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四獣飲(しじゅういん)東醫寶鑑 許浚(ホ ジュン)

2009-05-27 19:14:59 | ホ ジュン

東醫寶鑑(1913年刊行 李氏朝鮮 光海君治世時に許浚が1910年に完成)の

25巻中雑病編11巻の第7巻に瘧(がいぎゃく)の治療方剤として記載されているものである。瘧とは現代中医学で瘧疾(ぎゃくしつ)と呼ばれるマラリアあるいは瘧(おこり)を主症状とする病症を指す。結論から言えば、四獣飲は瘧疾が治らなく慢性化した癆瘧(ろうぎゃく)の治療方剤である。古代中国で瘧(がいぎゃく)という疾患(病証)概念は黄帝内経に最初に出現する。

内経には

夏に暑気を受け秋になれば必ず瘧し、寒くなり後に発熱してくるものを寒瘧(かんぎゃく)と言い、先に発熱して後に寒くなるものを温瘧(おんぎゃく)と言うとある。
熱気があるだけで寒くはないものを
瘧(がいぎゃく)と言うとしている。さらに、
症状が一日に一回以上起こるものは治り易く、二~三日に一回起こるものは難治で、長引いて治らなければ癆
(癆瘧)になるとある。素問には詳細な論述がある。

実は瘧疾(ぎゃくしつ)に関しては上海留学時代に目にしていたのだが、瘧(がいぎゃく)という「単語」を忘れていたのであった。許浚が参考にしたのはほとんどが宋元明代の中国の医書であるから、はて、瘧疾は知っているが瘧とは初耳だと思い、調べ直したらなんと内経にあったのである。おのれの記憶力の無さにがっくりきたわけである。東醫寶鑑の四獣飲(人参 白朮 白茯苓 陳皮 半夏 草果 甘草 烏梅 生姜 大棗)の名も目にしたが、「マラリヤかぁ 現代漢方医が将来遭遇する確立はゼロにちかいなぁ」とサボり心が出たとたんに脳細胞が記憶を拒絶したようである。

四獣飲に接して感じたことといえば「えらい けったいな名前だな」だけであった。

        さて

現代中医学での寒瘧と温瘧の概念を簡記する。

寒瘧(かんぎゃく)の症状は

熱少寒多、或いは但寒不熱、口渇なし、胸脇痞悶、精神不振、倦怠無力、苔が白膩、脈が弦遅であり、寒湿内阻の状態である。したがって治療原則は辛温達邪となり、柴胡桂枝乾姜湯(傷寒論 張中景 後漢)加減が主方とされる。

柴胡桂枝乾姜湯は柴胡 桂枝 干姜 黄 萋根 牡蛎 炙甘草からなる方剤であり、柴胡は和解少陽、桂枝は疎散寒邪、乾姜は辛温強化として働く。

寒湿内盛、胸腹悶満の者には、檳榔、厚朴、青皮を加え、理気化湿をはかり、

痰涎が多い者には、附子、陳皮を加え、温散寒痰の効能を期するとある。

檳榔(びんろう)は苦 辛 で抗マラリヤ作用はあるのだが、、、

温瘧(おんぎゃく)の症状は

熱多寒少、或いは但熱不寒、汗出不暢、頭痛、骨節酸痛、口渇し水分を飲みたがり、便秘、尿赤、舌が紅、苔が黄、脈が弦数である。これは、夏傷暑邪、暑熱内薀、裏熱熾盛の証である。

治法は清熱解表で白虎加桂枝湯(金匱要略 張中景 後漢)加味であり、

白虎湯(傷寒論)で清熱生津、桂枝で疏風散寒、青藁、柴胡を加え和解邪の効能を求めるとよいと説く。熱邪が気と陰を損傷した場合には、それぞれ白虎加人参湯(傷寒論)で清熱益気、生地、麦冬、石斛、玉竹を加え、養陰生津をはかる。

