パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

送り火騒動

2011-08-16 00:38:29 | Weblog
 今日(昨日)は八月十五日ということで、終戦記念日だけれど、犠牲者2万余という未曾有の大震災に加え、福島原発事故が重なったことで例年とはちょっと雰囲気が違う。

 ここ十年、否、二十年先送りしてきた問題がどっと顕在化してしまったというか。

 犠牲者2万余の津波災害に比べ、福島原発事故は、死者は今のところゼロなのだから、津波被害の方が段違いに大きいのだが、正直言って、起きてしまったことだからしょうがない。

 どんなに堤防を高くしたって、犠牲者は出たに違いなく、生き残れただけで「幸い」と思うしかないし、そう思っても、決して不謹慎というわけではない。

 京都の送り火で騒いでいるが、「送り火」なんか、気休めにもならないパフォーマンスであることを玄郁さんとやらがはっきり指摘し、事態を収めるべきだし、それでこそ「宗教指導者」だと思うのだが、そんな自覚は芥川賞作家なんかにはないのだろう。

 寂聴先生も何にもおっしゃらない。

 で、当事者の一般人は、あっちの気持ちもわかるが、こっちの気持ちも無視できない……で何にも決めることができない。

 セシュームが薪から少しくらい検出されたって、実際にはほぼ無害であることは明らかだ。

 じゃあ、「送り火」をすればいいかというと、そもそも、そんなものに宗教的意味は全然ない。

 単なる「年中行事」であることは、誰もが承知している。

 「あれは、京都の観光事業ですから」と、寂聴先生なり、玄郁先生が指摘すれば、皆、一時期は憤慨するかもしれないが、「そういえばそうだよな」と納得するに違いないのだ。

 しかし、原発問題は、人間存在の根底を危うくするもので、宗教指導者もどうしようもない。

 前回の話題にことよせれば、人から「故郷」を奪ってしまう。

 もっと具体的に言えば「家=住処」を奪ってしまう。

 現実に可能かどうかを無視して反原発を唱える輩は、戦争に絶対に勝ち目がないのに開戦した旧陸海軍、そしてそれをどうしようもなかった政治家と同じ過ちを繰り返していると主張する某池○氏なんか、一見もっともなことを言っているように見えるが、そんなに単純な話ではないのだ。