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日本の国際的な威信の低下に付け込む諸外国 5

2012-08-22 07:00:00 | 日韓併合 朝鮮独立運動 竹島

連合軍占領下での独立運動 連合軍の軍政に対し蜂起した南朝鮮人

朝鮮人は朝鮮人民共和国の建国が謳ったが、それを承認しない連合国は、武力進駐し、軍政が布かれ朝鮮は南北に分割統治された。連合軍占領下の朝鮮では日本統治時代と異なり、強制拠出や自然災害などによる疫病の流行と、物価高騰(インフレ)が続発し、194610月には230万人の朝鮮人が連合国に対して蜂起し、大邱10月事件が起き100名を超える犠牲者が出た。アメリカの支援を受けた李承晩による南北分離独立政策に反対する市民が蜂起し、武力鎮圧の結果、数万人が殺害された。

済州島四・三事件

(チェジュとうよんさん事件)は、194843日に始まる。在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島本土の右翼青年団などが1954921日までの期間に一連の島民虐殺事件を起こした。

島民の蜂起の思想的背景には南朝鮮労働党が関与しているとして、韓国政府側は政府軍と警察による粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。済州島の村々の70%が焼き尽くされた。この事件は麗水順天(ヨス・スンチョン)事件の背景

にもなった。

麗水順天(ヨス・スンチョン)事件

1948年1019日、全羅南道麗水郡に駐留していた国防警備隊第14連隊は、済州島で起きた済州島四・三事件鎮圧の命令を受けていた。しかし南朝鮮労働党を支持していた連隊将校らは命令に服さず、反乱蜂起した。反乱軍は抵抗する警察官のほか、李承晩派の韓民党員、右翼幹部など数十名を連行し殺害した。

反乱は全羅南道麗水郡から隣の順天郡にも拡大した。李承晩は直ちに鎮圧部隊を送り込み、1027日に事件を鎮圧した。反乱軍は北部の山中へ逃げ込み、長くゲリラ抵抗が続いた。事件では非武装の民間人8000名が殺害された。アメリカ軍機、韓国軍兵士、北朝鮮軍兵士、パルチザンにより殺害された。

この事件の混乱時期に日本へ不法入国して、在日韓国朝鮮人となるものがあった。

1945

92日に日本が連合国に対し戦艦ミズーリ上で、尹奉吉の爆弾テロである上海天長節爆弾事件で右脚を失った重光葵政府全権(外務大臣)が降伏文書にサインして、降伏文書調印式が終了すると、朝鮮半島は米軍とソ連軍により北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザンを称する金日成の北朝鮮労働党政権が、米ソの力を背景に基盤を固めた。1945910日、朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、まもなく、済州島人民委員会と改められた。194731日、済州市内で自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた。この事件を機に310日、抗議の全島ゼネストが行われた。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部の平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体である「西北青年団」を済州島に送り込み、白色テロルを主導した。

西北青年会は島民に対する弾圧を重ね、警察組織と協力して島民の反乱組織の壊滅を図ったが、南朝鮮労働党は、194843日、島民を中心とした武装蜂起を起こした。

済州島民の蜂起と韓国による鎮圧

1948

年に入ると、南朝鮮は北朝鮮抜きの単独選挙を行うことを決断した。島内では選挙を前に激しい左右両派の対立が生まれた。その中で、4月3日、単独選挙に反対する左派島民が武装蜂起した。警察と右派から12名、武装蜂起左派島民側からは2名の死者が出た。事件当初は交渉による平和的解決も模索された。 しかし、アメリカ軍の介入と西北青年団の妨害行動で交渉は決裂し、流血事態となった。蜂起は後の韓国軍である朝鮮国防警備隊や警察、西北青年団などの治安部隊によって短期間で鎮圧された。武装蜂起遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになっていった。 治安部隊は潜伏している遊撃隊員と同調する島民の処刑粛清を行った。処刑粛清は815日の大韓民国成立後も正式発足した韓国軍によって継続された。韓国軍は、村を襲うと若者達を連れ出して殺害し、少女達を連れ出しては、数週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に殺した。

1948

9月、金日成は朝鮮人民軍を創設し、続いて朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。1950年に南北朝鮮労働党が合同し、金日成の朝鮮民主主義人民共和国が韓国に侵攻し朝鮮戦争が始まった。 

韓国では朝鮮労働党党員狩りは熾烈さを極め、1954921日までに3万人が、1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。また、韓国本土で保導連盟事件(ポドヨンメンサコン)が起きると本土と同様にチュジュの刑務所で1200人が殺害された。海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている。

保導連盟事件

(ポドヨンメンサコン)

韓国では近年まで事件に触れることもタブー視

されており、「虐殺は共産主義者によっておこなわれた」としていた。1950625日の朝鮮戦争が勃発し、李承晩大統領の命令によって軍や警察が共産主義からの転向者、その家族を再教育するために設けられた統制組織である「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人など、少なくとも20万人あまりを大量虐殺した事件である。虐殺された人数は近年の韓国での研究で60万人から120万人に上るとされた。李承晩大統領の失脚直後、全国血虐殺者遺族会が、遺族たちの申告をもとに報告書を作成し、その報告書によれば虐殺された人数は114万人である。韓国政府の「真実和解のための過去史整理委員会」は朝鮮戦争の初期に韓国政府は子供を含む少なくとも10万人以上の人々を殺害し、排水溝や炭鉱や海に遺棄したことを確認した。アメリカ軍の公開機密書類にはアメリカ軍将校の立会いと虐殺の承認などが詳細に記録されている。ワシントンは虐殺の写真が半世紀の間隠蔽し続けた。虐殺の事実はアメリカ軍司令官のマッカーサーにも報告されていたが止めようとした形跡は発見されていない。

済州島は歴史的に流刑地

だった。朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。現代のオーバーステイ、不法滞在である。韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身である。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日朝鮮人となった人々も多い。日本へ逃れた島民の一部は大阪にコミュニティーを建設した。済州島では事件前(1948年)に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる。

長年「反共」を国是に掲げてきた韓国では、責任の追及が公的になされていない。また、事件を語ることがタブー視されてきたため、事件の詳細はまだまだ未解明である。

21世紀になって、韓国大統領となった盧武鉉(ノムヒョン)は、自国の歴史清算事業を進め、200310月に行われた事件に関する島民との懇談会で初めて謝罪した。また、済州四・三事件真相糾明及び犠牲者名誉回復委員会を設置した。さらに2006年同日の慰霊祭に大統領として初めて出席し、島民に対して正式に謝罪するとともに、事件の真相解明を宣言した。しかし2年後、盧武鉉は2008年2月に自殺した。