熱邪日久になり、陰液不足の者には、さらに鼈甲 知母 丹皮を加え、養陰清熱を期し、湿熱内蘊の者には、黄連 黄 青藁 滑石を加え、清熱化湿を期するとある。

青蒿(せいこう)は苦 で、抽出した青蒿素(中国語でチンハオス)は現代でも有効な抗マラリア剤ではあるのだが、、、、

のだが、、、のだが、、、、と繰り返したのは、留学時代を思い返してみると、西洋医学オンリーで書物でしか知らなかったマラリアにはどうしても発熱の周期発作というイメージがついてまわっていて、寒瘧と温瘧を読み進めていくうちに、「こりゃ~、別にマラリヤに限った話じゃないなぁ」と読み進める気力を失いかけたからだ。発熱発作の周期は三日熱マラリア、卵形マラリアで48時間、四日熱マラリアで72時間である。熱帯熱マラリアには規則性に欠くのである。寒瘧と温瘧とは距離感を感じた。

  事実、現代中医学では「瘧疾」の弁証論治が役に立つ西洋医学的疾患として、

マラリアをはじめ、肝胆疾患、インフルエンザ、敗血症が寒熱往来の症状をみる場合としている清書もある。キイワードは寒熱往来である。従来私が抱いていたマラリアの周期性発熱発作に近い。現代中医学ではマラリアの周期性発熱発作と近似する正瘧(せいぎゃく)を寒瘧と温瘧に併記するか、或いは先記しているのである。

正瘧が最もよく見られると中医学の清書にある。

正瘧(せいぎゃく)

症状:悪寒戦慄と壮熱が定期的に発作する。あくびがでたり、身体の無力感あり、続いて寒慄が現れ、寒が終ると発熱する。頭痛、面赤、口渇で水分を飲みたがり、最終的に全身に発汗し、熱が退き、全身が涼しくなる。舌が紅、苔が薄白或いは黄膩、脈が弦である。これぞまさしくマラリアの周期的発熱発作を示している。

現代中医学者はもちろん病原体であるマラリア原虫についても、感染経路、発症メカニズム、西洋医学的治療、さらには予防対策まで熟知しているが、症状の発生病理を伝統的な中医学的表現を用いて記述すれば以下のようになる。

瘧邪が侵入し、半表半裏に伏する。瘧邪が営衛と争い、正邪相争をするため、瘧疾の症状が現れる。正邪相離、邪気伏蔵、相争停止すると寒熱は止む。瘧証初期、邪が初めて陰に入り、陽気が阻まれると、営衛気虚となり、あくび、無力感が現われる。邪気が陰に深く入ると、陰盛陽虚のため、寒慄が出現する。邪気が陽に入ると、陽盛陰虚のため、壮熱、発汗、口渇で水分を飲みたがるなどの症状が出る。最終的には、瘧邪が営衛と離れ、邪気が伏臓すると、寒熱が止む。初期には、苔が多く薄白であり、邪気が化熱すると、苔が黄膩になる。瘧脈は弦であり、弦緊は寒盛、弦数は熱盛を意味する。 この中医学的病理を現代西洋医学の病理と比較対照してみるのも一興であるが本稿の目的ではないので省かせていただくことにする。

正瘧の主方として名高いのが小柴胡湯(しょうさいことう)から発展させた柴胡截瘧飲(さいこさいぎゃくいん)(医宗金鑑 呉謙ら 清代)である。組成は柴胡 黄 半夏 生姜 人参 大棗 炙甘草 烏梅 常山 檳榔 桃仁である。

小柴胡湯(傷寒論 張仲景 後漢)は柴胡黄 半夏生姜 人参大棗炙甘草の7味からなる方剤で、方証として往来寒熱、胸脇苦満 黙々不欲飲食 心煩、喜嘔の少陽5主証、口苦、咽干、目眩の3掲綱、心下悸、小便不利、不渇、微熱、咳 舌質紅、舌苔薄白、脈弦細の或然証がある。興味のある方はさらに詳しく傷寒論中、方証と薬効を調べてみるのがいい。なにしろ、近年わが国日本で、漢方もろくに知らない医師が小柴胡湯をやたらに処方しまくった経緯があるからである。一口で効能を言えば、和解少陽 和胃降逆止嘔となる。

