魯迅の『故郷』について、ウェブで調べたら、やたらに数が多い。
「え? こんなに人気のある小説だったんだ!」と驚いたが、よく読んだら、魯迅の『故郷』は、中学校の教科書でとりあげられているそうで、その「教え方」を教示しているのだった。
もちろん、「希望はあるともないとも言える。…道をある人が多くなれば、そこが道になるようなものだ」という最後の文章の「教え方」を教えるのである。
要するに、教師用のアンチョコサイトだったわけだが、無論、そこには「あるともないとも言える、と曖昧に書いているのは、希望をあからさまに書くと、現状不満を煽ることになるからだ」という、私のように天の邪鬼な解釈は皆無だったが、中で一つ面白いのがあった。
それは、教え子――ということは、「中学生」ということだが――に感想文を書かせたら、その一人に、「歩く人は、希望をもつ人である」と書いた者がいるというのである。
この中学生は、どんなつもりでこう書いたのか、わからないが、私は、「深い!」と思ったのだった。
それはさて、今和次郎という人がいた。
だいぶ前、多分20年前くらいに亡くなった「考現学」の創始者で、いつもジャンパーを着ていた人ということぐらいしか記憶にないのだが、その今和次郎の『考現学入門』という文庫本を古本屋で買った。
読んでびっくり、ここまでやるのかというくらい、日常些末な事柄をことごとく記録している。
「記録マニア」と言えば言えるが、彼の場合、「奇妙なもの」より、「当たり前の風物」に目がいっているところに、親近感を覚えた。
というのは、子供の頃から、虎とかライオンとかパンダといった珍しい動物より、ロバとか馬とか羊とかウサギのような、動物園に行かずとも見ることのできる当たり前の動物を「動物園で見る」のが好きだったからだ。
その今和次郎のコレクションの一つに「おんぶ」があった。
「おんぶ」をどうやっているか、という観察を絵付きで解説しているのだが、面白かったのは、おんぶされている赤ん坊が、おんぶしている人より「身分」が上の場合、要するに、「子守り」もしくは、「女中」の場合、赤ん坊の頭の位置(要するに「視線」だ)が、母親が我が子をおんぶしている場合に比べ、比較的「高い」と書いているのだ。
のみならず、今和次郎は、おんぶされている赤ん坊の方が、おんぶしている人(女中、子守り)よりも身分が上であることを、赤ん坊自身、わかっている、ともとれる書き方をしている。
「身分」というと、表現がきつくなるが、要するに、赤ん坊が接触している背中が、母親の背中であるかそうでないか、赤ん坊自身わかっておんぶされているわけだ。
なるほど!
私は、長時間、母親以外の女性の背中にくくられて過ごす赤ん坊が、その女性を母親と勘違いしない(今和次郎風に言えば「愛を感じない」)のは何故かと思っていたのだが(私は、小学校1年生のとき、担任の女教師に「お母ちゃま」と言ってしまったことがあるので)、そもそも「おんぶ」を他人に任せるようになった時には、すでに母子の関係は確固としたものとなっているのだ。
換言すれば、それ故に、我が子を他人に任せることができるのだ。
それにしても、「おんぶ」という風習自体が、ここまできれいさっぱり世間から姿を消すとは、さすがの今和次郎も想像していなかっただろう。
そもそも、「おんぶされている方がおんぶしている者より身分が高い場合に観察される諸問題」について、今和次郎自身、「質問の形で書いておきます」と書いているのだが、その気になって「考える」に、そもそも、「おんぶ」とは母親のすることではなく、「子守り」のすることだったのかもしれない。
そう思えば、「おんぶ」が廃れた理由も何となく納得がゆくのだが……なんで、今和次郎は「質問のかたち」で、問題を提出したのだろう?
「おんぶ」という風習は、近代日本の克服すべき「陋習」だったのだろうか?(私は「おんぶ」されたことしかないのだが、そうかもしれないな)
「え? こんなに人気のある小説だったんだ!」と驚いたが、よく読んだら、魯迅の『故郷』は、中学校の教科書でとりあげられているそうで、その「教え方」を教示しているのだった。
もちろん、「希望はあるともないとも言える。…道をある人が多くなれば、そこが道になるようなものだ」という最後の文章の「教え方」を教えるのである。
要するに、教師用のアンチョコサイトだったわけだが、無論、そこには「あるともないとも言える、と曖昧に書いているのは、希望をあからさまに書くと、現状不満を煽ることになるからだ」という、私のように天の邪鬼な解釈は皆無だったが、中で一つ面白いのがあった。
それは、教え子――ということは、「中学生」ということだが――に感想文を書かせたら、その一人に、「歩く人は、希望をもつ人である」と書いた者がいるというのである。
この中学生は、どんなつもりでこう書いたのか、わからないが、私は、「深い!」と思ったのだった。
それはさて、今和次郎という人がいた。
だいぶ前、多分20年前くらいに亡くなった「考現学」の創始者で、いつもジャンパーを着ていた人ということぐらいしか記憶にないのだが、その今和次郎の『考現学入門』という文庫本を古本屋で買った。
読んでびっくり、ここまでやるのかというくらい、日常些末な事柄をことごとく記録している。
「記録マニア」と言えば言えるが、彼の場合、「奇妙なもの」より、「当たり前の風物」に目がいっているところに、親近感を覚えた。
というのは、子供の頃から、虎とかライオンとかパンダといった珍しい動物より、ロバとか馬とか羊とかウサギのような、動物園に行かずとも見ることのできる当たり前の動物を「動物園で見る」のが好きだったからだ。
その今和次郎のコレクションの一つに「おんぶ」があった。
「おんぶ」をどうやっているか、という観察を絵付きで解説しているのだが、面白かったのは、おんぶされている赤ん坊が、おんぶしている人より「身分」が上の場合、要するに、「子守り」もしくは、「女中」の場合、赤ん坊の頭の位置(要するに「視線」だ)が、母親が我が子をおんぶしている場合に比べ、比較的「高い」と書いているのだ。
のみならず、今和次郎は、おんぶされている赤ん坊の方が、おんぶしている人(女中、子守り)よりも身分が上であることを、赤ん坊自身、わかっている、ともとれる書き方をしている。
「身分」というと、表現がきつくなるが、要するに、赤ん坊が接触している背中が、母親の背中であるかそうでないか、赤ん坊自身わかっておんぶされているわけだ。
なるほど!
私は、長時間、母親以外の女性の背中にくくられて過ごす赤ん坊が、その女性を母親と勘違いしない(今和次郎風に言えば「愛を感じない」)のは何故かと思っていたのだが(私は、小学校1年生のとき、担任の女教師に「お母ちゃま」と言ってしまったことがあるので)、そもそも「おんぶ」を他人に任せるようになった時には、すでに母子の関係は確固としたものとなっているのだ。
換言すれば、それ故に、我が子を他人に任せることができるのだ。
それにしても、「おんぶ」という風習自体が、ここまできれいさっぱり世間から姿を消すとは、さすがの今和次郎も想像していなかっただろう。
そもそも、「おんぶされている方がおんぶしている者より身分が高い場合に観察される諸問題」について、今和次郎自身、「質問の形で書いておきます」と書いているのだが、その気になって「考える」に、そもそも、「おんぶ」とは母親のすることではなく、「子守り」のすることだったのかもしれない。
そう思えば、「おんぶ」が廃れた理由も何となく納得がゆくのだが……なんで、今和次郎は「質問のかたち」で、問題を提出したのだろう?
「おんぶ」という風習は、近代日本の克服すべき「陋習」だったのだろうか?(私は「おんぶ」されたことしかないのだが、そうかもしれないな)