直前の投稿が「路傍の石」についてだったとは、ずいぶん更新を怠ってしまったなあ。
ちなみに、「路傍の石」の主人公の名前は吾一君です。
吾一少年は、決して貧しい家の子供ではない。
むしろ、裕福な家庭の子供なのだが、ものすごく克己心が強くて、頑固で、自ら災いを招いてしまうような少年だ。
ということは、かなり普通の「おろか」な少年だ。
言い換えると、「貧乏」ということだ。
「路傍の石」が貧乏な少年の立身出世を目指す物語と一般的にイメージされているのは、ここからくるのだろう。
と、書き込んだ翌日に古本屋で立ち読みしながら考えたのだが、ずいぶん以前のことのような気がする。
よって、中身もいい加減である。
もう一度立ち読みするので、この話題はまた。
さて、なんでかくも更新が遅れたかというと、3年越しに取り掛かっている「写真集」がいよいよ大詰めにさしかかったので。
16万字に及ぶ「撮影メモ」もさることながら、500枚を超える写真の整理が大変。
500枚もあれば、数枚の「いいかげん」なものが混じっても構わないだろうと考えていたのだが、いざとなると、それがやっぱり、気になってしまうのだ。
結局、たとえば、25枚の写真しか収めていない写真集に要する心的エネルギーが、500枚だったら、ちゃんと20倍必要なのだ。
まとめれば、10倍くらいですむ、とか、そういうことではない。
というわけで、昨晩も、日本シリーズをラジオで聞きながら作業を進め、その後もなんとなくラジオに耳を傾けているうちに、終電に間に合わなくなり、やむを得ず、事務所で一泊した。
独り者なんだから、別に家に帰らなくてもいいではないか、と思われるかもしれないが、坂口安吾がどこかで書いていたように、「独り者にも我が家があり、我が家に帰る」のだ。
実のところ、人は、決して愛する妻、かわいい子供、すなわち「家族」が待っているから帰宅するのではない。
もしそうだとしたら、独り者は、男女を問わず、家に帰る理由がなくなる。
でも、そうじゃない。(むしろ、所帯持ちほど、実は家に帰りたくなかったりする。)
なぜなのだ?
坂口安吾は答えを書いていないが、理由ははっきりしている。
そこに「自分」がいるからだ。
公的ではない、私的な、つまり、当人にとって本当の「自分」がいる、あるいは、そういう自分になれるところだから、「帰心矢のごとし」の勢いで帰ろうと欲する。
「故郷」も同じだ。
人間が故郷を懐かしく思うのは、そこに両親だの、兄弟だの、親友だのがいるからではない。
そこに「自分」がいたこと、自分との「再会」を懐かしむのだ。
このことについての理解がないことが、日本における「地方再生」を困難にしている。
鳩山首相も、国会で「地域の絆を回復させることが大事」とかなんとかしゃべっていたが、「地域の絆」ってなんなんだ?
多分、両親兄弟姉妹、ご近所の人々をはじめとする、生まれ育った人間関係のネットワークのことを言っているのだと思うが、だとしたら、それは、「村八分」の正当化の原理ともなりうるものだ。
もっとも、「村八分」の論理も、住民のすべてがそれを受け入れ、納得していたら、問題なく機能する。
もちろん、実際には、はぐれものがいつでもいる。
でも、そういった「はぐれもの」の数が少ないうちは問題ない。
しかし、ある一定以上にまで「はぐれもの」が増えてくると、「村八分」の論理を堅持する地域は、自動的に「縮小均衡」の道をたどることになる。
地方の過疎化の原因は、根底的には、この「村八分」の論理が、もちろん表立って行われることはないだろうが、心の中に抜きがたたく存在しているのが原因じゃないかと思うのだが…。
ちなみに、「路傍の石」の主人公の名前は吾一君です。
吾一少年は、決して貧しい家の子供ではない。
むしろ、裕福な家庭の子供なのだが、ものすごく克己心が強くて、頑固で、自ら災いを招いてしまうような少年だ。
ということは、かなり普通の「おろか」な少年だ。
言い換えると、「貧乏」ということだ。
「路傍の石」が貧乏な少年の立身出世を目指す物語と一般的にイメージされているのは、ここからくるのだろう。
と、書き込んだ翌日に古本屋で立ち読みしながら考えたのだが、ずいぶん以前のことのような気がする。
よって、中身もいい加減である。
もう一度立ち読みするので、この話題はまた。
さて、なんでかくも更新が遅れたかというと、3年越しに取り掛かっている「写真集」がいよいよ大詰めにさしかかったので。
16万字に及ぶ「撮影メモ」もさることながら、500枚を超える写真の整理が大変。
500枚もあれば、数枚の「いいかげん」なものが混じっても構わないだろうと考えていたのだが、いざとなると、それがやっぱり、気になってしまうのだ。
結局、たとえば、25枚の写真しか収めていない写真集に要する心的エネルギーが、500枚だったら、ちゃんと20倍必要なのだ。
まとめれば、10倍くらいですむ、とか、そういうことではない。
というわけで、昨晩も、日本シリーズをラジオで聞きながら作業を進め、その後もなんとなくラジオに耳を傾けているうちに、終電に間に合わなくなり、やむを得ず、事務所で一泊した。
独り者なんだから、別に家に帰らなくてもいいではないか、と思われるかもしれないが、坂口安吾がどこかで書いていたように、「独り者にも我が家があり、我が家に帰る」のだ。
実のところ、人は、決して愛する妻、かわいい子供、すなわち「家族」が待っているから帰宅するのではない。
もしそうだとしたら、独り者は、男女を問わず、家に帰る理由がなくなる。
でも、そうじゃない。(むしろ、所帯持ちほど、実は家に帰りたくなかったりする。)
なぜなのだ?
坂口安吾は答えを書いていないが、理由ははっきりしている。
そこに「自分」がいるからだ。
公的ではない、私的な、つまり、当人にとって本当の「自分」がいる、あるいは、そういう自分になれるところだから、「帰心矢のごとし」の勢いで帰ろうと欲する。
「故郷」も同じだ。
人間が故郷を懐かしく思うのは、そこに両親だの、兄弟だの、親友だのがいるからではない。
そこに「自分」がいたこと、自分との「再会」を懐かしむのだ。
このことについての理解がないことが、日本における「地方再生」を困難にしている。
鳩山首相も、国会で「地域の絆を回復させることが大事」とかなんとかしゃべっていたが、「地域の絆」ってなんなんだ?
多分、両親兄弟姉妹、ご近所の人々をはじめとする、生まれ育った人間関係のネットワークのことを言っているのだと思うが、だとしたら、それは、「村八分」の正当化の原理ともなりうるものだ。
もっとも、「村八分」の論理も、住民のすべてがそれを受け入れ、納得していたら、問題なく機能する。
もちろん、実際には、はぐれものがいつでもいる。
でも、そういった「はぐれもの」の数が少ないうちは問題ない。
しかし、ある一定以上にまで「はぐれもの」が増えてくると、「村八分」の論理を堅持する地域は、自動的に「縮小均衡」の道をたどることになる。
地方の過疎化の原因は、根底的には、この「村八分」の論理が、もちろん表立って行われることはないだろうが、心の中に抜きがたたく存在しているのが原因じゃないかと思うのだが…。