柴胡截瘧飲(さいこさいぎゃくいん)は小柴胡湯加烏梅 常山 檳榔 桃仁といえる。小柴胡湯は和解表裏、導邪外出に働き、常山 檳榔は邪截瘧(さいぎゃく=抗マラリア)に働き。烏梅は、生津和胃に作用するとともに、常山による嘔吐の副作用を緩和する効能がある。桃仁は活血 潤腸通便に働く。柴胡截瘧飲の臨床での使い方として、中医学の文献には、口渇が酷い者には、葛根、石斛を加え、生津止渇をはかり、胸痞満、苔が膩の者には、人参、大棗を取除き、蒼朮、厚朴、青皮を加えて理気化湿をはかり、少汗、悪寒厳重の者には、桂枝、防風、羌活を加え、袪風解表発汗、つまり震えを止め、発汗させて解熱させればよいとある。

許浚は柴胡截瘧飲を知っていたのか?その答えは限りなく否である。なぜなら、医宗金鑑は許浚の没後、中国が清代になってから刊行されたからである。

内経にいう熱気があるだけで寒くはない「瘧(がいぎゃく)」に相当するものは

現代中医学では熱瘴(ねつしょう)といい、瘴瘧(しょうぎゃく)のうち冷瘴(れいしょう)と対照をなす。瘴瘧は中国東南アジアの亜熱帯熱帯地方の山を散策していて、錯乱を起こしたり、マラリアの瘧(おこり)の発作を起こすことを指し、古来より山嵐瘴気(さんらんしょうき)という概念がある。二つの山が水を挟むところに多く、沼から立ち上る瘴気にその原因があると考えられた。

瘴瘧(しょうぎゃく)が独立した疾患概念かといえばそうではないだろう。そもそも中国伝統医学は「証」に基づき、発病した経緯を重んじる。山を歩き、沼の瘴気にあたって発病したマラリアを含めた熱性の病を瘴瘧と称したのであろう。私が、瘧疾の分類に絶えずすっきりしないものを感じるのはこのためだ。

中国医学は伝統と古典を重視する。内経のいう熱気があるだけで寒くはない「瘧(がいぎゃく)」の解釈として各時代にさまざまな概念が付与されていったのであり、現代中医学での分類に多少のオーバーラップがあっても不思議ではないと考えている。

ともかく「熱瘴(ねつしょう)」の記載を調べると、

 (症状)熱甚寒微、或いは壮熱不寒、肢体煩痛、面紅目赤、胸悶嘔吐、煩渇飲冷、大便秘結、小便熱赤、甚だしい場合は、神昏譫語が現れる。舌質は紅絳、苔が黄膩または垢黒、脈は洪数或いは弦数である。

(症候分析)瘴毒(瘴気)が侵入し、熱毒が内欝すると、熱が汗で発散できないため、熱甚寒微、或いは壮熱不寒、肢体煩痛が出現する。熱毒上衝のため、面紅目赤をみる。熱毒が中焦に内鬱するために、胸悶嘔吐をみる。熱毒亢盛、耗傷津液のため、煩渇飲冷をみる。熱毒下移のため、大便秘結、小便熱赤をみる。熱毒上蒙のため、神昏譫語が現れる。舌質が紅絳、苔が黄膩または垢黒、脈が洪数或いは弦数は熱毒内盛の症侯である。

 (治療原則)解毒除瘴(じょしょう)、清熱保津(ほしん)

(方薬)清瘴湯(験方)加減。

清瘴湯(せいしょうとう 験方):青蒿 常山 黄 黄連 知母 柴胡 竹茹 枳実 半夏 陳皮 茯苓 益元散

処方内容を分析すると、黄、黄連、知母、柴胡で清熱解毒、青藁、常山で邪除瘴、竹茹、枳実、半夏、陳皮、茯苓で袪湿化痰 清胆和胃となる。

壮熱不寒の者には、石膏を加え、清熱瀉火をはかり、熱盛傷津、口渇心煩、舌紅少津の者には、生地、玄参、石斛、玉竹を加え、養陰生津を期する。

神昏譫語の者には、紫雪丹或いは至宝丹で清心開竅をはかるとある。意識障害でも熱甚寒少のタイプであるから、開竅剤でも涼寒のものを使うのである。ちなみにそれらの組成は以下のようになる。

紫雪丹(しせつたん 太平恵民和剤局方):

