「チ。─地球の運動について─」を全話見た。
地動説をめぐる人々の物語である。
フベルト(CV速水奨)→ラファウ(CV坂本真綾)→オクジー(CV小西克幸)→バデーニ(CV中村悠一)→ヨレンタ(CV仁見紗綾)→ドゥラカ(CV島袋美由利)
地動説はこれらに人々によって引き継がれる。
最初、地動説は膨大な星の観測データを収納した「石の函」の中に。
次はパディーニの論文。
パディーニは「石の函」のデータと宇宙論の大家のデータで「地動説」を論文にする。
しかし論文は焼失……。
地動説はその概要を書いた簡単なオクジーの本に託される。
しかし、その本も燃やされて……。
地動説はドゥラカの頭の中の記憶に託される。
ヨレンタはドゥラカの記憶をもとに原稿をつくり活版印刷で地動説を広く世に伝えようとするが、
異端審問官の部隊がやって来て挫折……。
地動説はふたたびドゥラカの記憶に託される。
壮大なドラマだ。
「石の函」→「論文」→「概略本」→「記憶」→「印刷」→「記憶」
綱渡りをするように「地動説」が危うい状態で引き継がれていく所が面白い。
何しろ最後は「ドゥラカの記憶」ですからね。
ドゥラカが死んでしまったら「地動説」は世界から消えてしまう。
その結果がどうなるかはぜひアニメ本編を見て下さい。
………………………………………………
さて以上が物語の縦糸。
「チ。」の魅力はその横糸にもある。
つまり登場人物たちがかわす会話だ。
ひとつは「感動」と「好奇心」
地動説を知って登場人物たちはその美しさに感動する。
ラファウはその感動のために死んでもいいと思い、
オクジーは地上の世界を肯定し夜空を見上げることができるようになる。
一方、地動説を「感動」や「好奇心」と捉えない人物も出て来る。
バデーニは地動説を発表することで歴史に名を刻みたいと考えている。
ドゥラカは地動説を活版印刷で出版して大儲けしたいと考えている。
何と作者は「感動」と「好奇心」というテーマをバデーニとドゥラカで否定してしまった。
ラファウとオクジーの動機は純粋だが、パディーニとドゥラカは現世的俗物的だ。
「チ。」は「二律背反」の作品なのだ。
作者はひとつの主張だけを正しいとしない。
必ず反論や否定を用意する。
異端解放戦線のヨレンタの動機も二律背反的だ。
ヨレンタは自分の役割を「地動説を次の世代に伝えること」と考えていて、これは純粋な動機だ。
だが一方でこんなことも言う。
「わたしは取り返しているだけ。教会に奪われた自由と人生を。父と友を。
個人の自由を制限する権威は打倒されるべき」
この主張は美しさとは程遠く、復讐であり政治的だ。
さて、「チ。」ではこの他にも二律背反が描かれるのだが、それは次回!
※参考
二律背反(「広辞苑」より引用)
相互に矛盾し対立する二つの命題が同じ権利をもって主張されること。
カントは理性だけで世界全体の根本的問題を解決しようとすると二律背反に陥ることを指摘した。
地動説をめぐる人々の物語である。
フベルト(CV速水奨)→ラファウ(CV坂本真綾)→オクジー(CV小西克幸)→バデーニ(CV中村悠一)→ヨレンタ(CV仁見紗綾)→ドゥラカ(CV島袋美由利)
地動説はこれらに人々によって引き継がれる。
最初、地動説は膨大な星の観測データを収納した「石の函」の中に。
次はパディーニの論文。
パディーニは「石の函」のデータと宇宙論の大家のデータで「地動説」を論文にする。
しかし論文は焼失……。
地動説はその概要を書いた簡単なオクジーの本に託される。
しかし、その本も燃やされて……。
地動説はドゥラカの頭の中の記憶に託される。
ヨレンタはドゥラカの記憶をもとに原稿をつくり活版印刷で地動説を広く世に伝えようとするが、
異端審問官の部隊がやって来て挫折……。
地動説はふたたびドゥラカの記憶に託される。
壮大なドラマだ。
「石の函」→「論文」→「概略本」→「記憶」→「印刷」→「記憶」
綱渡りをするように「地動説」が危うい状態で引き継がれていく所が面白い。
何しろ最後は「ドゥラカの記憶」ですからね。
ドゥラカが死んでしまったら「地動説」は世界から消えてしまう。
その結果がどうなるかはぜひアニメ本編を見て下さい。
………………………………………………
さて以上が物語の縦糸。
「チ。」の魅力はその横糸にもある。
つまり登場人物たちがかわす会話だ。
ひとつは「感動」と「好奇心」
地動説を知って登場人物たちはその美しさに感動する。
ラファウはその感動のために死んでもいいと思い、
オクジーは地上の世界を肯定し夜空を見上げることができるようになる。
一方、地動説を「感動」や「好奇心」と捉えない人物も出て来る。
バデーニは地動説を発表することで歴史に名を刻みたいと考えている。
ドゥラカは地動説を活版印刷で出版して大儲けしたいと考えている。
何と作者は「感動」と「好奇心」というテーマをバデーニとドゥラカで否定してしまった。
ラファウとオクジーの動機は純粋だが、パディーニとドゥラカは現世的俗物的だ。
「チ。」は「二律背反」の作品なのだ。
作者はひとつの主張だけを正しいとしない。
必ず反論や否定を用意する。
異端解放戦線のヨレンタの動機も二律背反的だ。
ヨレンタは自分の役割を「地動説を次の世代に伝えること」と考えていて、これは純粋な動機だ。
だが一方でこんなことも言う。
「わたしは取り返しているだけ。教会に奪われた自由と人生を。父と友を。
個人の自由を制限する権威は打倒されるべき」
この主張は美しさとは程遠く、復讐であり政治的だ。
さて、「チ。」ではこの他にも二律背反が描かれるのだが、それは次回!
※参考
二律背反(「広辞苑」より引用)
相互に矛盾し対立する二つの命題が同じ権利をもって主張されること。
カントは理性だけで世界全体の根本的問題を解決しようとすると二律背反に陥ることを指摘した。
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