事件から逃れて日本に密航した済州島出身の在日朝鮮人は、その恐ろしい体験から「再び酷い目にあわされるのではないか」と祖国へ数十年も訪れることのない人々も多かった。韓国政府が反省の態度を示し始めたことで、60年ぶりに祖国を訪れる決心をした人物も現れ始めている。

新潟在住のころ、行きつけのコリアンバーで、女性たちと踊り、歌ったのが

済州(チェジュ) エアポート」である。単なる歌謡曲と言ってしまえばそれまでだが、

 

You Tube http://www.youtube.com/watch?v=MqtQSs7KEQE

歌詞中「 はるか東に飛び立つ影よ の 東 」とはもちろん日本である。

日本人観光客向けの歌であろうが、、  しかし

想像を膨らませ、在日済州島出身の祖父母、子供、孫たちが(結婚した日本人も連れて)自分のルーツの済州島を訪れて、知人や愛人との別れを惜しむ歌でもあるとすれば、「日韓の歴史を感じつつ」酒が飲めるのである。

1  

済州島で虐殺された住民の御遺体を対馬の日本人が浜から引き上げ、篤く供養した後に、寺に安置した。海流は済州島から対馬へ向かう。対馬海流を「済州海流に改めよ」などとは言い出さないであろうが、、。

八月十六日 記


日本の国際的な威信の低下に付け込む諸外国 4

2012-08-21 07:00:00 | 日韓併合 朝鮮独立運動 竹島

抗日武装闘争と民族の解放

国外での独立運動

1931年9月に満州事変

が発生し同年末までに日本が満州全土を占領すると、満州の武装した独立運動家達は日本軍と対峙した。朝鮮革命軍韓国独立軍は、中国人達と提携し日本軍に戦闘を挑んだが、連戦連敗し、万里の長城以南へ後退した。社会主義者達は、満州を中心として遊撃隊を結成して、抗日闘争を展開した。

937年に日中戦争が勃発すると、金元鳳や尹世冑、韓斌、金学武など約130名が中国国民党から公式に支援を取り付け193810月に朝鮮義勇隊を創設した。日本軍後方での諜報及び工作活動に携わった。朝鮮義勇隊の主力部隊は、1941年春に黄河を渡って朝鮮族の多い華北地方に拠点を移した。華北に移った朝鮮義勇隊は、共産党軍の八路軍と協力して胡家荘戦闘や反掃討戦など多くの戦闘に参加した。その戦闘は多くはゲリラ戦であり、農民である「非戦闘員」との区別がつかない風体が多かった。農村部での日本軍の拠点活動を「点と線」にさせた。ベトナム戦争での米軍が置かれた状況に酷似している。国民党の支援を取り付け、次は共産党軍

とゲリラ戦を行うという、相手かまわずの迷走ぶりだが、中国側からすれば、対日戦では利用できる戦力だったのだ。

光復軍青年工作隊

一方、日中戦争の勃発後に、大韓民国臨時政府は、1940年に重慶に移ったが、1940年9月に幹部わずか12名で韓国光復軍を創設した。光復軍は、19425月に華北へ向かわなかった朝鮮義勇隊の残留部隊を吸収し、1943年8月に旧朝鮮義勇隊出身者8名を選抜し、心理戦 宣伝戦特殊要員として、インド ビルマ戦線に派遣した。一方では、中国にあったアメリカ戦略諜報機関である OSSOffice of Strategic Service)との間に「光復軍隊員を選抜して諜報訓練を実施し、彼らを朝鮮半島に浸透させ、敵後方工作を展開する」という内容の「鷲作戦」(イーグルプロジェクト)を作成したが、光復軍が予想していたよりも早く日本が降伏したため、国内(併合韓国)進入作戦は実現しなかった。

光復軍は一度も日本と交戦せず、日本の降伏を迎えた。金九

は日本が降伏したとの一報を耳にした際、天を仰いで長嘆息した後、以下のように嘆いた。「韓国軍は、日本軍を打ち破ることは一度もなかった。私は日本軍を撃滅して、わが同胞を解放したかった。最後まで、日本軍に制圧されたままの解放なんて、結局何もなるまい。日本帝国はひとたび滅びても、より逞しく再建されるだろう。その時日本人は、庚戌国変の時より残酷に我々を奴隷にするだろう。その時、わが同胞は日帝と闘う気力を持っているか。自力で日帝から解放することも出来なかったわが同胞に、とてもそんな力があるとは思えない」

朝鮮人の執拗な被害者意識と「日帝」に対する恐怖意識と反日感情は、医者の目からすれば強迫神経症に似た一種の「金九嘆息後遺症」ではないか

と思う。

半島内での独立運動

初期の日中戦争での日本軍の連戦連勝

を受けて、朝鮮半島では日本を事大主義の対象とする意識が次第に浸透するようになった。崔麟ら三・一独立宣言文の起草メンバーの多くが親日に転向した。1939年 10月末頃に、総督府警察に要注意人物としてブラックリストに載った人数は、約7600人だったが、内の約40%である3076人が転向を表明している。非転向者は約23%、残りの37%は不明とされた。しかし、1930年代後半から抗日活動家のうちの民族主義者の比率は増加し、1940年代に入っても増加した。1940年~1941年にかけての思想犯検挙の状況によると、共産主義者の逮捕者数が668名から158名に減少したものの、民族主義者の逮捕は72名から176名に増加した。

日米開戦(1941年12月)以降の日本では、外地である朝鮮半島においても、あらゆる分野で物資不足が叫ばれた。戦争末期の国民徴用令の朝鮮における施行1944年(昭和19年)88日)、朝鮮人が朝鮮から渡航した。本土内ではサボタージュ、徴用や徴兵、学兵、供出の拒否、デマの流布などのいわば消極的抗日活動も見られた。国民徴用令の適用を免除されていた朝鮮人にも実施するとした閣議決定が実施されたのは19449月から19458月の無条件降伏までの11ヶ月であった。実際の朝鮮人徴用労務者の本土日本への渡航は19453月の下関-プサン間の連絡線の運航が止まるまでの7ヵ月間であった。外務省によれば300名弱である。1959年(昭和34年)時点で日本いた朝鮮人(在日朝鮮人)は61万人であり、彼らは自分の自由意志によって日本に留まったまたは日本生まれである。

第二次世界大戦中の国外(半島の外)における独立運動は、殆ど何も出来ない状況だった。日本軍玉砕などのニュースに接し、日本の敗戦が濃厚となっていると感じてくると、重慶臨時政府では、「連合国に独立後の正当な政府と認められない可能性もあり、直ちに半島に帰還することも出来ないのではないか」という懸念が浮上するようなった。1940年代の半島における唯一の独立運動団体だった建国同盟の役割は大きいものであった。建国同盟は、日本の敗戦を見越した1944810日に、呂運亨や趙東