滑石 石膏 寒水石 磁石 羚羊角 青木香 犀角 丁香

升麻 玄参 甘草 朴硝 朱砂 麝香 黄金 硝石

至宝丹(しほうたん 太平恵民和剤局方):

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昇陽益胃湯と益胃升陽湯(3)

2009-05-23 19:19:01 | テレビ番組

続けて昇陽益胃湯にこだわるのは韓国漢方を集大成したテレビでおなじみの許浚ホ・ジュン(1539-1615)の有名な著作「東醫寶鑑(とういほうかん)」に昇陽益胃湯(李東垣 脾胃論 中国金元時代)の語順をひっくり返した益胃昇陽湯があるからである。許浚ホ・ジュンは朝鮮第一級の医書である東醫寶鑑全25巻を14年余の歳月をかけて李氏朝鮮光海君治世時の1610年に完成させた。金元時代の李東垣から下ること約400年後であり、当時中国は明朝末期で清の勢力が強くなってきたころである。許浚は幾多の宋元明代の中国の医書を参考にしたといわれ、明代に発刊された「東垣十書」も含まれていたと伝えられる。御医(王様の主治医)であった許浚は当然、多くの医書を読む機会に恵まれていたと思われる。

       さて

「東醫寶鑑(とういほうかん)」中の益胃昇陽湯は益胃湯升陽湯と記載されているものもあるが、私自身は昇陽の方が升陽よりも妥当な気がする。なぜなら許浚が参照引用した文献はほとんどが中国の医書であり、昇陽が普通であったと思うからだ。

もっとも「昇」の現代中国簡体文字が「升」であるから、こだわりすぎる気もしないでもない。

       さて さて

昇陽益胃湯(脾胃論)李東垣(11801251)中国時代区分では金元時代になる。

組成は:黄蓍 人参 半夏 炙甘草 羌活 独活 防風 白芍 茯苓 澤瀉 柴胡 黄連 生姜 大棗 である。

方意と効能に関しては前のブログで考察した。

       許浚の益胃昇陽湯と比べてみよう。

益胃昇陽湯(東醫寶鑑1610 許浚 李氏朝鮮)

組成 白朮、黄蓍、人参 神麹 当帰 陳皮 炙甘草 升麻 柴胡

    あれ? あれ?

湿剤 利痺剤羌活 独活 防風 苦降薬黄連 清湿熱澤瀉の配合が見あたらないなぁ、、。

どこかで同じ組み合わせを見たことがあるような、、、、、

    ここまでくれば賢明な読者はすでにピーンとひらめくのである

補中益気湯(脾胃論:李東垣)黄耆が君薬である。

黄耆 人参 白朮 炙甘草 柴胡 升麻 当帰 陳皮 

効能:補中益気 昇陽挙陥 甘温除大熱

東醫寶鑑中の益胃昇陽湯は李東垣の補中益気湯そのものではないかと

    補中益気湯

補中益気湯(ほちゅうえっきとう)は、李東垣によって考案された方剤である。黄耆(おうぎ)が君薬(くんやく)の方剤である。君薬とは方剤の中でもっとも重要な役割を果たす生薬を指す。黄耆が君薬で、それに補気剤である四君子湯(人参 茯苓 白朮 炙甘草)から茯苓を除いたものに、活血養血剤である当帰に、理気薬のうち温薬のひとつである陳皮と涼薬である柴胡(さいこ)と升麻(しょうま)を加えたものである。

    補中益気湯の効用

胃腸を丈夫にする補中益気(ほちゅうえっき)作用、肛門脱出(脱肛)や子宮脱など中気下陷(ちゅうきかかん)の、いわゆる内臓下垂を改善する昇陽挙陥(しょうようきょかん)、気虚発熱(ききょはつねつ)を解熱させる甘温除大熱(かんおんじょたいねつ)の作用の3つと言われる。甘温除大熱の意味は、君薬である黄耆と、同じく甘温剤である人参、白朮で気虚発熱を解熱することを指す。

    気虚発熱とは?

