抗日武装闘争と民族の解放
国外での独立運動
1931年9月に満州事変 が発生し同年末までに日本が満州全土を占領すると、満州の武装した独立運動家達は日本軍と対峙した。朝鮮革命軍と韓国独立軍は、中国人達と提携し日本軍に戦闘を挑んだが、連戦連敗し、万里の長城以南へ後退した。社会主義者達は、満州を中心として遊撃隊を結成して、抗日闘争を展開した。
1937年に日中戦争が勃発すると、金元鳳や尹世冑、韓斌、金学武など約130名が中国国民党から公式に支援を取り付け、1938年10月に朝鮮義勇隊を創設した。日本軍後方での諜報及び工作活動に携わった。朝鮮義勇隊の主力部隊は、1941年春に黄河を渡って朝鮮族の多い華北地方に拠点を移した。華北に移った朝鮮義勇隊は、共産党軍の八路軍と協力して胡家荘戦闘や反掃討戦など多くの戦闘に参加した。その戦闘は多くはゲリラ戦であり、農民である「非戦闘員」との区別がつかない風体が多かった。農村部での日本軍の拠点活動を「点と線」にさせた。ベトナム戦争での米軍が置かれた状況に酷似している。国民党の支援を取り付け、次は共産党軍
とゲリラ戦を行うという、相手かまわずの迷走ぶりだが、中国側からすれば、対日戦では利用できる戦力だったのだ。
光復軍青年工作隊
一方、日中戦争の勃発後に、大韓民国臨時政府は、1940年に重慶に移ったが、1940年9月に幹部わずか12名で韓国光復軍を創設した。光復軍は、1942年5月に華北へ向かわなかった朝鮮義勇隊の残留部隊を吸収し、1943年8月に旧朝鮮義勇隊出身者8名を選抜し、心理戦 宣伝戦特殊要員として、インド ビルマ戦線に派遣した。一方では、中国にあったアメリカ戦略諜報機関である OSS(Office of Strategic Service)との間に「光復軍隊員を選抜して諜報訓練を実施し、彼らを朝鮮半島に浸透させ、敵後方工作を展開する」という内容の「鷲作戦」(イーグルプロジェクト)を作成したが、光復軍が予想していたよりも早く日本が降伏したため、国内(併合韓国)進入作戦は実現しなかった。
光復軍は一度も日本と交戦せず、日本の降伏を迎えた。金九 は日本が降伏したとの一報を耳にした際、天を仰いで長嘆息した後、以下のように嘆いた。「韓国軍は、日本軍を打ち破ることは一度もなかった。私は日本軍を撃滅して、わが同胞を解放したかった。最後まで、日本軍に制圧されたままの解放なんて、結局何もなるまい。日本帝国はひとたび滅びても、より逞しく再建されるだろう。その時日本人は、庚戌国変の時より残酷に我々を奴隷にするだろう。その時、わが同胞は日帝と闘う気力を持っているか。自力で日帝から解放することも出来なかったわが同胞に、とてもそんな力があるとは思えない」
朝鮮人の執拗な被害者意識と「日帝」に対する恐怖意識と反日感情は、医者の目からすれば強迫神経症に似た一種の「金九嘆息後遺症」ではないか と思う。
半島内での独立運動
初期の日中戦争での日本軍の連戦連勝 を受けて、朝鮮半島では日本を事大主義の対象とする意識が次第に浸透するようになった。崔麟ら三・一独立宣言文の起草メンバーの多くが親日に転向した。1939年 10月末頃に、総督府警察に要注意人物としてブラックリストに載った人数は、約7600人だったが、内の約40%である3076人が転向を表明している。非転向者は約23%、残りの37%は不明とされた。しかし、1930年代後半から抗日活動家のうちの民族主義者の比率は増加し、1940年代に入っても増加した。1940年~1941年にかけての思想犯検挙の状況によると、共産主義者の逮捕者数が668名から158名に減少したものの、民族主義者の逮捕は72名から176名に増加した。