などを主導に立ち上げられた。

建国同盟の綱領は、「各人各派を大同団結し、挙国一致で日帝を駆逐し、韓民族の自由と独立を回復する。連合国と連合戦線を形成し、一切の独立を阻害する反動勢力を撲滅する。民主主義的建設と、労農大衆解放に重点を置く。」であった。

建国同盟は北京を拠点に華北の朝鮮義勇軍と連結し、重慶の臨時政府とも連絡を取ろうとした。194410月には建国同盟の友軍とも言える農民同盟が組職された。呂運亨は徴用や徴兵の拒否者達の組職に関与し、共産主義者達とも提携した。

呂運亨

 釈放された政治犯

1945年815日(日本無条件降伏日)に、朝朝鮮総督府の要請に従って遠藤柳作政務総監に会った呂運亨は、

全朝鮮の政治犯 経済犯を即時釈放せよ。

集団生活地である京城の食糧を3ヶ月分確保せよ。

治安維持と建設事業に何の干渉もするな。

朝鮮において指導力となる学生の訓練と青年の組織に干渉するな。

全朝鮮の事業場の労働者を我々の建設事業に協力させ、何の苦しみも与えるな。

といった5ヶ条の要求を提示した。呂に日本人の生命及び財産保護の為の治安協力を要求したかった遠藤政務総監は、呂の要求を聞き入れざるを得なかった。翌日から、政治犯達が釈放された。

建国同盟は、1945815日の解放直後に改編して、「朝鮮建国準備委員会」として発足した。

同日の日本の降伏によって、朝鮮独立運動は相手を連合軍に変えて継続されることになる。

「三国人」は差別用語なのか?

GHQの連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥の発した布告が、「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三國人なり」と言う声名で、朝鮮人に限らない「第三国人」の表現が生まれた。これは「区別用語」であり「差別用語」ではない。差別意識の有無は別なのだ。

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ビート武主演 血と骨

反日在日の急先鋒とされる崔洋一監督、原作梁石日(ヤンソギル)出演の金俊平を演じたのはビートたけし。女房の李英姫を鈴木京香娘の金花子を田畑智子が演じている。済州島時代の俊平が15歳の時に、人妻を寝取って生ませた息子の朴武をオダギリジョー、朴希範:寺島進 花子が恋心を抱くようになり、非合法組織「祖国防衛隊」に属し、逮捕されてしまう張賛明を柏原収史が演じている。医学的には正しくないが「血は母より骨は父より受け継ぐ」と朝鮮では言う。併合朝鮮半島では19238月に平壌の靴下工場の2000名によるストライキ、19239月から 1年以上展開された全羅南道新安郡岩泰島における小作農民の地主を相手にした闘争があったその1923年、成功を夢見て済州島から大阪南港へ降り立った金俊平少年。朝鮮人街での裸一貫から、持ち前の暴力性と上昇志向で自前の蒲鉾工場を構え、大金を手にする。のし上がった俊平だが、若い清子を愛人として女房の李英姫の隣の家に囲い、清子が脳腫瘍になれば、愛人定子を介護につかせ、最後には清子を濡れ新聞紙で窒息死させる。金貸しに転じた俊平は凶暴さと強欲さで悪名も高く、家族までがその存在を怖れた。俊平の息子の正雄は、俊平を「頭のおかしいオッサン」と軽蔑しつつも、その尊大巨大さに憧れとも畏怖ともつかない複雑な感情を抱く。そんな折、俊平の息子を名乗る武という青年が現れ、金家に転がり込んで、愛人も連れ込んで好き勝手に暮らし始める。俊平の存在に平然としている武の姿に、正雄は羨望の眼差しを注ぐ。 俊平は最後には朝鮮総連を介し、ほぼ全財産を献金し、北朝鮮に帰還し、大阪南港に降り立った回想の中で凍えて衰弱死する。原作者の実父をモデルとした金俊平は、在日一世として裸一貫でのし上がるが、狂気と凶器に近い言動行動で周囲を怖れさせ、孤独の生涯を生き、この世の楽園といわれた北朝鮮で最後を迎える。俊平は生涯、「お前は私の骨(クワン)だ」と「息子」を欲した。

崔洋一を「動」とすれば姜 尚中(カンサンジュン)は「静」である。

私個人は両者ともに嫌いではない。しかし、もし一緒に酒でも飲んだら崔洋一とは必ず殴り合いになるだろう。

「その男凶暴につき」の北野武は適役であった。

そのうち崔洋一は、柳の下のドジョウじゃないが、金嬉老事件のキャスティングに北野武を御指名するかも知れない。

「血と骨」を打ったのは私個人にも関連する

ことがあるからだ。大学入学から通算すれば新潟在住は20年ぐらいになるが、大学キャンパスがあったのが新潟市西大畑町であり耽読した「堕落論」の著者坂口安吾の生まれた地であり、彼が「東洋大学インド哲学科」卒であることから、私も医学部6年間の初めの2年間の選択科目にインド哲学を選んだ。戦後焼け跡派と自称する私の好きな野坂昭如の父は新潟県副知事を務めた。昭如氏の学歴は新潟大学中退、早稲田大学文学部中退であり、神戸とも縁が深く、私の「マリリン モンロー」に対する感情「火垂るの墓」に対する思い入れには野坂の影響がある。さて、その新潟西港では北送事業で使用された万景峰号(マンギョンボンゴウ)は目にしたし、湊町や田中町近くには在日の経営する「二階建て隠れ売春酒場」が並んであり、足を運んだこともある。何よりも「横田めぐみさん」が拉致されたのは、おそらくは新潟市護国神社近辺であった。大学から派遣され勤務していた病院の裏の柏崎海岸は「蓮池薫さん」「奥土祐木子さん」の拉致現場であり、女房の誕生地である佐渡では「曽我ひとみさん母子」が拉致された。

父が亡くなり、その遺骨の一部分を「火垂るの墓」のごとくドロップ缶に入れようとしたが、頭蓋骨の一部分が大きすぎて缶の口から入らないために昆布茶の缶に入れて緑茶を混ぜ母親に内緒で隠しもっていたことがある。今でも狂気じみていると思うが、私は時々その遺骨を噛み締め、噛み砕いては飲み込んだ。「血と骨」を観た時に、個人的な思い出が蘇った。「骨クワン」である。

