パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

ポストモダンと明仁天皇

2012-03-16 22:17:40 | Weblog
 前回の書き込みに、「近代の天子様(江戸時代以前の)は、それ以前の天子様はちがうので云々」というコメントの書き込みがあったけれど、近代の天皇、つまり、明治天皇以後の昭和天皇までの三代の天子様に対し、現在の天皇は、まったくちがっている、つまり明仁天皇は、「近代の天子様」ではない、というのが私の、というか関曠野氏の説の前提となっているので、ちょっと説明しておきます。

 昭和天皇は戦後すぐに「人間宣言」をしたけれど、意識はやはり、明治憲法に由来する祖父の明治天皇ゆずりの「近代の天皇」だった。

 対して、明仁天皇は、即位のときに、「国民のみなさんとともに憲法を守り……」と、現行憲法下の「象徴天皇」であることを自ら確認した。

 現行憲法における「象徴天皇」は、意味が必ずしもはっきりしていなかったが、明仁天皇において、その方向が明示され、以後、皇后陛下と二人でその「実践」にあたってきたが、3.11後に放送された「日本国民みなが、被災者を思いやり……」というビデオメッセージは、以前の形式的象徴から、実質的象徴にまで自ら肉づけした「国民の象徴」としての天皇の位置からの発言であった。

 と関氏は言っているのだけれど、私も、明仁天皇の即位時の言葉は覚えているし、その内容が一時、話題になったことも覚えているが、あまり重要には思っていなかった。

 私が、明仁ファンになったのは、皇太后を宮内庁病院に見舞いに行った帰り、様態が急変したことを聞いて、小雨の中を小走りに走って病院に帰った、その様子が写真に撮られていて、その写真を見て以来、信用に足る人だ、と思うようになったのだ。

 その写真は、ブレッソンの「水たまりを飛び越える人」のような感じで、傘をさしたまま、水たまりをジャンプして越えた瞬間を撮ったもので、ブレッソンの写真より事態ははるかに深刻で(ブレッソンの写真で水たまりを飛び越えているおじさんが、どんな理由で空中に飛んだのかわからないが、「肉親の危険」という事態は到底想像できない)伝わってくる雰囲気も、夜中近かったということもあるだろうが、緊張感に満ち、なおかつ、真摯さにあふれていた。

 もちろん、普通の人間だったら、母親を見舞いに行って、いったん無事と思って帰ろうとした直後に、一転、「危ない」と言われたら、どうしたって「真摯」にならざるを得ないけれど、それを越えていた、というか、逆に「天皇陛下も普通の人の子なんだな」と思ったのだった。

 それでまあ、ファンになったのだが、中国の温家宝首相も同じように、ある一枚の写真を見て、「ファン」になった。

 それは、四川省の大地震の時、現地に赴いた首相が、誰の靴だかわからないが、子供のズック靴を両手に持ち、呆然としているところだった。

 私は、中国の「権力者」というものに「偏見」があって、人民のことなんかまさに「草」としか考えない伝統があるのだと思っていたのだけれど、温首相に関する限り、ちょっと違うのではないかと思うようになったのだ。

 その温首相、もうじき退任だそうで、その最後の記者会見があって、そこで、「今のままだと中国は、かつての文化革命時の悲劇を繰り返すことになるかもしれない」と警告して、記者席は、一瞬「静まり返った」そうだ。

 温首相、何を言いたかったのか。

 それはさて、私はいったい何を言いたかったのかというと、要するに、大事なのは「人間性」っつうことやね。

 明仁天皇は、自分が天皇であるという以前に、人間であることを明確に宣言することで、進駐軍が一夜漬けでつくった憲法に「肉づけ」し「内容を与えた」た、というのが関曠野の説だ。(それでも私は、憲法改正そのものはしなければならないと思っているけれど。)

 その関曠野が京都への再遷都を言うのは、「真の象徴天皇」には、政治の中心である東京より、文化の中心であった京都がふさわしいという理由による。

 ネオ神道の金井某なども、日本近代の誤りは、薩長勢力が天皇を東京に拉致したことに根本原因があるので、天皇は京都に戻るべしと言っている。

 ネオ神道そのものは、「ファンタジー」にすぎないが(でも、結構よくできたファンタジーではある)薩長が天皇を拉致したという政治のリアリズムは関曠野と同じである。

 まあ、そんなわけで天皇陛下が、3.11記念日に、再度「国民皆が被災地の苦難を分かち合い」と明言したせいかどうかわからないが、静岡県の島田市市長が瓦礫受け入れを正式表明したそうで。

 日本国民ならば、まず、受け入れる事に同意するのが前提で、それから、「いや、うちの町はこれこれの理由があるから」と言えばいい。

 そうすれば、少なくとも、他府県の住民から文句が出るというバカげた構図はなくなる。

 反対派は「政府への不信」がその理由だそうで、中をとりもつ「マスコミ新聞」も「不信はごもっとも」と媚を売るが、ここはたとえ野田のバカが相手でも、とりあえず「信用する」が前提だろう。

 野田のバカについて書くつもりだったのだが、今回は「野田のバカ」と言っただけでおしまいとする。(「野田のバカ」だけは言いたかったんだ、と、これで四回言ってやった!)