李東垣(元)は著書“脾胃論”の中で、疲れすぎの際の発熱の病理として、命門の火と元気は不両立であり、勝即一負の原則(片方が弱ると片方が勝る)を展開し、疲れすぎで元気が衰えると、その分、命門の火(中医学が想定する生命を維持する火)が強くなり、気虚発熱の原因となると説いた。これは、現代中国医学からすれば、やや「こじつけ」的な理論であり、現代では、肉体疲労が重なったり、飲食の不摂生によって脾気虚(ひききょ)が生じると、その結果、津液(しんえき)が生成不足になり、陽気を制御する陰(いん)に属する津液の不足によって、陽気が外表に広がって発熱をきたすとする説と、脾気が弱ると清陽不升(せいようふしょう)といい、陽気が上昇できなくなり、鬱滞(うったい)する結果、やがては発熱をきたすという説が有力である。

    柴胡(さいこ)と升麻(しょうま)の役割

柴胡と升麻は両方とも涼薬である。

昇挙陽気(しょうきょようき)といい、鬱滞した陽気を動かして引っ張りあげて発散させるという働きです。方剤学ののなかで引経使薬(いんけいしやく)という役割を果たしている。黄耆にも昇挙陽気作用がある。

なぜ許浚は益胃昇陽湯に補中益気湯と命名しなかったのか? 謎ですね。

気候の差も漢方医を理解する上で重要ではないか?

李東垣は河北省の生まれである。冬の寒冷は許浚の生まれた朝鮮半島北部寄りの場所と同じである。戦乱で李東垣は河南地方に避難したと伝えられている。その地は暑湿がかなり強い地域があり、東垣翁も閉口したに違いない。幼いころの環境に慣れた身体にとって「中国の内陸部の暑湿はえらいこっちゃ」とご自分の身体にとっても必要な羌活勝湿湯や昇陽益胃湯、清暑益気湯を創出したとは考えられなくもない。晩年に東垣翁は山東省に移住している。暑さと湿に弱かったのかもしれない。

一方、許浚は朝鮮半島南部の温暖多湿の地方とはあまり関係のない場所に過ごし、墓は現在の軍事境界線の近く(77歳で没したと伝えられる)、非武装地域にあることから推察しても、暑湿があるにせよ耐えられるであったと思われる。ドラマでの話しであるが、許浚は頑強な体躯で、酒にも(女にも?)喧嘩も強かったという。加えて、許浚が働いていた漢陽(今のソウル)の緯度は新潟とほぼ同じ、ソウル地方の年間降水量は11001400mmで、年間降水量の5060%が夏に降り、東京の年間降水量より若干少ないのである。半島は原則、日本と同じ海洋性気候であり、中国内陸部の大陸性気候と大いに異なる。裕福な家庭に生まれ、潔癖性でやや線の細い秀才肌の東垣翁には終生 酒色を絶ち謹厳を通したという伝説もある(71歳で没した)。ともに努力勤勉の漢方医であるが、両者それぞれの生地の気候 生い立ち 師事した老師の性格、活動した地域の気候、本人の体質に想像を馳せてしまうのである。

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益胃湯と昇陽益胃湯 (2)

2009-05-22 18:50:59 | 健康・病気

似たような名称であるが効能はまったく異なる。直前のブログで益胃湯について簡記した。

出典と組成

益胃湯(温病条弁)呉鞠通198年)清代

組成 沙参 麦門冬 生地黄 玉竹 氷砂糖

赤は温薬、青は涼寒薬、緑は平薬である。

益胃湯からさかのぼること約600年前

昇陽益胃湯(脾胃論)李東垣(11801251)中国時代区分では金元時代になる。

組成黄蓍 人参 半夏 炙甘草 羌活 独活 防風 白芍 茯苓 澤瀉 柴胡 黄連 生姜 大棗 である。

やたらに組成生薬が多いのである。まず益胃湯にあるような養陰剤の配合はない

あえて言うならば白芍一薬(養血斂、柔肝止痛、平抑肝陽)が陰を保つ意味がある。東垣翁の生前に著作が刊行された記録はなく、いずれも没後に弟子の羅天益によって世に現われたものが大半であることからして、東垣翁が創生した各種の方剤の正確な成立年代は不明といわざるをえない。東垣翁の功績を世に知らしめた「傷寒会要」「医学発明」「用薬法象」「東垣試効方」「脈訣指掌病式図説」「内外傷弁惑論」「脾胃論」「蘭室秘蔵」などの著書中の方剤で現代でも良く用いられているものを私なりに順に調べていくとする。昇陽益胃湯の理解に役にたつからである。 東垣翁の処方は十数味を越えるものが多く、一般に多味と評されている。臨床実際として病に臨み処方を組もうとすれば、症状に応じ、あれもこれもと薬味が増える傾向が生まれたのであろう。しかし、生脈飲は3味、当帰補血湯は2味である。