武庫之荘に住み尼崎で働いていた時代には、戸の内の在日さんが「ヤギの睾丸の刺身」と「自家製マッコリ」を馳走してくれたこともある。

神戸に移ってからは、韓国バーで泥酔し、韓国からの出稼ぎ女に背広の内ポケットから財布を盗まれそうになり「何すんや!お前ら!」と怒鳴ったら、いわゆる「組の者」じゃない「在日の荒くれ」に顔面パンチを食らったこともある。その後の経過は記憶していない。翌日、財布を調べたが、どうやら金を払わずに帰ってきたらしい。ど近眼の私は翌日、メガネを壊されたために診療に支障をきたした。全身も痛んだが「自転車で転んだ」と訝しがる看護婦に言った。

俊平が「これ食って精つけて俺の息子を産め」とウジの沸いた肉を清子に食わせるシーンがあったが、ウジの沸いたキムチを在日さんから好意?でプレゼントされたこともある。投げ捨てるだけでは、庭先の環境を汚染するのというか、生理的嫌悪というか、ともかく不快感に耐え切れず、ライターオイル2缶を振りかけ続け燃え尽きるまで見ていた

私は、極寒のシベリア抑留時代に、線路上に散在する「豚の糞」の「未消化の豆」を食って餓えをしのいだ父の長男ではあるけれど、「ようし、食ってやらァ」の気分にはなれなかったのだ。日本語で言う「骨のない」男であった。

日本の国際的な威信の低下に付け込む諸外国 5

連合軍占領下での独立運動 に続く、、


日本の国際的な威信の低下に付け込む諸外国 3

2012-08-20 07:00:00 | 日韓併合 朝鮮独立運動 竹島

日本からの独立運動

 新幹会の結成と活動

1920

年代は、ロシア帝国で起きた十月革命の影響により、社会主義思想が朝鮮においても蔓延し、ソウル青年会 新思想研究会 北風会など結成された。社会主義者達は民衆の階級闘争を指導する一方、民衆の利益を代弁する階級政党建設に尽力し、1924年前稿で述べた朝鮮労農総同盟朝鮮青年総同盟が発足、19244月に地下組織としての朝鮮共産党を結成した。

中国では、第一次国共合作が成立し、社会主義者達は、民族主義系列内で自治運動を主張する妥協的民族改良主義者が分化されるに及び、非妥協的民族主義者達と結託し、19272新幹会を結成した。結成後、各地方で新幹会の支会が結成され、1928年末には全部で143の支会が組職された。その会員数は 2万人に達した。新幹会本部と各支会は、様々な階級闘争を主導ないし支援した。192911月に光州で朝鮮人学生のグループと日本人学生のグループ間の衝突事件である光州学生事件の際は、真相調査団を派遣し、京城で大規模な民衆大会を準備し、半島全土で抗日運動を起こすことを計画した。総督府は、新幹会の主要幹部約40名の逮捕に踏み切った。これにより、新幹会は衰退し、19315月に解散した。

槿友会

1927

年、朝鮮では女性運動団体の槿友会が創設された。槿友会には、啓蒙を主張するキリスト教系と、階級闘争を主張する社会主義系の対立があったが、男性が女性を支配する家父長主義、父権主義である社会構造の中で、差別抑圧を受けた女性達が、自らの声を挙げたという意味では、当時の朝鮮では革新的な団体ではあった。しかし、朝鮮人の知識層からは、男女差別は民族の歴史的伝統であるがゆえに、激しい反発を受け、1930年代には有名無実なものへと衰退した。

革命的大衆組織建設運動

1930年代に入り、革命的労動組合 農民組合運動が活発に起きるようになった。労動組合活動家達は、京城トロイカを組織して、地下の非合法的準備組職を結成する一方、合法的な労働組合、ストライキ本部、労動者懇親会などを結成して運動を指導した。工場新聞パンフレットなどで、8時間労動制や最低賃金制、同一労動、同一賃金を宣伝しつつ民族解放運動を先導した。それら革命的労動組合運動は、工業施設が多かった興南 咸興 元山一帯で最も活発だった。193135年までの革命的労動組合運動中に、朝鮮総督府警察が逮捕した人数は、半島全体で1759名になった。

農民組合活動家達は、農村内にあった青年同盟 女性同盟 少年同盟を革命的農民組合に編入し、それぞれに農民組合青年部 婦女部 少年部をつくった。(創価学会創設期の構造に酷似している。)組合に所属した一部の農民達は激しい反日民族解放運動を展開した。特に咸境北道明川の農民達は、戒厳隊 同志奪還隊 監視隊 連絡隊を組織して、総督府に対抗し、闘争を大衆的暴動に発展させた。

1

1931~35年まで、朝鮮総督府警察が摘発した事件は43件、逮捕した人数は4121名にのぼった。だが、1937年(昭和12年)日中戦争の勃発後も、地下活動的な革命的農民組合運動は続けられた。

臨時政府の活動

大韓民国臨時政府主導の下の独立運動は、1920年代中盤以降は衰退していたが、金九(金丸ではなく金九、キムグ)の主導の下に活発化された。金九は、193218刺客(テロリスト)李奉昌を送り込み天皇の爆殺テロを試みたが失敗した。上海では中国国民党機関紙「民国日報」が李奉昌の天皇の爆殺テロ事件について好意的な報道をしたことから、現地の日本人社会による糾弾運動に発展して日中関係が悪化した。同年の1932年の第1次上海事変の原因の1つになる。桜田門事件続いて金九は、日本による上海事変の戦勝を記念した虹口公園での大観兵式と天皇誕生日である天長節の祝賀会テロリスト尹奉吉を送り込み、要人を爆殺しようと爆弾テロを敢行させた。上海天長節爆弾事件である。フレデリックファーサイスの「ジャッカルの日」そのままに、攻撃を警戒して上海派遣軍司令官白川義則大将は会場への道中数度に亘り車のナンバープレートを交換するほどの用心をしていたが、天長節の祝賀会場への入場を中国人は一切禁止されていたために日本語が上手く、日本人に見える尹奉吉を金九は送り込んだ。開催会場が上海中に公開済で、出入りの群衆も多いため完全にチェックするのは難しかった。白川大将の爆弾テロに対する危惧は案の定、現実になり、日本国家の斎唱後半に、尹奉吉は水筒型爆弾を白川大将の足元に、弁当型爆弾を上海日本人居留民団行政委員長で医師である河端貞次の足元に投擲した。直後に爆弾が爆発、日本側要人が爆風と、爆発による破片によってなぎ倒された。河端貞次が即死、第9師団長植田謙吉中将 第3艦隊司令長官野村吉三郎海軍中将 在上海公使重光葵 在上海総領事村井倉松 上海日本人居留民団書記長友野盛ら6名が重傷を負った。重光公使は右脚を失い、野村中将は片方の眼球を失った。上海派遣軍司令官白川大将は526日に死亡した。犯人の尹奉吉は、自殺を図ろうとした所を検挙され、その場での銃殺にはならず、同国民であるという配慮?から、軍法会議を経て1219日午前7時に金沢刑務所で銃殺刑となった。