日米開戦(1941年12月)以降の日本では、外地である朝鮮半島においても、あらゆる分野で物資不足が叫ばれた。戦争末期の国民徴用令の朝鮮における施行(1944年(昭和19年)8月8日)、朝鮮人が朝鮮から渡航した。本土内ではサボタージュ、徴用や徴兵、学兵、供出の拒否、デマの流布などのいわば消極的抗日活動も見られた。国民徴用令の適用を免除されていた朝鮮人にも実施するとした閣議決定が実施されたのは1944年9月から1945年8月の無条件降伏までの11ヶ月であった。実際の朝鮮人徴用労務者の本土日本への渡航は1945年3月の下関-プサン間の連絡線の運航が止まるまでの7ヵ月間であった。外務省によれば300名弱である。1959年(昭和34年)時点で日本いた朝鮮人(在日朝鮮人)は61万人であり、彼らは自分の自由意志によって日本に留まったまたは日本生まれである。
第二次世界大戦中の国外(半島の外)における独立運動は、殆ど何も出来ない状況だった。日本軍玉砕などのニュースに接し、日本の敗戦が濃厚となっていると感じてくると、重慶臨時政府では、「連合国に独立後の正当な政府と認められない可能性もあり、直ちに半島に帰還することも出来ないのではないか」という懸念が浮上するようなった。1940年代の半島における唯一の独立運動団体だった建国同盟の役割は大きいものであった。建国同盟は、日本の敗戦を見越した1944年8月10日に、呂運亨や趙東祜 などを主導に立ち上げられた。
建国同盟の綱領は、「各人各派を大同団結し、挙国一致で日帝を駆逐し、韓民族の自由と独立を回復する。連合国と連合戦線を形成し、一切の独立を阻害する反動勢力を撲滅する。民主主義的建設と、労農大衆解放に重点を置く。」であった。
建国同盟は北京を拠点に華北の朝鮮義勇軍と連結し、重慶の臨時政府とも連絡を取ろうとした。1944年10月には建国同盟の友軍とも言える農民同盟が組職された。呂運亨は徴用や徴兵の拒否者達の組職に関与し、共産主義者達とも提携した。
呂運亨 釈放された政治犯
1945年8月15日(日本無条件降伏日)に、朝朝鮮総督府の要請に従って遠藤柳作政務総監に会った呂運亨は、
全朝鮮の政治犯 経済犯を即時釈放せよ。
集団生活地である京城の食糧を3ヶ月分確保せよ。
治安維持と建設事業に何の干渉もするな。
朝鮮において指導力となる学生の訓練と青年の組織に干渉するな。
全朝鮮の事業場の労働者を我々の建設事業に協力させ、何の苦しみも与えるな。
といった5ヶ条の要求を提示した。呂に日本人の生命及び財産保護の為の治安協力を要求したかった遠藤政務総監は、呂の要求を聞き入れざるを得なかった。翌日から、政治犯達が釈放された。
建国同盟は、1945年8月15日の解放直後に改編して、「朝鮮建国準備委員会」として発足した。
同日の日本の降伏によって、朝鮮独立運動は相手を連合軍に変えて継続されることになる。
「三国人」は差別用語なのか?
GHQの連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥の発した布告が、「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三國人なり」と言う声名で、朝鮮人に限らない「第三国人」の表現が生まれた。これは「区別用語」であり「差別用語」ではない。差別意識の有無は別なのだ。
反日在日の急先鋒とされる崔洋一監督、原作梁石日(ヤンソギル)出演の金俊平を演じたのはビートたけし。女房の李英姫を鈴木京香娘の金花子を田畑智子が演じている。済州島時代の俊平が15歳の時に、人妻を寝取って生ませた息子の朴武をオダギリジョー、朴希範:寺島進 花子が恋心を抱くようになり、非合法組織「祖国防衛隊」に属し、逮捕されてしまう張賛明を柏原収史が演じている。医学的には正しくないが「血は母より骨は父より受け継ぐ」と朝鮮では言う。併合朝鮮半島では1923年8月に平壌の靴下工場の2000名によるストライキ、1923年9月から 1年以上展開された全羅南道新安郡岩泰島における小作農民の地主を相手にした闘争があったその1923年、成功を夢見て済州島から大阪南港へ降り立った金俊平少年。朝鮮人街での裸一貫から、持ち前の暴力性と上昇志向で自前の蒲鉾工場を構え、大金を手にする。のし上がった俊平だが、若い清子を愛人として女房の李英姫の隣の家に囲い、清子が脳腫瘍になれば、愛人定子を介護につかせ、最後には清子を濡れ新聞紙で窒息死させる。金貸しに転じた俊平は凶暴さと強欲さで悪名も高く、家族までがその存在を怖れた。