の供え物になるナスや胡瓜は漢方的には「涼」の食べ物だ。墓に供える西瓜(スイカ)も「涼」の性質をもつ。熱くなった身体を潤し涼しくさせるのである。西瓜の皮は「西瓜皮(中国語シーグアピ)」といい甘涼、清熱解暑に働き、漢方処方清暑益気湯に配合されている。夏に飲む麦茶とて同じことで「涼潤」の性質を持つ、冬に紅茶にブランデーを垂らし、あるいは生姜を加えて体を温めるのも理にかなっている。紅茶自体が「温」の性質を持ち、シナモン(肉桂 温裏)を加えれば、「温」の性質を強めることになる。
盆をちんこん(鎮魂)という観点からすれば、中国語では「安魂(アンフン)」鎮魂歌は中国語で「安魂曲(アンフンウー)」と日本的な鎮魂に近いイメージを与える。英語のレクイエム(鎮魂曲)やキリスト教でいう鎮魂ミサもまたレクイエムで仏教的な鎮魂とは趣を異にする。盆踊りに相当する英語はない。ボン フェスティバル ダンスではなんのことやらわからない。 盂蘭盆会〔うらぼんえ〕は中国語でも盂?盆会 (ユーランペンフイ)でまったく同じである。ただし上海に2年ほど住んでいたが、日本の盆に相当する夏の儀式には遭遇しなかった。
盂蘭盆会(うらぼんえ) 盂蘭盆(うらぼん 御盆(おぼん)
旧暦の7月15日を中心にして行われる先祖供養の儀式であり、死者の霊があの世から現世に戻ってきて、再びあの世に帰っていくという古来の信仰と仏教が結びついてできた行事である。現代日本では8月13日の「迎え盆」から16日の「送り盆」までの4日間がお盆である。盂蘭盆会とはサンスクリット語のウラバンナ(逆さ吊り)を漢字で表音したもので、 「逆さまに釣り下げられる(ような)苦しみにあっている人を救う法要」という意味になる。亡くなった先祖や戦死者、被災者たちの霊(精霊〔しょうりょう〕)が迎え火を頼りに帰ってくる。
13日の迎え盆(盆の入り)の夕方に盆提灯を置いて、庭先や門口に「迎え火」を焚く。最近では木っ端であるが、皮を剥いだ麻の茎(麻幹〔おがら〕)が正統であるという。14日と15日は精霊が家に留まっている期間である。
16日の送り盆(明け盆)の夜に、「送り火」を焚き、再び帰り道を照らして霊を送り出し精霊はあの世へ戻って行く。盆の歴史には詳しくない。専門家に言わせれば、仏教伝来以前から「御霊(祭り」といい、祖先の霊を迎える儀式が存在した。現在の「お盆」の原型は推古天皇の時代に、僧職を宮中に招き食事や様々な仏事を行う"斎会〔さいえ〕"であるそうだ。江戸時代になって一般庶民に広がった。13日はお迎え団子(あんこのついたお団子 白玉団子にあんこを乗せたもの)、14日はおはぎ(ぼた餅であり、もち米を炊いてあんこで包んだもの)、15日はそうめん、16日は送り団子(白い団子)と毎日変えてゆく。
福島原発事故は「迎え火」「送り火」もない無人地帯を生んだ。魂が路に迷い帰る場所が見つからないのだ。日本文化を破壊した事故である。
ぼた餅(おはぎ)雑感
盆の14日の「おはぎ」には出征していく息子や夫、愛人に母親を筆頭にした女性が丹精こめて差し入れた「おはぎ」のイメージがついて回る。日本人の「愛」と「悲しみ」のイメージが私から離れない。神戸はスイーツの町である。ほとんどの洋菓子が食べられる。「おはぎの丹波屋」があったが今はあるのやら。私が思い込む「ジャパニーズスイーツ」 とは「愛」と「悲しみ」の「おはぎ」である。
漢方講座
赤小豆(和名 アズキ セキショウズ 中国名チーシャオドゥ) 甘平 帰経心小腸
利水消腫 解毒排膿に作用する。 漢方生薬として使い方は、小豆を水で煮て、その小豆と共に、あるいは煎じ液を、そのまま食するか服用する。母乳の出を促進する効果がある。「脚気」の浮腫に用いられた。赤小豆と鯉を煮たものが「赤
小豆鯉魚湯」であり、中国では腹水に用いられた。嘔吐剤に分類される柿蔕散もある。柿蔕(カキの実のヘタ)と赤小豆を粉末にして混合させたものである。赤飯には利尿作用がある。京都では十日に一度赤飯を食べる習慣がある。近いもので、緑豆(リウドウ)がある。赤小豆同様に、清熱解毒 消暑利水に働く。皮が大切で緑豆衣(リウドウイ)と言う。緑豆百合湯は夏ばてに効く。附子や巴豆の中毒の時に使う。上海中医薬科大学付属曙光病院の肝病科では、肝疾患の皮膚掻痒に対して。緑豆衣15、浮萍15 白僵蚕15 蝉衣9 大棗5枚葶藶子(ていれきし 中国名テインリーズ)7の処方があることを付記する。
漢方講座
もち米 漢方生薬としては粳米 (こうべい 中国語でジンミー)
ぼた餅(おはぎ) は面倒な漢方理論を振り回すよりも、まずは両者共にでんぷんから成り、滋養益気に働くと考えればいいと思う。何しろ、甘味に乏しかった時代である。砂糖の甘みと独自の食感を持つ「旨いもの」の代表であった。
昔話で「ねずみの相撲」がある。もち米の滋養効果が見て取れる。
「オバアサン、大きいねずみは長者さんちのじゃ、小さいねずみはうちのじゃよ。」
「オジイサン、小さいねずみがかわいそうじゃの。餅をこしらえて食べさせましょう。」
「それがいい。」
ちから餅という言葉もある。「ちから持ち」にかけているのだろう。阪神御影駅南に「ちから蕎麦」がある。メニューに「餅入り」とあるのは嬉しい。
日本人にとって蛍(ほたる)とは?