首謀者であった金九は事件の犯行声明をロイター通信に伝えたうえで、上海を脱出した。日本軍はフランス租界にいた安昌浩ら大韓民国臨時政府のメンバー17名を逮捕した。

梅亭(中国)

上海天長節爆弾事件が発生した地点は現在の魯迅公園北側にある池のほとりである。私も上海在住中に見学に行ったことがある。中韓国交正常化以後に梅亭が建立された。梅亭には実際に梅が植樹されている。梅亭にある建物は資料館となっており、尹の処刑の際に使用された木杭などの資料が展示されている。銃殺だったのに。現在では韓国人観光客の主要な上海観光スポットである。

その後の金九

抗日テロ事件の首謀者

として日本の警察に指名手配された金九は逃亡生活に入った。南京の国民党政府は臨時政府を協力対象とし、金九を保護し、金九1933年には蒋介石と抗日宣戦協力に合意するに至った。

梁起鐸が193310月に臨時政府の大統領に選出され、193510月まで在職した。しかし、日本軍の中国進出によって、臨時政府は上海を脱出し、南京や長沙を経て、1940年に重慶に移った。重慶では国民党とアメリカの援助を得て、韓国光復軍総司令部を創設し、第二次世界大戦が太平洋戦線で拡がった19411210日には対日宣戦布告をしたというが、日本政府に布告文書は通達されておらず、実効性は皆無だった。そして、日本軍とは一度も交戦することの無いまま、日本の敗戦を迎えることとなったのである。

手りゅう弾を左手に持ち太極旗の下で宣誓するテロスト尹奉吉の写真が残されている。主権国家による組織的戦闘が戦争であるなら、国家対個人あるいは組織化されたグループによる戦闘行為がテロである。したがって、尹奉吉は同国民を狙ったテロリストであり首謀者の金九は、現代でいえば、アルカイダの指導者であり、暗殺されたビンラディンということになる。尹は戦後韓国では日本に打撃を与えた独立運動の義士として顕彰されている。

韓国の李明博(イミョンバク)大統領は14日、天皇陛下の訪韓に言及し「韓国を訪問したいのなら、独立運動で亡くなった方々に対し心からの謝罪をする必要があると伝えた」と述べ旨の産経新聞ニュースがあった。韓国大統領が公の場で、直接的な表現で天皇陛下に謝罪を求めたのは初めてだろう。独立運動で亡くなった方々の中には刺客(テロリスト)李奉昌、テロリスト尹奉吉、日本領事一家以下邦人数百名を殺害する尼港事件を起こし現在は亡くなった抗日朝鮮パルチザンの朝鮮人などなども含まれるとしたら、テロ支援国家のテロリストに謝罪しろということになり、きわめて不快感を禁じえない。

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太極旗の下で宣誓する尹奉吉

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李奉昌(イ・ボンチャン、19011932)

ソウル生まれである李義士は1931年中国の上海に亡命した後、金九が結成した韓人愛国団に加入した。翌年18日、東京警視庁正門の前で陸軍観兵式に参加しに行った昭和天皇一行に爆弾を投擲したが失敗、東京大審院で死刑の宣告を受けて同年1010日、市ヶ谷刑務所で刑死した。

1962年、建国勳章大統領賞が追叙されている。

2007416日にバージニア工科大学で銃乱射事件があった。実行犯のチョスンヒは、バージニア工科大学4年に在籍していた当時23歳の男子学生である。 この事件を機にアメリカで反韓感情がわき上がり、一時アメリカ国内では「Back to Korea」などと書かれたプラカードが掲げられる事態にまで発展した。

以前ソウルで歯痛に悩まされ「医院」を受診したことがある。待合室で流暢な日本語で「日本からおいでになったのですね」と老女に話しかけられたことがある。韓国人の歯医師とはお互い比較的流暢な英語で会話した。ともかく、保険証を貸してくれた韓国人、外国人とは知りつつ保険証詐欺を見逃して痛みを除いてくれた韓国人の歯医者には感謝している。

しかし、

天皇の訪韓には、たとえ陛下にその御心があらせられるとしても、私は反対である。我々日本人が敬愛する国民の象徴たる天皇をテロ(韓国に潜入している北朝鮮テロ分子も含む)の危険性に曝すようなことは絶対に避けなくてはならないからだ。加えて、象徴たる天皇に謝罪せよということは「日本国民は全員謝罪せよ」を意味する。ころころ変わる時の権力者の謝罪などでは済まない話なのだ。この理屈に背をむける民主党の政治家がいるのには驚きだ。いまだに何のコメントらしきコメントもない。

連合国にとって「戦勝記念日」なら日本にとっては「敗戦(記念)日」となるのが当然だが、「終戦記念日」と一般化している。八月十五日に記す。

日本の国際的な威信の低下に付け込む諸外国 4

抗日武装闘争と民族の解放 へと続く、、


日本の国際的な威信の低下に付け込む諸外国 2

2012-08-19 07:00:00 | 日韓併合 朝鮮独立運動 竹島

日本からの独立運動

日韓併合

(1910年)以降、特権を奪われた両班や、国際的に広がりつつあった共産主義者などが朝鮮独立運動を行った。1905年にはロシア第一革命が起きている。憲兵警察は言論結社の自由を厳しく取り締った。秘密結社のごとき抗日運動が展開されたが、李氏朝鮮時代末期に高宗が退位させられた後に結成された新民会(シンミンフェ 尹致昊が会長)は、愛国啓蒙勢力が主軸となり、朝鮮の独立運動に多大な影響を及ぼすこととなった。併合直後に「寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件」が起きた。起訴された122人の中で17人を無罪とする一方、残りの105人に懲役刑を言い渡したので「105人事件」ともいう。その後、191310月、105人の中で99人が無罪を言い渡され。米国留学経験のある事件の首謀者である尹致昊などの6人は懲役刑が確定したが、その6人も19152月、大正天皇の即位式の恩赦によって釈放された。日本側は仲介に入った米国との関係悪化を避けた。「105人事件」はこうして決着し、新民会は、などによって、ほどなく解散させられた。

