桃井章の待ち待ち日記

店に訪れる珍客、賓客、酔客…の人物描写を
桃井章の身辺雑記と共にアップします。

2012・6・27

2012年06月28日 | Weblog
昨日の日記は何だか尻切れとんぼで終わっていますねとスタッフのHKに言われる。さすが脚本を書くだけあってちゃんと文章を読めるんだなと感心したのは、母とタイ風カレーにバナナのニンニクバターソティで食事した後、満腹になってそのまま日記を書き出したら眠気に襲われ且つ書き出した時に想定していた論理展開を忘れてしまって、もう面倒くさくなってあんな風にまとめてしまった後ろめたさがあったからだ。翌日になって昨日の日記の補遺というのも変だけど、ちょっと気になっているので付け足すと、昨日の日記のテーマは異性に「モテル」ということはどんなことどんな状態なのかということだったのだ。確かにこれまでに何人かの女性と真剣につきあってきた。確か何人かの女性とは遊びでつきあってきた。そして確かに俺の廻りには女友達が大勢いる。でも、これって「モテテ」いることなのか?独身でいる時期が長ければ恋人ができても自然だろうと思うし、男と女のアクシデントだって時には起きるし、「女性的」に振る舞っていれば「女友達」もできるものだ。でも、これって断じて「モテテ」いることではない。「モテル」っていうのは、「同じ時期に」「複数の女性」から「異性として」好感を持たれる、ハッキリ言えば「抱かれたい」と思われることだと規定すると、俺の場合は全然「モテル」内に入らない。親しまれているだけだ。いや、それで何が不満なのかと問われたら、いえ別にとしか答えようがないし、ここで長々と「モテテ」いると誤解されている60男の「モテル論」を聞かされても何の意味もないだろうからこの辺で終わるけど、「モテル」ことは無理でも、いつまでも「艶っぽく」ありたいとは願うわけで、「SEXY APPEAL」は無理でも「SIXTY APPEAL」は常に発している男でありたいと思う訳で、それは「オンナ、女、おんな」といつも頭の中で妄想を駆り立てて、「性的人間」じゃないと成立しない気がして(ちょっと論理破綻か)どんないい女性が来るのだろうと期待に胸膨らませて店に出勤した今日。確かに高校の同期ではマドンナ中のマドンナのIちゃんがきてくれたことはきたのだけど、ご主人のHさんとその友人五人と一緒だったし、その六人が六人、鰯をオーダーしてくれて美味しい美味しいと食べてくれたのは嬉しかったのだけど、俺の髪の毛や衣服には六尾の鰯を焼いた煙の匂いが染みついて、たとえ何かの偶然でそんなチャンスが訪れても、俺はとても女性を抱きしめる体ではなくなっていた。