俊平の息子の正雄は、俊平を「頭のおかしいオッサン」と軽蔑しつつも、その尊大巨大さに憧れとも畏怖ともつかない複雑な感情を抱く。そんな折、俊平の息子を名乗る武という青年が現れ、金家に転がり込んで、愛人も連れ込んで好き勝手に暮らし始める。俊平の存在に平然としている武の姿に、正雄は羨望の眼差しを注ぐ。 俊平は最後には朝鮮総連を介し、ほぼ全財産を献金し、北朝鮮に帰還し、大阪南港に降り立った回想の中で凍えて衰弱死する。原作者の実父をモデルとした金俊平は、在日一世として裸一貫でのし上がるが、狂気と凶器に近い言動行動で周囲を怖れさせ、孤独の生涯を生き、この世の楽園といわれた北朝鮮で最後を迎える。俊平は生涯、「お前は私の骨(クワン)だ」と「息子」を欲した。
崔洋一を「動」とすれば姜 尚中(カンサンジュン)は「静」である。 私個人は両者ともに嫌いではない。しかし、もし一緒に酒でも飲んだら崔洋一とは必ず殴り合いになるだろう。
「その男凶暴につき」の北野武は適役であった。
そのうち崔洋一は、柳の下のドジョウじゃないが、金嬉老事件のキャスティングに北野武を御指名するかも知れない。
「血と骨」を打ったのは私個人にも関連する ことがあるからだ。大学入学から通算すれば新潟在住は20年ぐらいになるが、大学キャンパスがあったのが新潟市西大畑町であり耽読した「堕落論」の著者坂口安吾の生まれた地であり、彼が「東洋大学インド哲学科」卒であることから、私も医学部6年間の初めの2年間の選択科目にインド哲学を選んだ。戦後焼け跡派と自称する私の好きな野坂昭如の父は新潟県副知事を務めた。昭如氏の学歴は新潟大学中退、早稲田大学文学部中退であり、神戸とも縁が深く、私の「マリリン モンロー」に対する感情「火垂るの墓」に対する思い入れには野坂の影響がある。さて、その新潟西港では北送事業で使用された万景峰号(マンギョンボンゴウ)は目にしたし、湊町や田中町近くには在日の経営する「二階建て隠れ売春酒場」が並んであり、足を運んだこともある。何よりも「横田めぐみさん」が拉致されたのは、おそらくは新潟市護国神社近辺であった。大学から派遣され勤務していた病院の裏の柏崎海岸は「蓮池薫さん」「奥土祐木子さん」の拉致現場であり、女房の誕生地である佐渡では「曽我ひとみさん母子」が拉致された。
父が亡くなり、その遺骨の一部分を「火垂るの墓」のごとくドロップ缶に入れようとしたが、頭蓋骨の一部分が大きすぎて缶の口から入らないために昆布茶の缶に入れて緑茶を混ぜ母親に内緒で隠しもっていたことがある。今でも狂気じみていると思うが、私は時々その遺骨を噛み締め、噛み砕いては飲み込んだ。「血と骨」を観た時に、個人的な思い出が蘇った。「骨クワン」である。
武庫之荘に住み尼崎で働いていた時代には、戸の内の在日さんが「ヤギの睾丸の刺身」と「自家製マッコリ」を馳走してくれたこともある。
神戸に移ってからは、韓国バーで泥酔し、韓国からの出稼ぎ女に背広の内ポケットから財布を盗まれそうになり「何すんや!お前ら!」と怒鳴ったら、いわゆる「組の者」じゃない「在日の荒くれ」に顔面パンチを食らったこともある。その後の経過は記憶していない。翌日、財布を調べたが、どうやら金を払わずに帰ってきたらしい。ど近眼の私は翌日、メガネを壊されたために診療に支障をきたした。全身も痛んだが「自転車で転んだ」と訝しがる看護婦に言った。
俊平が「これ食って精つけて俺の息子を産め」とウジの沸いた肉を清子に食わせるシーンがあったが、ウジの沸いたキムチを在日さんから好意?でプレゼントされたこともある。投げ捨てるだけでは、庭先の環境を汚染するのというか、生理的嫌悪というか、ともかく不快感に耐え切れず、ライターオイル2缶を振りかけ続け燃え尽きるまで見ていた。
私は、極寒のシベリア抑留時代に、線路上に散在する「豚の糞」の「未消化の豆」を食って餓えをしのいだ父の長男ではあるけれど、「ようし、食ってやらァ」の気分にはなれなかったのだ。日本語で言う「骨のない」男であった。
日本の国際的な威信の低下に付け込む諸外国 5
連合軍占領下での独立運動 に続く、、