尹致昊はこれ以降、日本の朝鮮統治を容認し、「親日派」へとなっていった。寺内に対する暗殺計画企図は日本側による捏造だったという説もある。朝鮮総督府は、いわゆる「武断統治」を続けた。しかし、朝鮮人の不満が契機の一つとなって、1919年には三・一独立運動が起こる。「105人事件」は、三・一独立運動の引き金ともなった事件であった。その他に1915年に大邱で結成された「大韓光復会」や、1913年に平壌の祟義女学校で作られた「松竹会」などがあった。この時期に半島内では、復僻主義の下に、高宗の復位を主張した独立義軍府も存在した。

日本による統治に反発した農民達が、現在の中華人民共和国吉林省の延辺朝鮮族自治州一帯で、中心都市は延吉である間島(かんとう)に大量に移住して、一部は抗日間島パルチザンとなった。間島は当時日本の主権下にはない地域であったが、1920年(大正9年)には日本が間島出兵を行い、独立軍との間で青山里戦闘を戦った。(満州国が建国されたのは1932年である。)一部の朝鮮系パルチザンは1933年(昭和8年)には中国共産党系の武装抗日組織である東北人民革命軍に編入され、1935年(昭和10年)には国共合作により東北抗日連軍となった。この第1路軍第6師長が金日成である。現在の北朝鮮では間島パルチザンを朝鮮革命の起源としている。間島に限らず、農民達はロシア沿海州にも大挙移住した。同地域で新韓村などの韓人村が形成されるきっかけとなり、間島と同様に海外における独立運動基地の礎となった。

民族解放運動の模索

日韓併合以降、朝鮮総督府による厳しい取り締まりにより、半島内での民族解放運動が困難になった。独立運動家達は海外で民族解放運動の拠点とするようになった。これによって、北間島では洪範図が導く大韓独立軍、西間島では旧新民会勢力が導く耕学社や扶民団、そして沿海州では李範允が中心になった勧業会や、李相?

と李東輝が導く大韓光復軍政府、などの抗日民族団体が相次いで建てられた。米国でも、安昌浩と朴容萬らが中心になって大韓人国民会を立ち上げ、独立運動の活発化を試みた。

三・一運動

第一次世界大戦末期9181月に、米国ウッドロウ ウィルソン大統領が「十四か条の平和原則」を発表した。これを機に、朝鮮人の間で民族自決の意識が高まり、大韓帝国初代皇帝高宗の葬儀に合わせた大規模な運動が計画された。

191931日正午、京城のタプコル公園にて独立宣言書を朗読

して独立を宣言した学生と青年達が、数万人の群衆と共に「大韓独立万歳」を叫びながらデモ行進を行ったことを発端として、三・一運動が始まった。運動は朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って続いた。デモに参加した人数は205万人、デモの発生回数は1542回とされている。しかし、総督府が憲兵、警察の巡査、軍隊を強化したことによる武力弾圧によって、運動は次第に終息していくこととなった。組織的な戦争状態でなかったことは確かである。

1920

年代の民族解放運動

三・一運動後に、独立運動家達は求心点の必要性を感じ、亡命政府を統合することの必要性を主張するようになった。そのことから、

1919年 4月、日本の警察の力が及ばない上海のフランス租界で、韓民族の結束を掲げた「大韓民国臨時政府」が発足し、ウラジオストクの大韓国民議会や半島の漢城政府も、ほどなく上海の臨時政府に統合されていくこととなる。

1920年には朝鮮人パルチザンはロシア赤軍パルチザンと協力して、沿海州アムール川河口のロシア最大の極東の港ニコラエフスクを襲い、日本軍守備隊を全滅させ、日本領事一家以下邦人数百名を殺害する尼港事件を起こした。急襲したパルチザン部隊は4300名で、構成はロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、中国人300名であり、多数の外国人を含むニコラエフスク住民に対する略奪を行った末に、中国海軍が艦砲射撃と重火器をパルチザンに貸与したため、装備の勝る日本軍守備隊は全滅し、老若男女の別なく数千人を虐殺した。殺された中に、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊の731名を含む。日本人は、ほぼ皆殺しにされた。建築物は破壊されニコラエフスクは廃墟となった。この無法虐殺行為に、日本国民は反発激昂した。 結果、ロシア革命内戦下のシベリア出兵を長引かせた。

李承晩(イ スンマン)

彼ほど日本を嫌った大統領はいない。現在の竹島の帰属にしても、彼が嫌日の対日政策として国際法を無視した、海洋主権宣言による李承晩ライン

を設定したことに発している。 ともかく、、

臨時政府は当初大統領制を標榜し、初代大統領は李承晩だった。成績はともかく、ジョージワシントン大学、ハーバード大学を経てプリンストン大学で博士号を取得した李承晩は外交戦略によって独立を勝ち取ろうと考えた。臨時政府は、1919パリ講和会議1922ワシントン会議に代表を派遣して独立を訴えたが、日本と同様に植民地を保持している列強諸国の反応は非常に冷淡で、ホチ ミン同様に、成果はゼロだった。

臨時政府の独立運動家達は活路を模索する為に、国民代表会議を開催した。この会議では「実力養成を主張する改造派」と、「武装闘争を主張する創造派」が対立し、双方の歩み寄りがないまま、大部分の独立運動家達が臨時政府を離れるようになった。これ以降、抗日運動の代表機関だった臨時政府は、一弱小団体に転落し、金九(キムグー)の活躍により復権するまで、長期間を要した。

間島や満州、ロシア沿海州に潜伏していた独立運動家達による抗日武装団体である独立軍は、三・一運動を機に、平安北道甲山や咸鏡南道帯、鴨緑江、豆満江を中心とした国境地帯で、良民や官公吏への襲撃 殺害といったゲリラ行為を繰り返していた。今日で言う「テロ」である。

そして、1920年10月に満州の琿春で、馬賊の襲撃により、領事館警察署長を含む日本人13人が殺害される間島事件が発生し、総督府は中国側との折衝を開始し、1016日には吉林省都督から作戦の許可を取り付け、ゲリラ掃討を開始した。これを青山里戦闘という。独立軍との戦闘は、専ら延吉と和龍方面に展開した朝鮮軍第19師団東支隊との間で展開されたが、日本側の被害は軽微で、戦闘開始5日後の1026日までに作戦区域から独立軍を追い出すことに成功し、翌19215月までに部隊を完全に撤収した。一方、独立軍は満州を放棄し、レーニンが構想した遠東革命軍に参加する為にシベリアへ向かったが、19216月には、独立運動の主導権を巡る内紛に陥り、さらにロシアの労農赤軍と衝突し、壊滅した。自由市惨変である。黒河事変ともいう。

第一次世界大戦後の恐慌の中、抗日運動は絶え間なく展開された。半島では1926年の610万歳運動、三・一運動以降最大の抗日運動となった1929年の光州学生事件が起きた。満州では、僑民会の他、多くの独立運動団体が組職され、国内外で日本の要人に対する襲撃や破壊活動を展開した。(満州国が建国されたのは1932年である。)

