パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

埼玉VS東京

2012-04-04 21:17:29 | Weblog
 今、仕事で追い込み状態で…と言うべきなのだが、もちろん、それもあるが、「風に吹かれて」テキスト版(笑)の追い込みも重なって、更新がままならないが、昨日の「メイストーム」について、少し書いて、お茶を濁したい。

 編集長は、4時前に、「今日は荒れそうだから、みんなも早く帰るように」と言い残して退社、私も、いつもより若干早く、5時少し過ぎに帰途についた。

 本当は、もっと早く帰ろうと思えば帰れたのだが、そもそも3.11以来の「帰宅困難」状況に根本的に疑義があるので、わざとそれに巻き込まれてやろうという意図がないではなかった。

 ともかく、5時半頃、新宿の埼京線の始発ホームについたのだが、到着の時間が遅れるとのアナウンスに、「風に吹かれて」のテキスト版の見直しをしながら、待つことにした。

 待つこと、20分弱で電車は到着、そのまま赤羽に着いたが、京浜東北線が全線ストップしているという。

 以前、「強風で荒川の橋を渡れない」、というアナウンスがあったことがあり、昔はこんな風で電車が止まるなんてなかったと思ったことがある。

 10年か、もう少し前、橋桁が日本一高い鉄橋から強風に煽られて脱線転覆して死者多数を出した事件があり、以後、ほんのちょっとの風でも、鉄橋がある路線のJRはすぐに止まるようになってしまった。

 それで、今回も荒川大橋でひっかかるかもしれないと予想していたのだが、アナウンスによると、京浜東北のストップは横浜で止まっている影響だということで、止まった理由は不明だが、アナウンスは「いつ走れるかわからない」と、噴飯ものの内容でも、駅のどこにも駅員がいないから、文句のつけようもなく、階段で、テキストチェックを再開したが、ふと気がついた。

 赤羽駅からバスで川口まで行けばいいのだ。

 3.11のときは、そのバスも全面ストップだったが、今回は「走っていない」なんてことはないだろうと思ったのだが、確かにバスはいつも通りの様子で走っていたが、「川口方面行き」のバスが見当たらない。

 バスの運転手に聞くと「赤羽から埼玉方面のバスは出ていない。(赤羽と川口市をつなぐ)荒川大橋までは走っているので、そこで乗り換えてくれ」という。

 これには、驚いた。

 要するに、川口市が東京都に接する、その境界まではつないでやるから、その先は、埼玉人が勝手にやりなさい、というわけだ。

 赤羽発のバス路線の会社はすべて国際興行バスだったが、バス会社の方針でそうなっているのではなく、たぶん、行政の意向なんだろうが、東京と埼玉の連係プレイがどうなっているか、私は全然わからない。

 荒川を渡ったところで途方にくれるかもしれない。

 それで、バスに乗るのはやめた。

 そんなこんなしているうちに、雨もやみ、風もおさまってきたみたいなので、もしかしたら京浜東北線が再開しているかもしれないと思って戻ったが、依然、電車は止まったままで、アナウンスも「いつ再開するかわかりません」と言う。

 駅周辺はすっかり日常のままなのに、しょうがないので、近所のマックに入り、腕時計を見ながらテキストチェックをしこたま、ほぼ2時間近くやって、駅に戻ったら、再開していたので、それに乗って帰宅した。

 という半日だったが、ともかくびっくりしたのは、バス路線が完全に行政地区によって、区切られているということ。

 電車路線の場合は完成しているので、行政が介入できないのだろうが、介入できる限り、介入する、自分の権限の及ぶ範囲をできるだけ大きくしたいというのが官僚野郎の本性、というか本能なのだということがはっきりわかった。

 あともうひとつわかったことは、昨日の交通機関の混乱は、強風のせいなんかではなく、行政が敷いた、強風警戒の基準のせいだということ。

 電車が転覆するような強風ならしょうがないが、そんな強い風でもない、でも、法律のせいで動けない。

 昨日、起きたことはそういうことなのだ。

 マスコミは、そこを問題にすべきではないのか。

 一つ、強風基準は今のままでいいのか、否か。

 もう一つは、そもそも災害対策を「法律」で考えることがどこまで妥当なのかということ。

 たとえば、もし、「強風」が深夜になってもなかなか収まらなかったらどうするつもりなのだ?

 法律主義の場合、あくまでそれに従わねばならないから、昨日がそうだったように、みんなさっさと帰宅することで対処する。

 でも私は、こんな「対処」はまっぴらご免だ。

 何故なら、対処できなかったやつは、「バカ」とののしられるだろう。(でも昨日の私は「対処できなかった」のではなく、「対処しなかった」のだ。)

 こんな社会は絶対に嫌だ。

 でも、そういう社会になりつつある日本。

 野田は、自分が集めた「有識者会議」で、「これからの日本は単身者がますます増えるということを前提に社会政策を考えるべき」と、有識者の一人が発言したところ、その発言を遮って「そういう社会は駄目だ」と言ったそうだ。

 ぶっ殺したろか、と本気で思った。

 単身者は、貧乏人と言い換えてもいい。

 日本は、「貧乏人がいることを前提にした社会ではなく、貧乏人がいない社会を目指す」と言ってやってきたのだが、これがいかに本末転倒した考えか、官僚も、野田もわかっていない。

 何故なら、そういう社会では、貧乏人は「いては駄目」な存在になってしまうからだ。

 そういう社会になったら、私は、もし仮に億万長者でも、億万円を放棄して貧乏人になってやる。

 「少し」のつもりが…野田のせいだ。