朱砂安神丸(医学発明):朱砂 当帰 生地黄 黄連 炙甘草

復元活血湯(医学発明):柴胡 萋根 当帰 紅花 甘草 穿山甲 大黄 桃仁

普済消毒飲(東垣試効方):黄芩 黄連 陳皮 生甘草 玄参 柴胡 桔梗 連翹

板藍根 馬勃 牛蒡子 薄荷 白僵蚕 升麻

ここまでの方剤には昇陽益胃湯と共通する薬剤の組み合わせはない。

生脈飲(内外傷弁惑論):人参 麦門冬 五味子

ここで人参が出現してくる。

羌活勝湿湯(内外傷弁惑論):羌活 独活 防風 藁本 川 蔓?子 甘草 

最初の3薬の組み合わせ 羌活 独活 防風が昇陽益胃湯で出現してくる。

羌活勝湿湯(内外傷弁惑論)については過去ブログhttp://blog.goo.ne.jp/doctorkojin/d/20080630

を参照してください。

当帰補血湯(内外傷弁惑論):黄耆 当帰

「当帰補血湯」は黄耆と当帰が5:1で組み合わされている。分量比率の妥当性が近年科学的に実証されている。


益胃湯と昇陽益胃湯 (1)

2009-05-21 18:33:12 | インポート

似たような名称であるが効能はまったく異なる。

出典と組成

昇陽益胃湯(脾胃論)李東垣(11801251)

組成:黄蓍 人参 半夏 炙甘草 羌活 独活 防風 白芍 茯苓 澤瀉 柴胡 黄連 生姜 大棗

中国時代区分では金元時代である。下ること約600年後の清代になり、益胃湯が現れる。

益胃湯(温病条弁)呉鞠通198年)

組成 沙参 麦門冬 生地黄 玉竹 氷砂糖

赤は温薬、青は涼寒薬、緑は平薬である。

黄色とブルーの意味

李東垣を黄で表記したのは後世、脾胃論に代表される補土派であり、五行学説で脾胃は中焦、色は黄であるからである。

呉鞠通を薄いブルーで表記したのは、養陰生津剤が多くは涼寒の性質を持ち、彼が温病(熱病)の治療において、清熱解毒、養陰生津を重んじたからである。

同じ益胃湯と命名されているが、違いを判断する上で、中国医学の発展の推移がまず参考になる。歴史的に古い順から簡略に述べるが、

中国医学史簡記

漢代における張仲景(130?~219)は、先人の経験と自分の臨床体験を結びつけて「傷寒雑病論」(秦代の後の後漢時代の傷寒論、金匱要略を指す)を著した。一部(傷寒論)は六経をもって総括され、熱病の専門篇である外感熱病として認識される。金匱要略は、臓腑病機を総括され、内傷雑病を認識し、方法、処方、薬物を含む、辨証論治の理論体系を創造的に確立しつつ、中医内科学の基礎となった。現在話題の映画「レッドクリフ」赤壁の戦いが208年であったから、当時張仲景は存命していたことになる。

晋朝時代の王叔和は後漢霊帝の光和3年(AD180)から西晋泰始6年(AD270)頃まで在世したが、張仲景の『傷寒雑病論』が仲景の死後、わずか10年で戦乱のために散逸したことに心を痛め、叔和はよくこれを収集して、編集復刻した。叔和が著わした「脈経」(脈診の手段、脈の分類、臨床的定義などがほぼ完全に述べられている。「脈経」には歴代の医書がほとんど引用されており、内科の診断においてきわめて大きな影響を与えた。同時代の葛洪の著わした「肘後備急方」には、簡単で有効な薬について多くの記載がされている。例えば病(甲状腺疾患)の治療には、海藻、昆布を用いることが述べられており、これらの方法はヨーロッパに比べて、千数百年も早い。

