「兄上と酒を酌み交わしとうございます!」
「これは今生の別れではない」
兄弟の気持ちがあらわれたやりとりでしたね。
幸村(堺雅人)は、これが最期だから兄と別れの酒を飲みたいと思っている。
信之(大泉洋)は、幸村は死なないと信じているから、別れの酒を飲まない。
それぞれの気持ちが伝わってくる。
僕は信之の考え方が好きだな~。
………………
言葉というのは、たったひと言でも通じ合うものなんですね。
幸村と伊達政宗(長谷川朝晴)がそうだった。
「徳川にまともな武士はおらんのか!」
この幸村のせりふは単に敵を挑発したものではない。
大義は豊臣にあるのに、徳川に荷担している者は〝まともな武士〟ではない、と叫んでいるのだ。
これを政宗は理解した。
このいくさは徳川が因縁をつけて起こしたもので大義がないことを痛感していた。
だから幸村を追撃しなかった。
戦場でわかり合い、認め合うふたり。
そんな政宗だから、幸村は妻子を託したのだろう。
一方、通じ合わない会話もある。
家康(内野聖陽)と上杉景勝(遠藤憲一)だ。
腹を割って話そうという家康に景勝は、このいくさに大義がないことを知っているから、やましさを感じているのでは? と問う。
しかし、家康は、とぼけているのか、理解できていないのか、質問に答えない。
話が幸村に及ぶと、景勝はしみじみと、
「あの男はわしがそうありたいと思っていた人生を生きておる」
と語ったが、家康は怒りをあらわに、
「真田め~~っ!」
完全に平行線のふたり(笑)
ふたりは最後まで理解し合えなかった。
家康には〝義〟という観念がないのかもしれない。
………………
死に関しては、わりとあっさりでしたね。
名刺を配りまくっていた塙団右衛門は一発の銃弾であっけなく倒れた。
後藤又兵衛(哀川翔)は、最期に「面白いいくさができた」「やっと死に場所を得られた」と語るのかと思ったが、これもあっさり。
木村重成は、秀頼や豊臣の行く末を案じて死ぬかと思ったが、これもスルー。
脚本の三谷幸喜さんは<死を美しく描くこと>や<死の感傷>には、あまり興味がないようだ。
むしろ、生きてバカをやっている人に共感し、詳細に書いている。
名刺を配りまくって大名になることを夢見ていた塙団右衛門。
自分の所に声が掛からないで不満たらたらの毛利勝永(岡本健一)。
みんな、愉快で愛おしい人たちだ。
秀頼のために兵糧を運ぶと力説していた平野長泰(近藤芳正)が、徳川側に見つかると手のひら返しをしたことも人間らしい行為として描かれている。
どのような形であれ、生きていることは愛おしくて素晴らしい。
死んでしまえば、それで終わり。
生を肯定すること、これが喜劇作家の姿勢。
………………
本多正信(近藤正臣)も最後に見せましたね。
老齢で軍議の場でも居眠りをしてしまうような正信。
だが目を覚ますと、神のような策を披露する。
「はい。これで又兵衛の命運は尽きました」
又兵衛の命は正信の手のひらの上で転がされていた。
今回、一番怖ろしいせりふだ。
どんな脇役にも見せ場をつくる三谷幸喜作品。
………………
最後はきり(長澤まさみ)。
「源次郎様がいない世にいてもつまらないから」
「遅い! せめて10年前に言って下されば。
あの頃は私が一番きれいだったのですから」
恨み節だが、喜びも伝わってくるせりふだ。
はっきり描かれていないが、きりがここに至るまでには、さまざまな葛藤、あきらめ、心の整理、折り合いがあったのだろう。
総集編は、ぜひ、きりのナレーションでやってほしい。
たくさんの出来事に対して、きりが何を感じ、何を考えたかを知りたい。
次回はついに最終回。
「これは今生の別れではない」
兄弟の気持ちがあらわれたやりとりでしたね。
幸村(堺雅人)は、これが最期だから兄と別れの酒を飲みたいと思っている。
信之(大泉洋)は、幸村は死なないと信じているから、別れの酒を飲まない。
それぞれの気持ちが伝わってくる。
僕は信之の考え方が好きだな~。
………………
言葉というのは、たったひと言でも通じ合うものなんですね。
幸村と伊達政宗(長谷川朝晴)がそうだった。
「徳川にまともな武士はおらんのか!」
この幸村のせりふは単に敵を挑発したものではない。
大義は豊臣にあるのに、徳川に荷担している者は〝まともな武士〟ではない、と叫んでいるのだ。
これを政宗は理解した。
このいくさは徳川が因縁をつけて起こしたもので大義がないことを痛感していた。
だから幸村を追撃しなかった。
戦場でわかり合い、認め合うふたり。
そんな政宗だから、幸村は妻子を託したのだろう。
一方、通じ合わない会話もある。
家康(内野聖陽)と上杉景勝(遠藤憲一)だ。
腹を割って話そうという家康に景勝は、このいくさに大義がないことを知っているから、やましさを感じているのでは? と問う。
