これまで「チ。」のテーマについて書いて来たが、今回は異端審問官のノヴァクである。
地動説を唱える者を迫害してきたノヴァクは第22話で、その人生を否定される。
月日が流れて、地動説が許容されて来たのだ。
ノヴァクはアントニ司祭に言われる。
「地動説なんてものは単にひとつの仮説に過ぎない。
唯一の真理と主張するのは危ういかもしれんが、単純に数学的過程としての発想だ。
いったい、それに何の問題がある?
まあ、もし大地が実際に動いているにしてもその前提で聖書を読み返し、再解釈に努めるのが我々の役目だ」
「新しい発見や意見を拒絶するのではなく検討してより聖書の理解を深める。
そういう姿勢が今、信仰に最も必要なんじゃないのか?
それにむしろ太陽が中心であるという地動説の考えは三位一体の自然科学的な裏付けとも捉えられる。
これは神学的にも神を讃える素晴しい気づきかもしれんぞ」
この他にもノヴァクは「地動説を異端視して迫害したのはノヴァクだけだ」と告げられる。
哀れノヴァク!
彼は今まで何のために生きてきたのか?
彼の人生とは何だったのか?
でも客観的に見ると、人の人生ってこんなもの。
人は何らかの幻想を信じて生きている。
宗教はその最たるものだが、地位・名誉・お金があれば幸せになれる、は本当か?
幸せな家庭は幻想ではないのか?
「チ。」は「自分が大切にしている価値観が正しいのか」疑ってみようと語っている。
…………………………………………
議論となっている最終章(第24話・25話)について語ってみよう。
最終章では、今まで曖昧だった時代と国が明らかにされ実在の人物が登場する。
・1468年 ポーランド王国
・アルベルト・ブルゼフスキ
ブルゼフスキはコペルニスクスの師で、影響を与えた人物だ。
1話~23話まではフィクションだったのに、なぜここで実在の人物が出て来たのか?
第1章~3章(1話~23話)と最終章(24話・25話)の違いはなぜか?
最終章は現実世界なのに、なぜフィクション世界のラファウが登場したのか?
ラファウは死んだはずではなかったのか?
ネットではこんな説が語られている。
・多次元宇宙説(パラレルワールド説)
つまり第1章~3章と最終章は別次元の出来事だ、と考える説だ。
・ブルゼフスキの書いたフィクション説
つまり第1章~3章はブルゼフスキの書いたフィクションで、ラファウは現実にいる人物をモデルにしてブルゼフスキが創造したキャラクターである、と考える説。
僕個人としては「フィクション説」を採用したいが、腑に落ちない部分もある。
そして、これが作者の魚豊先生の意図したことなのだと思う。
「腑に落ちないこと」「もやもやしていること」「答えが見つからないこと」
これこそが魚豊先生の狙い。
魚豊先生は読者や視聴者に大いに考えてほしい、迷ってほしいと思っている。
つまり「タウマゼイン」であり「?」だ。
今、僕は「フィクション説」を採用しているが、ある時、別の解釈が思い浮かぶかもしれない。
ドラマのカタルシスとしては23話で終わらせた方がよかったんですけどね。
作家は24話・25話を加えることで、読者・視聴者を混乱させる道を選んだ。
地動説を探求した登場人物たちのように「美しい解釈を求めて考え続けること」。
これこそが「チ。」という作品だからだ。
※関連記事
「チ。--地球の運動についてー」を読み解く①
「チ。--地球の運動についてー」を読み解く②
地動説を唱える者を迫害してきたノヴァクは第22話で、その人生を否定される。
月日が流れて、地動説が許容されて来たのだ。
ノヴァクはアントニ司祭に言われる。
「地動説なんてものは単にひとつの仮説に過ぎない。
唯一の真理と主張するのは危ういかもしれんが、単純に数学的過程としての発想だ。
いったい、それに何の問題がある?
まあ、もし大地が実際に動いているにしてもその前提で聖書を読み返し、再解釈に努めるのが我々の役目だ」
「新しい発見や意見を拒絶するのではなく検討してより聖書の理解を深める。
そういう姿勢が今、信仰に最も必要なんじゃないのか?
それにむしろ太陽が中心であるという地動説の考えは三位一体の自然科学的な裏付けとも捉えられる。
これは神学的にも神を讃える素晴しい気づきかもしれんぞ」
この他にもノヴァクは「地動説を異端視して迫害したのはノヴァクだけだ」と告げられる。
哀れノヴァク!
彼は今まで何のために生きてきたのか?
彼の人生とは何だったのか?
でも客観的に見ると、人の人生ってこんなもの。
人は何らかの幻想を信じて生きている。
宗教はその最たるものだが、地位・名誉・お金があれば幸せになれる、は本当か?
幸せな家庭は幻想ではないのか?
「チ。」は「自分が大切にしている価値観が正しいのか」疑ってみようと語っている。
…………………………………………
議論となっている最終章(第24話・25話)について語ってみよう。
最終章では、今まで曖昧だった時代と国が明らかにされ実在の人物が登場する。
・1468年 ポーランド王国
・アルベルト・ブルゼフスキ
ブルゼフスキはコペルニスクスの師で、影響を与えた人物だ。
1話~23話まではフィクションだったのに、なぜここで実在の人物が出て来たのか?
第1章~3章(1話~23話)と最終章(24話・25話)の違いはなぜか?
最終章は現実世界なのに、なぜフィクション世界のラファウが登場したのか?
ラファウは死んだはずではなかったのか?
ネットではこんな説が語られている。
・多次元宇宙説(パラレルワールド説)
つまり第1章~3章と最終章は別次元の出来事だ、と考える説だ。
・ブルゼフスキの書いたフィクション説
つまり第1章~3章はブルゼフスキの書いたフィクションで、ラファウは現実にいる人物をモデルにしてブルゼフスキが創造したキャラクターである、と考える説。
僕個人としては「フィクション説」を採用したいが、腑に落ちない部分もある。
そして、これが作者の魚豊先生の意図したことなのだと思う。
「腑に落ちないこと」「もやもやしていること」「答えが見つからないこと」
これこそが魚豊先生の狙い。
魚豊先生は読者や視聴者に大いに考えてほしい、迷ってほしいと思っている。
つまり「タウマゼイン」であり「?」だ。
今、僕は「フィクション説」を採用しているが、ある時、別の解釈が思い浮かぶかもしれない。
ドラマのカタルシスとしては23話で終わらせた方がよかったんですけどね。
作家は24話・25話を加えることで、読者・視聴者を混乱させる道を選んだ。
地動説を探求した登場人物たちのように「美しい解釈を求めて考え続けること」。
これこそが「チ。」という作品だからだ。
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