2009年の6月と7月に蛍を見に行った。大阪奥水間温泉と、兵庫生谷温泉である。
終戦記念日が近づいてくると「蛍」が「魂の再来」のように思えてくる。
「小母ちゃん、おれ、心残りのことはなんにもないけれど、
死んだらまた小母ちゃんのところに帰ってきたい。そうだ、
この蛍だ。おれ、この蛍になって帰ってくるよ。」
「ああ、帰っていらっしゃい」とトメは言った。そうよ。
皆川さん、蛍のように光輝いて帰ってくるのよ、と「心の中」で言った。
知覧の富屋食堂「特攻の母」として慕われた「鳥浜トメ」と特攻隊員 「皆川」との会話である。私の中では鳥浜トメさんの見た「蛍」と野坂昭如氏の「火垂の墓」は自然に繋がっている。
それにしても、終戦記念日が盆の15日とはどういういきさつなのか?偶然に済まされないものを感じる。 先の戦争で、サイパンの「スーイサイドクリフ」から身を投げた女性映像記録を見て「自分の母親に違いない」と口に出したご老人を取材する番組をヒストリーチャンネルで見た。彼の出身地(居住地だったかもしれないが)は福島県南会津郡南会津村である。偶然にも、同郡同村の大字下野が私の亡父の出身地なのである。彼も「蛍」を見たに違いない。
父は大正6年5月生まれで昭和52年10月26日に没した。享年60歳である。敗戦時に満州でソビエト軍の捕虜となり、バイカル湖を見える収容所へ、いわゆる「シベリア抑留」となり、強制労働を強いられた。飢餓と酷寒の中を生き抜き、面従腹背を貫いて、比較的早い帰還者名簿に記入され、シベリヤ鉄道でウラジオストクへ、そして舞鶴に帰国した。福島県南会津郡南会津村に帰郷して、昭和25年に母(旧姓根岸)と知り合い結婚した。私(左)、三男(中央の乳児)次男(右)の男の子を持ち5人のファミリーを作った。
一昨年の盆の時の写真である。乳児だった三男は48歳の中年になり(写真右)次男(写真左)は頭髪を失い、中央の母親右の私だけが頭髪を残しているが、今では、次第に抜けつつある。
母方の祖母の母の前で撮影した。祖母(旧姓川島 婚姻後は根岸である)とはよく活動写真を見に行った。活動を見て、帰りに「生江食堂」でラーメンを食べても100円もかからない時代であった。小遣い欲しさに祖母の財布をよく覗いた。小さなお地蔵さんが入っているだけで、小銭が入っていたことは稀であった。今の私には理解できることだが、夜間の咳、痰、下肢の浮腫みに苦しんでいた。心臓弁膜症による左心不全であった。彼女は歩くとすぐに息が切れるので、私はいつも祖母のお尻を後ろから押して活動を見にいった。近くに「高天原(たかまがはら)」という公園があった。今でもそこで盆踊りがある。さて、私の小学校の入学式の日、祖母と私はその「高天原」でモンシロチョウの飛ぶ春の陽気の下で遊んでいた。母があわてて迎えに来た。おずおずと教室に入って行くと、担任の室井先生がこう言った。「みなさん御入学オメデトウ。皆さんが入学したこの小学校の名前を知ってますかぁ」皆押し黙っている。私は手を上げておずおずと発言した。「たかだダイイチ小学校です」。先生にもほめられ、母からも後でほめられた。褒められると調子に乗るという軽薄な私の性情はこのへんに端を発している。祖母は孫の痛みをしばしば自分の痛みとした。転んで額をぶつけて泣いていると「なんぼ痛いことか」と言い、自分の額に小石を打ちつけて「痛み」を共感した。祖母は文盲であった。娘たちから千円札が同封されている現金書留が届くと、「手紙になんて書いてある?康仁読んでくれ」と依頼された。「元気です」「こちらは変わりありません」などという順調な近況を示す部分は大声で読み、「まずいな」と私が判断した文面は適当に修飾した。「そうかあ、そうかあ」と喜ぶ祖母の顔を思い出す。キセルでタバコを吸う姿が似合う祖母だった。
大変信仰心の強い祖母であった。特に地蔵信仰には篤かった。活動を見に行く途中に「文殊(もんじゅ)」を祭った寺があり、その参堂には朽ちかけた木造の屋根の下に数体の石地蔵があった。彼女は一つ一つ拝み、時には孫にも買ってやらない団子などを供えた。私も真似をして小石を拾い、地蔵の足元に置いて拝んだ。最近では写真のようになぜか地蔵様はお一人になっている。
白髪まじりの髪も薄くなってきた。眼精疲労が強くなっている。帽子で頭を隠し、サングラスで直射日光を避けている。それにしても、ヒストリーチャンネルを見ていると、
HISTORY MADE EVERY DAYと、洗脳するのかと疑いたくなるほど、常に流れる。
EVERY DAY MADE HISTORY あるいは HISTORY RESULTS FROM EVERY DAY ではないかといつも直感するのだが、歴史は勝者の歴史であるという観点からすれば、ヒストリーチャンネルの体質も理解はできる。個人的には「西洋的神」が関与する「予定調和説」も人気番組「水戸黄門」的な「予定調和」も嫌いである。