階級闘争 マルクスレーニン主義

1920

年代に入り、民族主義勢力の衰退やマルクスレーニン主義の台頭により、政治的経済的に目覚めた労動者や農民達の間で、大規模な階級闘争が展開されることとなり、階級闘争は民族運動に大きく関与することになる。

1920

4月、京城で「労働社会の組織と制度の改善」を最終目的とする「朝鮮労働共済会」が結成され、「朝鮮労働連盟会」、「朝鮮労農総同盟」への改編し、19279月に「朝鮮労働総同盟」「朝鮮農民総同盟」の2組織に分離した。

1921年9月に釜山で起きた埠頭(港湾)労動者5000人によるストライキ闘争から、半島全土で、長時間労働や不当な違約金の徴収、日本人労働者との賃金格差など、朝鮮人労働者達が劣悪な労働環境の改善を求めストライキ闘争が多発するようになった。特に大規模だったのは、19238月平壌の靴下工場の2000名によるストライキ、19239月から 1年以上展開された全羅南道新安郡岩泰島における小作農民の地主を相手にした闘争、19291月から3ヶ月間続いた元山ゼネスト193013000名の女性労動者達が1ヶ月間行った、釜山朝鮮紡織ストライキ闘争がある。労農闘争は、暴力化し、19305月に咸鏡南道新興の張風の炭鉱労動者300人が、労働組合の設立に反対する日本人資本家と警察の弾圧に対して、炭鉱施設と資本家の私宅を破壊、威嚇射撃を行う警察に対し、斧、ハンマー、棍棒などによる肉弾戦を試みた。19307月、咸鏡南道端川で 2000人の農民が総督府による山林政策に反対して郡庁を包囲し、多数の死傷者を出した。このような労動者や農民による階級闘争は、抑圧された民衆の闘争だったが、総督府による支配に反発する抗日の性格を帯び、民族解放運動の一環だったといえるだろう。

AFP通信によると、国際オリンピック委員会のジャック ロゲ会長が13日、ロンドン五輪の男子サッカー3位決定戦終了後に韓国代表の朴鍾佑(パク ジョンウー)選手がメッセージを掲げた行為に対して見解を述べた。ロンドンでの韓国紙、中央日報のインタビューでロゲ会長は、竹島の領土保有を主張した朴鍾佑の行為は明らかにIOCが禁ずる「政治的表現」であり、規定は守られるべきとした。また、国際サッカー連盟(FIFA)が出す報告書に基づいてIOCの規律委員会が決定を下すと述べた。
一方で大韓サッカー協会(KFA)は、電子メールで日本サッカー協会(JFA)に対して遺憾の意を示した。日本のメディアは謝罪と報じたものの、KFAはこれを否定している。
 

「独島は我が領土」と書かれた問題のプラカードをパク選手が掲げ、その後 巨大な韓国国旗の上に選手が問題のプラカードを置いてから韓国チームの皆で運んでいる映像が残っているそうだ。「竹島は韓国領土」のプラカードに関わった韓国選手は一人じゃなく韓国選手チーム全員で運んだ事実が判明した。オリンピック精神が存在するのかどうか私にはわからないが、あるとすれば彼らの行為は「一種のテロ」であることになる。と同時に「プロパガンダの論理」(前前稿)に繋がる。 その二つにしても、彼らが「反日」であれば、本家の「日」の方が、いずれも「先輩格」と言えなくもない。マニフェスト=プロパガンダを翻し、釣った魚には餌はやらない、「甘い言葉」と「空手形」で騙した「女(国民)」からは、一転して「てら銭」「ショバ代」を取る(消費増税する)という限りなく親韓の民主党政権と現に我々は付き合わされているからだ。

気を付けよう、甘い言葉と空手形。

2012年八月十四日 記

日本からの独立運動 

新幹会の結成と活動へ続く、、


日本の国際的な威信の低下に付け込む諸外国

2012-08-18 07:00:00 | 日韓併合 朝鮮独立運動 竹島

李明博の竹島上陸と竹島の韓国による実効支配

韓国紙、文化日報は13日、竹島に強行上陸した李明博(イミョンバク)大統領が日本統治からの解放を祝う15日の記念式典(日本の敗戦記念日)で、歴史問題について日本側に「謝罪の最後の機会だ」として謝罪を迫る演説を予定していると報じた。謝罪の対象には(1)日本統治時代の慰安婦問題(2)日本の教科書の歴史歪曲などが含まれ、日本に対する総括的な謝罪要求となるとみられる。
また報道によると李大統領は10日の竹島上陸の際にも「悪い戦争を起こして真摯(しんし)に謝るべきなのに、日本が謝罪しないから問題が解決しない」と日本を強く批判した。

日本は朝鮮と戦ったわけでなく、朝鮮も日本との独立戦争に勝利して独立をしたのではないことは歴史的な事実である。

朝鮮独立戦争とまでは行かない「独立運動」は時系列に、三期に分類できる。

大清帝国からの独立運動 ロシア南下からの開放

李氏朝鮮とはそもそも大清帝国属高麗なのであった。

大清帝国の属国として王室である李氏と両班と呼ばれる貴族階級によって統治されていた朝鮮の中では、欧米のアジア植民地化が進むのに恐怖し、欧米に対処できない清国から独立をはかるべく日本と協力し、朝鮮の近代化を進める運動が朝鮮の中で盛んになった。そのような独立派勢力は日本に留学して帰朝したが、王を始め改革を望まない勢力に粛清されていった。いつの時代でもあることだ。

こんな中、非両班知識人が先導する1894年の東学党の乱、(甲午農民戦争)に代表される農民反乱から発展した内乱状態に対して全く対処不可能だった李王家に代わって宗主国である清国軍が反乱を鎮圧するなどして、朝鮮への影響力を強めていった。朝鮮開化派とは李氏朝鮮体制と清国の隷属化から朝鮮を改革しようとする勢力であり、むしろ日本の力添えを頼ったのである。内乱が収束し、朝鮮は日清両軍の撤兵を申し入れた。日本は清に対し朝鮮の独立援助と内政改革を共同でおこなうことを提案し、イギリスも調停案を清へ出すが、清は「日本のみの撤兵が条件」として拒否した。