しかし、家康は、とぼけているのか、理解できていないのか、質問に答えない。
話が幸村に及ぶと、景勝はしみじみと、
「あの男はわしがそうありたいと思っていた人生を生きておる」
と語ったが、家康は怒りをあらわに、
「真田め~~っ!」
完全に平行線のふたり(笑)
ふたりは最後まで理解し合えなかった。
家康には〝義〟という観念がないのかもしれない。
………………
死に関しては、わりとあっさりでしたね。
名刺を配りまくっていた塙団右衛門は一発の銃弾であっけなく倒れた。
後藤又兵衛(哀川翔)は、最期に「面白いいくさができた」「やっと死に場所を得られた」と語るのかと思ったが、これもあっさり。
木村重成は、秀頼や豊臣の行く末を案じて死ぬかと思ったが、これもスルー。
脚本の三谷幸喜さんは<死を美しく描くこと>や<死の感傷>には、あまり興味がないようだ。
むしろ、生きてバカをやっている人に共感し、詳細に書いている。
名刺を配りまくって大名になることを夢見ていた塙団右衛門。
自分の所に声が掛からないで不満たらたらの毛利勝永(岡本健一)。
みんな、愉快で愛おしい人たちだ。
秀頼のために兵糧を運ぶと力説していた平野長泰(近藤芳正)が、徳川側に見つかると手のひら返しをしたことも人間らしい行為として描かれている。
どのような形であれ、生きていることは愛おしくて素晴らしい。
死んでしまえば、それで終わり。
生を肯定すること、これが喜劇作家の姿勢。
………………
本多正信(近藤正臣)も最後に見せましたね。
老齢で軍議の場でも居眠りをしてしまうような正信。
だが目を覚ますと、神のような策を披露する。
「はい。これで又兵衛の命運は尽きました」
又兵衛の命は正信の手のひらの上で転がされていた。
今回、一番怖ろしいせりふだ。
どんな脇役にも見せ場をつくる三谷幸喜作品。
………………
最後はきり(長澤まさみ)。
「源次郎様がいない世にいてもつまらないから」
「遅い! せめて10年前に言って下されば。
あの頃は私が一番きれいだったのですから」
恨み節だが、喜びも伝わってくるせりふだ。
はっきり描かれていないが、きりがここに至るまでには、さまざまな葛藤、あきらめ、心の整理、折り合いがあったのだろう。
総集編は、ぜひ、きりのナレーションでやってほしい。
たくさんの出来事に対して、きりが何を感じ、何を考えたかを知りたい。
次回はついに最終回。
私はむしろ、三谷氏は<死の感傷>を効果的に描写しているように思いました。
というのも、今回の全体を通じて私自身が受けた感じは「物悲しい寂しさ」のトーンだったからです。
回数の蓄積はあまり無い「大坂の陣」編から登場した人々を
>みんな、愉快で愛おしい人たち
として精一杯描いてきているからこそ、死そのものの描写はあっけないほどで簡潔であっても、次々と消えてゆく仲間たちに対する思いが喚起されているように思いました。
>信之は、幸村は死なないと信じているから、別れの酒を飲まない。
これも私の解釈は微妙に違っていて、「これが最期だから」という幸村の思いを承知の上で、あえてこれを受けないことによって「死なないでくれ」という思いを示していた、と理解しました。
>幸村を追撃しなかった。戦場でわかり合い、認め合うふたり。
>そんな政宗だから、幸村は妻子を託したのだろう。
これはまったく同感です。私好みのいいシーンでした。
実際に春たちを迎えた際には、かつて秀吉をもてなした時と同じ「ずんだ餅」を振る舞ったところも良かったと思いました。
>「遅い! せめて10年前に言って下されば。 あの頃は私が一番きれいだったのですから」
おっしゃるとおりですが、この期に及んでもなおきりらしい、と思いました。
印象的だったのは「高梨内記の娘については…」とあえて史実解説的なナレーションを重ねていたところ。
この散文的な解説が却って場面を劇的なものとしていたように感じました。
総じて今回と次回との2回で最終回で、今回はその「前編」という感じがしました。
「物悲しく寂しい」前編の雰囲気が「後編」の最終回本番ではどのように展開するのかに注目したいと思います。
いつもありがとうございます。
>精一杯描いてきているからこそ、死そのものの描写はあっけないほどで簡潔であっても、次々と消えてゆく仲間たちに対する思いが喚起されている。
おっしゃりとおりですね。
生がしっかり描かれているから、視聴者はわざわざ描かなくても想像できるですよね。
又兵衛は「面白いいくさができた」と考えて死んでいったと思うし、木村重成は豊臣家の行く末を心配して死んでいった。
このあたりは、視聴者の想像力に委ねている気がします。
幸村と政宗についても、短いシーンでしたが、ふたりの関係がポイントを押さえて描かれていたから、唐突感がないんですよね。
