パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

3.11に思うこと

2012-03-09 23:08:44 | Weblog
 明日は3月11日。(「今日になってしまった」)

 記念番組だらけだろうと思うと、今からうんざりする。

 さっきも、NHKで、「被災地から離れたところに住んでいる人が被災者を励ますためにしてあげられること」というテーマで、ひげ面の私と同年輩の親父(どこかの教授あたりだろう)が、いろいろ語っていたが、きれいごとばっかり!

 「被災地の瓦礫を受け入れること」の一言が言えなくてどうする!

 と言うと「放射能の恐怖を考えると、拒否する人の気持ちもわかる」てな言い訳を言うに違いないが、震災後間もなく、天皇陛下じかじかの要請により放送されたビデオメッセージで陛下がなんと仰られたか。

 「……また国民の一人一人が被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心から願っています。」

 これが何を意味するか?

 遠隔地の住民が「瓦礫を受け入れること」に他ならない。

 日本の知識人たる者、「国民皆が被災者の苦労をわかちあうことを天皇陛下も望んでいる」と言えばいいのだ。

 そんなことを言うと「天皇の政治利用だ」とかなんだとか言う奴が出てくるだろうが 天皇は「国民の統合のシンボル」と憲法で位置づけられているのだから、何も遠慮することはないのだ。

 「沈黙と判断保留(エポケー)が、明証を欠いた事柄に関してのもっともすぐれた捧げもの」

 と、はるか古代の昔にアレクサンドリアのピロンが言っているように「瓦礫問題」の四文字は出さずとも、誰もが「ああ、瓦礫処理のことだな」とわかるし、わかるように語るのが、知識人の役目だろう。

 ともかく3月11日を前に言いたいことは、「頑張ろう」って言っている間は駄目ということ。

 何故なら「頑張ろう」というセリフは、そう言わなければならない理由があって言っているわけだから。

 「頑張ろう」と言わなくなってはじめて明日が見えてくる。

 じゃあ、なんで「明日」が見えないかというと、やっぱり原発が大きいと思う。

 津波だけだったら、3万死のうが、10万死のうが、「助かった人はラッキー」で、その幸運を噛み締めて、明日への希望を胸に「頑張る」ことができるが、原発は、死者は一人もいないが、生きている人全員、不安に苛まれながら生きなければならない。

 そんなんで、どう「頑張る」というのか。

 フジテレビで、福島の原発近辺で自衛隊員が、津波の犠牲者の遺体捜索をしている映像が流れていたが、遺体を見つけたからといって死んだ人が生き返るわけではない。

 犠牲者(死者)が出てはじめて「見直し」がはじまるというのが、これまでのパターンだが、遺体捜索で死者が出る前に「遺体」に対する過剰の執着を考え直した方がいいのではないか。

 「リスクマネジメント」とやらがしきりに喧伝されているが、リスクに対処するには、まず「死んだ人は生き返らない」と割り切ることが必要だろう。

 ニュースでも「遺体捜索」ではなく「死体捜索」と言えばいいのだ。

 臓器移植なんかも、臓器移植自体の是非は別として「遺体」という「言葉」が壁になっていると言ってもいいくらいだ。

 もっとも実際に「壁」になっているのは、生と死の判断が極めて早い段階で求められることに対する違和感、戸惑いだろう。

 なにしろ、体温がまだ暖かい段階で、内臓が取り出されるのだから。

 しかし、世界ではそれが普通になっている。

 というと、我々日本人は繊細にできているとか言いだす。

 だったら、臓器移植は禁止ということにすればいいのだが、実際にはそれもできず、結局、金の力にモノを言わせ、海外で移植手術を受けることになる。

 日本人はなんて勝手なエゴイストなんだろうと、現地の人は思うだろう。

 瓦礫受け入れを表明したものの、住民の反対で挫折した静岡の市長が、「日本人はエゴイストなんだよ」と吐き捨てるように言っていたが、今上陛下が「国民の一人一人が……被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていく」ことを願われたのも、日本人がエゴイストであることを念頭に置いてのご発言であらせられたのか。

 そこまでは思いたくないが、でも、「願う」というのは、現実がそうでないから「願う」わけで……。

 天皇の「ビデオメッセージ」発言は、先端的なベーシックインカム論者で知られる評論家、関曠野の「フクシマ以後」に収められた書き下ろし原稿を参照した。

 彼の皇室論は相当面白い。

 私は、京都には何度か行ったことがあるが、毎回、「本来あるはずの何かが欠けている」と思う。

 「あるはずの何か」、それは「天皇」である。

 「天皇は無理でも、せめて、国民にアイドル的人気のある火星ちゃんこと今上陛下の弟宮、常陸宮殿下の京都在住で対処すべく、政府に請願したらどうか」と、帰京(これも、本来は「京都に帰る」という意味なんだよなあ)直後、おせっかいにも市役所の目安箱にメールしたことがあるのだが、関曠野の皇室論もそれに近いことを言っている。

 関曠野と橋本治が、今のところ、私の先生である。