隋代(581618 都は長安 現代の西安市)の巣元方の「諸病源候論」は、中医の病理専門の本であり、その中では、内科疾病の記載が大半である。巣元方は煬帝に上奏して『諸病源候論』を作ることを提案し、勅命によってその計画が実行され5年後の610年に完成した。しかし刊行を目前にしながら、随は唐に亡ぼされた。原稿が発見されたのは、唐代の玄宗の頃で、『外台秘要』の中で、『諸病源候論』が引用されている。

宋代に至って、その価値が改めて見直され、はじめて単独で印刷出版された。『諸病源候論』は、病因諸侯学をまとめた書物としては、初めての著作であり、急性伝染病から各種内科疾患、外科、皮膚科、婦人科、小児科、眼科、耳鼻科等々、当時の病気という病気の総まとめの、しかもその原因にも言及している。外科には、刃物で断たれた腸を縫合するような記述もある。

唐代の「千金方」「外台秘要」の両冊には、内科の治療方法が更に豊富に書かれている。北宋時代の「太平聖惠方」「聖済総録」は、国家が頒布した内科書である。南宋時代の「三因極一病証方論」は、病因をさらに一歩明らかにしたものである。

金元時代には、内科学術方面において多くの独特のすぐれた点があった。例えば劉完素は、火熱に対しては寒涼の方法を提唱した。劉完素は『素問』中の運気学説を熱心に研究し、風・湿・燥・寒などの邪気も火と化して病となることを説き、「六気は皆火に従いて化す」と結論づけた。この「火熱」に対して、治療としては寒涼の薬をたくさん用いたので、後世「寒涼派」と呼ばれる。金元四大家の一人である。「防風通聖散」は彼の創方による。張従正は治療における攻邪の方法として、汗法、吐法、下法の三法説いた。「攻邪派」の代表である。劉完素の後を継いだ金元四大家の一人李東垣は、内傷について脾胃を重んじて論じた。補中益気湯、生脈散は李東垣の創方による。李東垣は張元素に師事した。東垣は泰和2年(1202)に済源へ赴任。その四月に流行した疫病に特効のあった創方を、普済消毒飲子と命名している。 東垣の著作と伝えられる書はすこぶる多い。しかし東垣の生前に著作が刊行された記録はなく、いずれも没後に世に現われたものである。脾胃を重要視した補土派の先駆者である。朱丹渓は「陽は常に余り、陰は常に不足している」との説をたて養陰を主な治療法とした。後の中国医学界に滋陰降火という考え方を残し、滋陰派と呼ばれる。朱丹渓は前三家と併せて、金元四大家といわれ、また金元医学の集大成者ともいわれる。その著作は、金四大家のなかで最も多く、二十数種を数え、その代表が『格致余論』『局方発揮』『丹渓心法』などである。後世に大きな影響を与えたのはもちろん、日本では「丹渓学社」がつくられた。

彼らは、各方面にわたって新しい知識を打ち立て、中医内科学に対して豊富な理論と実践の経験を提供し、多いなる貢献をした。

明代において薛己の「内科摘要」と、王綸の「明医雑著」が有名である。後者の中に、外感法は張仲景、内傷法は李東垣、熱病には劉完素の方法と雑病には朱丹渓の方法を用いるとある。これは、その当時の内科学術思想の一つのよい総括であった。また、王肯堂の「証治準繩」、張介賓の「景岳全書」、秦景明の「症因脈治」等の著作は、内科における多くの病証について深く認識させ、とりわけ「景岳全書」は、更に独自の見解をもち、内科の辨証論治に対して重要な貢献をして来た。

清代における中医内科の特筆すべきことは、温病学説の発展である。例えば葉天士、薛生白、呉鞠通、王孟英等は温病学に対して大いなる貢献した代表人物である。彼らの著述は中医内科学上において、新しきページをひらいたのである。清代叢書の編集は、更に豊富になり、内科を主体とする書籍は、「図書集成医部全録」「医宗金鑑」「張氏医通」「沈氏尊生書」などがあり、その他簡結に短く実用的な「証治匯補」「医学心悟」「類書治裁」「医学実在易」「医林改錯」等がある。これらは、中医内科学の発展に大きく起与している。

益胃湯(温病条弁)呉鞠通1