日本は朝鮮に対して、宗主国と清国藩属関係の解消について回答するよう申入れた。これには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば、日本が代わって駆逐する、との意味も含んだ。これに朝鮮政府は「改革は自主的に行う」「乱が治まったので日清両軍の撤兵を要請」と回答した。一方朝鮮国内では大院君がクーデターを起こして閔氏政権を追放し、金弘集政権を誕生させた。金弘集政権は甲午改革(内政改革)を進め、日本に対して牙山の清軍掃討を依頼した。そして豊島沖海戦、成歓の戦いが行われた後、81日に日清両国が宣戦布告をし、日清戦争(1894年7月から1894年3月)が勃発した。日清戦争に日本は勝利し、下関条約により日本の要求が受け入れられ朝鮮の独立が達成された。日清戦争の原因について開戦を主導した外務大臣陸奥宗光は、「本源にさかのぼれば日清両国が朝鮮における権力競争」と回想している。ところが、王権が弱められることを恐れた李氏はロシア帝国に接近していった。日清戦争で得た遼東半島の放棄を露仏独の3国が日本に勧告、3国干渉として有名だが、三国を相手に戦えなかった日本の弱みを見た朝鮮には「親露・侮日」の流れが起きた。1896年に朝鮮の親露派によって朝鮮国王がロシア公使館に連れ込まれる事態が発生し、以後一年間国王はここで政務を執ることになった。これを露館播遷と朝鮮では呼んだ。急速に朝鮮におけるロシアの利権が拡大し、清の支配する満州では、三国干渉により日本が返還させられた遼東半島を露が租借したことも、日本側を刺激し、日露の対立が深まった。1899年にフランスは広州湾の99年間租借を清国に了承させた。ロシアは関東州を設置し、列強の清国侵出が重なった。1900年には清国で義和団事件、フランス宣教師殺害が起こった。日英米露仏伊が軍事出動し鎮圧した。

ロシアは制圧後も満州に4000名の兵を駐留させ事実上占領を続けた。

日本は日英同盟(1902年1月30日調印発効1923年8月17日失効)を、ロシアはフランスとの間に「ドイツ・オーストリア・イタリアによって構成される三国同盟から一方の当事国が攻撃を受けた場合、他方の国が軍事的支援を行うこと」を密約するドイツを恐れての露仏同盟(1894年)を結び南進に備えていた。その間シベリア鉄道を完成させ、南下に向かって万全の態勢を整えた。
日本は「露の満州からの撤兵」、露は「39度線で韓国を分割し統治」を提案してきたが相互に拒否した。遂に露が満州の占領を宣言するに至った。

1904年(明治37年2月8日) 日露戦争勃発。旅順港で露艦攻撃。韓国は中立宣言していたが無視、漢城(ソウル)からロシアを追い出すと駐兵と土地利用権を取得した。ポーツマス条約でロシアから韓国における政治、軍事、経済の特権を受け継いだ。遼東半島の租借、樺太の南半分を領有した。

同年2月 日韓議定書調印 「侵略、内乱に対し日本軍への便宜供与」 「韓国の独立、領土保全を保障」 「日本の承認なしに第3国と条約締結をしない」とする議定書である。
日本は「韓国の保護国化」について、米国が「フイリッピンを支配する」ことを「相互承認」した。

日韓協約

第1次日韓協約で財政顧問、外交顧問の受け入れを約束させた。
第2次日韓協約で日本外務省が実質的に外交を行なうことと、日本代表部として統監をおくことを取り決めた。
第3次日韓協約で統監の権限と日本人顧問を廃止し、韓国政府の各部の次官に日本人の任命を決めた。

1905年(明治38年)日韓協定 韓国を日本の保護国とした。統監政治―初代統監は伊藤博文であり、1909年6月に伊藤博文統監は辞任したが、同年10月(明治42年)ハルピン駅にて安重根により暗殺された。

日露戦後、朝鮮は各国に日本との調停を働きかけるがすべて無視された事実がある。特にオランダでの万国平和会議に密使を送り直訴しようとしたことを日本側が問題視した。そして1910年(明治43年)日韓併合となる。日韓協定は3回に及び遂に併合条約に至った。併合条約の合法違法の両論は日韓ともに現在でも問題視される。併合後の朴正煕大統領に時代に「日韓基本条約」が締結され過去の条約はすべて無効と決定された。国号は朝鮮に改めた。漢城を京城と改め、初代朝鮮総督府を京城に置き。初代総督には寺内正毅陸軍大将が就いた。そして「日帝36年」と韓国で言われる時代の幕開けとなった。 「内鮮一体」「皇国臣民化」「創氏改名」「朝鮮語禁止」などの基本方針を日本は朝鮮に強いた。日韓併合により日本は多額の社会資本整備費を投入し教育改革も進めた。内朝一体を唱えながら、同じ日本国民ではあるものの、二等国民として蔑視したことなどから反感を助長した。「朝鮮の独自改革は無理」であると判断したのは日本政府だけではなく、朝鮮の閣僚達も、日韓併合を推進したのである。無理矢理の日韓併合ではなかった。保護国として実効支配されるが「独立国家」であること自体が土台無理な話であり、日韓併合は当時の国際列強が「承認」した併合であったのだ。

李大統領は10日の竹島上陸の際にも「悪い戦争を起こして真摯(しんし)に謝るべきなのに、日本が謝罪しないから問題が解決しない」と日本を強く批判したという。

日本は朝鮮と戦ったわけでなく朝鮮に対して「悪い戦争を起こした」のでもない。朝鮮も日本との独立戦争に勝利して独立をしたのではないことは歴史的な事実である。

一種のアイロニーであるが、「優秀な朝鮮民族」「誇り高き朝鮮民族」「日本文化の母と自称する朝鮮民族」の朝鮮が「中華人民共和国朝鮮族自治区」あるいは「ソビエト連邦朝鮮国」となっていたかも知れないのだ。そのようになって、誇り高き優秀な朝鮮民族は「真の独立戦争」に立ち上がり、戦争の結果としての勝利を手にしたであろう。そうした場合、後で旧宗主国に「素直に謝ってくれないから何も解決しない」とは小学生でも言わないであろう。

歴史教科書」や「歴史認識の違い」は韓国人がよく口に出す用語である。ご心配には及ばない。中学、高校も含めて、日本では日教組が主導するとはいえ、歴史教育の教科書は後ろ五分の一の近代史は真っ白で、何のメモ書きすらしない生徒がほとんどである。家に帰ればK-ポップを聞き、フジテレビでもNHKでも大量に放映されている高麗王から近代王朝を含めた王様と王妃、側室、派閥闘争の歴史、ラブロマンス、分類不可能な化け物の話、医術の物語り、料理の達人、そして現代の美少女の歌とダンス、韓国ドラマなどなどを楽しんでおり、

別室では、別チャンネルでその母親達が他の韓国系番組を観て涙しているのだから。

日本からの独立運動に続きます、、

漢方市民講座は8月20日(月曜日)から再開いたします。 八月十四日 記