろいろな話が出てきましたね…

脚本家のK沢さんという方が、今回のできごとに関連して、SNSで何かおっしゃっているそうです。何でもK沢さんは「原作者には会わない派」だそうです。これって、どう解釈したらいいんでしょう。

また音楽の話をしますが、クラシック音楽では、作者の多くは死去しています。作曲者の名前と楽譜しか残っていないどころか、作曲者がわからない楽譜だけの作品もあります。
その少ない手がかりの中から、歴史的背景を考え作者の意図を探り、演奏をどう構築するか、演奏者はえらく苦労するわけです。タイムスリップでも恐山のイタコでも、作曲者に会って話ができれば話したいと思っている演奏者は多いでしょう。
そういったことで、クラシック音楽の世界では、作者に会って話をすることはとんでもなく贅沢なことなんですが、そういった世界があることを、売れっ子脚本家のみなさんは、考えたことがあるんでしょうか。

もっとも「作者と作品を峻別する」手法もあります。罪を憎んで人を憎まず、というのは悪い意味で使う言葉ですが、悪い意味ではなく、作者と作品を分けて、作品だけを純粋に解釈する方法です。
ただ、そうであれば脚本家も自分語りをしてはいけないでしょう。SNSなどやらずに、ご自分の作品だけに語らせればいいわけです。なのにあれこれおしゃべりしてしまうのは、図々しさなのか、エリート意識なのかは分かりませんが。

当該作品の脚本家のA沢さんも、SNSで「ドラマのラスト2回はわたしとは関係ありません、原作者が書いたので」といったことを発言したそうです(ただし、これはお亡くなりになる前のようです)。

一方、昨日かおとといか、小学館が著作者人格権に触れたコメントを出してきました。
小学館は、かつてドラえもんの同人誌を差し止めたことがありました。田嶋さん?という方の書いた話だったと思いましたが、非常にクオリティが高く、ドラえもんや藤子不二雄への愛も敬意もありました。
ただ、あまりにも出来がよく、広まってしまったために、ホンモノと誤解する人まで現れたことが差し止めの理由でしたが、悪意ある剽窃でなく、元ネタに敬意を表していても、人格権の侵害となるという珍しいパターンだったと思います。

本当にいろいろなことを考えさせられます。
返信する
映像化とクラシックの演奏は集団作業 (コウジ)
2024-01-31 09:05:14
2020-08-15 21:07:49さん

いつもありがとうございます。
おっしゃるとおり、映像化はクラシックの演奏に似ていますよね。
作曲家の譜面(原作)を指揮者(監督・脚本家)がどう解釈するか、演奏家(役者)の力量やセッションで作品が大きく変わって来ます。
コミックや小説は作家と編集者のふたりで完結しますが、映像制作やクラシックの演奏も集団作業なんですよね。
…………………………………………
文体の違いについて言えば、たとえばコミックはページをめくれば場面転換や時間経過を表わせますが、映像はそれなりに説明しなければなりません。
あるいは、コミックは大ゴマひとつで感情を表わせますが、映像は台詞を積み重ねなければならないこともあります。

もっとも今回の件は、上記のような「テクニックの問題」ではなく「作品の解釈の問題」が原因ですが、僕はドラマ『セクシー田中さん』を全話見ていて、芦原先生がテーマにした『自己肯定感の低い人の生きづらさと肯定』はしっかり描かれていたと思います。
周囲の登場人物たちは皆、田中さんを否定しませんし、逆に田中さんからさまざまな気づきをもらっていました。
良いドラマだったと思います。
まあ、これは芦原先生がシナリオを修正された結果かもしれませんが。

いずれにしても脚本の相沢友子さんを極端に叩くのはやめてほしいと考えています。
返信する
映像の文体 (2020-08-15 21:07:49)
2024-01-31 06:58:37
>「コミックと映像はまったく別なものであること」を説明せず、映像化権を取るために原作者に期待を抱かせるような契約を結んだことがまずい。

さすがコウジさんです。
これってけっこう重要なポイントで、ネットでは「原作へのリスペクトや愛が足りない」というご意見が圧倒的ですが、おっしゃるとおり、紙マンガと映像作品は全く別なんですね。
紙媒体(小説・マンガ・その他)は受け手が自分の好きなテンポで読めますが、映像作品(実写映画・アニメ)は、送り手のテンポに受け手が合わせないといけません。
この差は非常に大きくて、映像化の場合、送り手のテンポ設定が非常に重要になります。おっしゃるような「映像の文体」です。
これは、クラシック音楽の演奏なら非常に意識するところですが、同じ曲でも、演奏者によってテンポがまるで違うことがよくあるわけです。

つまり、紙媒体の映像化は「テンポをどう設定するか」が、とても重要なところなんですね。
純文学的な私小説を映像化する映像テンポと、スパイアクション小説を映像化するテンポはやはり違うわけです。

…といったことを、テレビ側の人が最初にきちんと伝えていれば、原作者とテレビ側の人とで、「どういうテンポ感リズム感で映像化しようか」といった基本的な共通認識や流れができて、うまく行っていたはずなんですよね。

それにしても、何でこんなことになるんでしょうか、悲しいですし、残念です。
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