現代における「対話」の重要性を説いている劇作家・演出家の平田オリザ氏。
1
「対話」とは何か?
まず平田氏は「会話」と「対話」をこう定義している。
「会話」……よく知った者どうしの気楽なおしゃべり。
「対話」……お互いのことをよく知らない者どうしが「知らない」ということを前提にして行う意識的なコミュニケーション。
そして「対話」の具体的なあり方として、中山義道氏の「対話のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの」から引用してこう書いている。
1.自分の人生の実感や体験を消去してではなく、むしろそれらを引きずって語り、聞き、対話すること。
2.相手との対立をみないようにする、あるいは避けようとする態度を捨て、むしろ相手との対立を積極的に見つけていこうとすること。
3.相手との見解が同じか違うかという二分法を避け、相手との些細な「違い」を大切にし、それを「発展」させること。
4.自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対して、つねに開かれてあること。
ここで重要なのは、どちらかが正しいか間違っているかではなく、「違い」を明確にし、それを「発展」させていくということだ。
これはディベートとは大きく違う。
そして平田氏は「忠臣蔵」を例に挙げて「対話」をこう具体的に説明している。
事件が起こる前までの赤穂浪士は藩の雑務を円滑に進めるための「会話」だけを繰り返していた。ところが彼らは思ってもみなかった事態に直面し、初めて個々人の人生観、世界観(藩や忠義に対する考え方など)の相違を認識した。おそらく彼らは隣にいる人間がこうも自分と違った考え方をしていたかと驚いたろう。この驚き、戸惑いが疑心暗鬼を呼び、忠義と裏切りの物語を生み出して、「忠臣蔵」を不朽の名作にした。
そして価値観の差異に気づいた義士たちは意見を表明し、他人の意見に耳を傾け、最終的な結論を出して行動する。
2
平田氏はこうした「対話」の文化が明治以前の日本にはなかったと指摘する。
理由は日本がほとんど他国と交流・摩擦のない鎖国状態であったこと。農民は一生農民で同じ土地にずっと暮らし、他地域の違ったものに触れることがなかったこと。
つまり「他者」と関わることがなかったからだと言う。
確かに同じ土地にずっと住んで、同じ人間と関わっていれば、言葉を尽くさなくても「何となくわかる」という状態になる。
よく言われる日本人のコミュニケーションだ。
平田氏は明治になって他国の異質なものに触れざるを得なくなった時に、明治の人たちは別の言葉を生み出していったと言う。
つまり「演説の言葉」「討論・裁判の言葉」「教授の言葉」などなど。
しかし、これらは「対話」の言葉ではない。
「対等な人間関係に基づく、異なる価値のすりあわせのための日本語」ではない。
明治の人たちは「対話」の言葉を生み出して来なかった。
それは現在もそうだと平田氏は言う。
その理由に関して、平田氏はこう書いている。
「明治以降130年、日本は異なる価値観をすりあわせていく必要がなかったのだ。戦前は「富国強兵」、戦後は「復興」あるいは「高度経済成長」という大目標に向かって、日本国民は邁進してきた。その大目標から外れる価値は、抹殺、弾圧、あるいは無視され、「対話」を生み出す機会はなかったのだ」
なるほど。
日常レベルの細かい事例を見れば違ってくるだろうが、国家・日本人レベルの大きな視点で見ればこの主張は正しいと思う。
では、今後、日本はどんな「対話」の社会を作って行かなくてはならないのだろうか?
それは次回に。
(「対話のレッスン」平田オリザ・著 小学館より)
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「対話」とは何か?
まず平田氏は「会話」と「対話」をこう定義している。
「会話」……よく知った者どうしの気楽なおしゃべり。
「対話」……お互いのことをよく知らない者どうしが「知らない」ということを前提にして行う意識的なコミュニケーション。
そして「対話」の具体的なあり方として、中山義道氏の「対話のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの」から引用してこう書いている。
1.自分の人生の実感や体験を消去してではなく、むしろそれらを引きずって語り、聞き、対話すること。
2.相手との対立をみないようにする、あるいは避けようとする態度を捨て、むしろ相手との対立を積極的に見つけていこうとすること。
3.相手との見解が同じか違うかという二分法を避け、相手との些細な「違い」を大切にし、それを「発展」させること。
4.自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対して、つねに開かれてあること。
ここで重要なのは、どちらかが正しいか間違っているかではなく、「違い」を明確にし、それを「発展」させていくということだ。
これはディベートとは大きく違う。
そして平田氏は「忠臣蔵」を例に挙げて「対話」をこう具体的に説明している。
事件が起こる前までの赤穂浪士は藩の雑務を円滑に進めるための「会話」だけを繰り返していた。ところが彼らは思ってもみなかった事態に直面し、初めて個々人の人生観、世界観(藩や忠義に対する考え方など)の相違を認識した。おそらく彼らは隣にいる人間がこうも自分と違った考え方をしていたかと驚いたろう。この驚き、戸惑いが疑心暗鬼を呼び、忠義と裏切りの物語を生み出して、「忠臣蔵」を不朽の名作にした。
そして価値観の差異に気づいた義士たちは意見を表明し、他人の意見に耳を傾け、最終的な結論を出して行動する。
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平田氏はこうした「対話」の文化が明治以前の日本にはなかったと指摘する。
理由は日本がほとんど他国と交流・摩擦のない鎖国状態であったこと。農民は一生農民で同じ土地にずっと暮らし、他地域の違ったものに触れることがなかったこと。
つまり「他者」と関わることがなかったからだと言う。
確かに同じ土地にずっと住んで、同じ人間と関わっていれば、言葉を尽くさなくても「何となくわかる」という状態になる。
よく言われる日本人のコミュニケーションだ。
平田氏は明治になって他国の異質なものに触れざるを得なくなった時に、明治の人たちは別の言葉を生み出していったと言う。
つまり「演説の言葉」「討論・裁判の言葉」「教授の言葉」などなど。
しかし、これらは「対話」の言葉ではない。
「対等な人間関係に基づく、異なる価値のすりあわせのための日本語」ではない。
明治の人たちは「対話」の言葉を生み出して来なかった。
それは現在もそうだと平田氏は言う。
その理由に関して、平田氏はこう書いている。
「明治以降130年、日本は異なる価値観をすりあわせていく必要がなかったのだ。戦前は「富国強兵」、戦後は「復興」あるいは「高度経済成長」という大目標に向かって、日本国民は邁進してきた。その大目標から外れる価値は、抹殺、弾圧、あるいは無視され、「対話」を生み出す機会はなかったのだ」
なるほど。
日常レベルの細かい事例を見れば違ってくるだろうが、国家・日本人レベルの大きな視点で見ればこの主張は正しいと思う。
では、今後、日本はどんな「対話」の社会を作って行かなくてはならないのだろうか?
それは次回に。
(「対話のレッスン」平田オリザ・著 小学館より)