TEPOさんは「物悲しさ」や「寂しさ」を感じられたんですね。
僕は何だろう。
来週、その答えを出せるような気がしています。
あれは以前秀吉にずんだ餅を振舞った宴のあとの夜に政宗と幸村が井戸のそばで仲良く話をしたときに政宗が「もう10年早く生まれていたら・・・」と話しながら刀で空を切った時とまったく同じしぐさでしたね。
たぶんあのしぐさで政宗と幸村は瞬時にわかりあったのではないでしょうか
教えていただきありがとうございます。
あれは井戸のシーンと同じ仕草だったんですね。
お互い敵として相まみえているが、「もう10年早く生まれていたら」という思いは同じ。
政宗にとっては、「数万の兵を動かして、いくさをしている」幸村がうらやましかったのかもしれませんね。
ひとつ前のコメントにも書きましたが、たったひとつのシーンを伏線して、このようなドラマをつくってしまうのはたいしたものですね。
大河ドラマ:平清盛の「俺は、生きる野良犬の叫びが、このおもろない世を変えるまで」と言うセリフで、検索でしたらこのブログにたどりつきました。平清盛は、すごく好きで毎週楽しみにしていたのに、主に視聴率のことで、叩かれて腹立っていました。ちゃんと内容をみて、評価しておられていてうれしいです。
真田丸は途中からですが、視聴しています。いよいよ、あと一回で、最終回ですね。真田丸に関しても、色々書きたいことはありますが、平清盛も真田丸もちゃんと人間を書いているのが、いいですよね。ちゃんと血を通った人間としてかいている。だからこそ、死を必要以上に、劇的に書く必要がないと思って表面的には、淡々かいているようでも、しっかりここにその死に様が胸に響くと思いますね。平清盛も真田丸もそんな作品だとおもいます。
なんか、まとまりがないコメントですが、これからも更新、楽しみにしています。
初めまして。
コメントありがとうございます。
>平清盛も真田丸もちゃんと人間を書いているのが、いいですよね。
まさにこれですよね。
「清盛」に登場する人物のアクの強さはすごくて、これを受けつけない視聴者もいたのでしょうが、すべての人が考え、悩みながら、必死に生きている。
「真田丸」は「清盛」に比べると薄口ですが、すべての人物が三谷幸喜の人間観に裏打ちされている。
幸村の死に様はどのように描かれるのでしょうね。
突進して、馬上筒を撃つところでカット。
次のシーンで信之たちによる後日談みたいな形になるのでしょうか。
今後ともよろしくお願いします。
本文と返信について、ちょっと感想なんぞを思いまして、コメントさせていただきます。
>家康には〝義〟という観念がないのかもしれない。
ここですが、景勝も信繁もそれぞれ主(豊臣家)に対する義をもっていますが、それはあくまでも、家臣という立場にいられるからなんですね。家康さんは、天下人なんですから、国家万民の為に、政をおこなくてはいけない。その為に、本来、主である豊臣家を滅ぼすことを覚悟したんだと思いますね。そこのところを、景勝さんに察してほしかったんだと思いますよ。
かつて、信繁にたいして「太閤殿下が死んで世の中が乱れてはしょうがない」と言ってましたけど、結局、家康さんが太平の世をつくったことは紛れもない事実ですからね。感情にながされずに、己の使命をまっとうする覚悟。それが家康さんの義なんだとおもいます。(どうも、家康さんを弁護したがる所がありまして、どうもすいません。)
>「清盛」に登場する人物のアクの強さはすごくて
ここなんですが、「平清盛」はボケ約だった清盛と時子さんが中盤からしっかりしてきて、ボケる所がなくなってしまった。それが、物語から潤いがなくなってしまったのかなと思いますね。「真田丸」は、きりちゃんというボケ役(馬鹿という意味でない)が、物語の潤いを失わずにすんでいると思いますね。まあ、清盛と信繁では全然立場がちがいますけどね。
すいません。長いコメントになってしまいました。
ふたたびコメントありがとうございます。
『真田丸』からは離れますが、僕も〝家康派〟なんです。
何だかんだ言って、260年の平和をつくったのは大きい。
この平和の結果、文化も生まれた。(逆に、富国強兵で戦争への道を突き進んだ薩長は嫌いなんです)
昨日の最終回でも家康は、「いくさで物事を解決する時代は終わり、今回のいくさは太平の世のためには必要なこと」みたいなことを言っていましたよね。
おっしゃるとおり、〝義〟という言葉は抽象的な言葉で、立場によって、さまざまな〝義〟がある。
安定した平和な世をつくることが、家康の義なんですよね。
物語の潤いというのも大事ですよね。
これが絶妙のスパイス、隠し味になる。
三谷さんはこのスパイスの効かせ方が上手いですよね。
信繁以外のすべての人物に何らかの隠し味を仕込んでいる感じがします。