ソウル聯合ニュース8月15日(水)によると
李明博(イミョンバク)大統領は15日、日本による植民地支配からの解放を記念する光復節67周年記念式で演説し、旧日本軍の従軍慰安婦問題について、「人類の普遍的価値と正しい歴史に反する行為」との認識を示した。
慰安婦問題は韓日間の問題にとどまらず戦時下の女性の人権問題だとした上で、日本政府の責任ある措置を促した。67回目の光復節を迎え、大韓民国が堂々と先進国の隊列に加わったことを確認する」と述べた。
「人類の普遍的価値と正しい歴史に反する行為」「慰安婦問題は韓日間の問題にとどまらず戦時下の女性の人権問題」だとした上で、日本政府の責任ある措置を促した
「極東軍事裁判の訴因」のような文言である。「戦時下の女性の人権問題」とはよく言ったものだ。これには呆れる。戦時下,内乱下の暴力と女性の人権の消失は現在でも続いている世界的な事実であり、総論を大上段に掲げて「日本という各論」を述べている。まるで「神」の如き尊大な発言である。朝鮮半島はいまだ統一されず、大国の「暴力の論理」と「プロパガンダの論理」に揉まれ続けた朝鮮民族の悲しみと怨念は理解できなくもない。しかし、かつてマッカーサーが戦艦ミズーリ上で宣言したような気分をイミョンバクが共有しているとすれば大きな誤算につながるだろう。
騒動には震源がある。本多勝一氏しかり、森村誠一氏しかり、湯浅謙氏しかりである。では震源地をまずは調べなくてはならない。
「従軍」慰安婦「問題」湯浅謙
避けて通れない人物である。同じ医師であるBC級戦犯で処刑もされなかった湯浅謙医師の証言や行動には以前から興味を持っていた。「認罪学習」で共産党に提出した「反省文」が事実なら、当然死罪は免れないからだ。氏が収監された太原監獄は共産党支配下、上海は国民党の勢力下であり、BC級戦犯5人が絞首刑に処せられている。ただし米国の報復的死刑執行であった。中国の周恩来総理は戦犯裁判で大半の日本人を不起訴にして、即時釈放という寛大な裁きを行なった。一般の中国人(戦犯管理所の職員も)の感情からは納得できない寛大な処置であったが、周恩来総理は「いま理解できないとしても、20年後にはこの寛大な処置が正しい事がわかる。」と諭したという。さて、彼の言った20年後の意味と意図は何であったであろうか?
湯浅氏の略歴
1916年東京生まれ 1941年東京慈恵医科大学卒業 駒込病院勤務(25歳でインターン生活に入る)
1942年26歳、つまり医者に成りたての時分に、河北省に接する山西省の北支山西路安陸軍病院に赴任した。同病院では、伝染病科 病理検査室付軍医として勤務。(以下ウキペディアによることが多い)
1942年3月 八路軍とされる兵士の生体解剖に携わる。生体解剖は、衛生兵教育、製薬会社の研究材料提供の為に行われた。指導的な立場になった後、新任軍医の演習の為、自身の計画と実行のもとに計6回、延べ10名の生体解剖を行う。
1945年8月15日 太原陸軍病院で終戦を迎える。その後、太原に残留した日本人と共に、医師団の一員として残留し、日本人居留民のための山西共済病院に勤務。
さらに日本の同仁会が経営する慈恵病院に移籍する。
(1946年には上海でBC級戦犯の処刑が行われた。)
1947年 31歳で太原郵便局保険課長の次女だった啓子と結婚。二児の父親となる。
(1948年11月12日 極東軍事裁判終了)
1949年4月 人民解放軍が太原をいわゆる「解放」する。中国政府の命令により省立病院に勤務。10月毛沢東中華人民共和国建国を宣言
1950年 陽泉の病院に移動。朝鮮戦争勃発。人民解放軍朝鮮戦争参戦
1951年 35歳で河北省永年の捕虜収容所に家族と共に収容される。
1951年1月 捕虜として河北省永年の捕虜収容所に収容される。生体解剖について告白する。
1952年 36歳、戦犯として太原監獄に拘置される。
(1953年7月27日 朝鮮戦争 休戦)
1956年 40歳で起訴猶予で釈放、帰国する。
(周恩来の「20年後」を待たず、1972年に日中国交は正常化する)1977年毛沢東の権力闘争、10年間続いた「文化大革命」が終わる。
「季刊中帰連 第5号」軍医湯浅謙の「私が知る従軍慰安婦」
赤で記載したところは私の感想です
私は先の大戦中、中国戦線に於て陸軍病院の軍医として従軍し、(中略)生体解剖をずいぶんやりました。(中略)自分の罪を反省することができた次第です。
1956年、許されて帰国してからは、中国帰還者連絡会の一員として、(中略)日本の軍国主義の実態を訴えています。(中略)私が体験した朝鮮人の「慰安婦」について述べます。(中略)1942年1月、中国山西省南部の路安にある陸軍病院に着任しましたが、そこは付近を占拠している36師団の司令部の所在地で、そこでの私の日常は兵隊と中国人に対し驕り高ぶったものでした。
路安には軍人専用の朝鮮人「慰安所」があり、病院の軍人たちもよく訪れていました。兵隊は国家から遮二無二連れて来られ、(中略)やっと気が抜けるのが月に一回か二回訪れる慰安所です。そこで元気を取り戻して明日から辛い日常です。即ち活力の元が「慰安婦」だったのです。(中略)或るとき酒の勢いで皆と一緒に慰安所を訪れました。慰安所での値段は兵隊は2円で5時まで、下士官は3円で7時まで、将校は泊って10円。但し慣れている仲間からサービス料を出せと言われて15円置いて一時間位で帰りました。これが私の初めての体験ですが、飲んで騒いで遊びに行っただけという気持ちでした。その後そこには2~3回行ったように覚えています。(中略) いつも皆と一緒に酒を飲んだ挙句に行ったのですが、一回だけ一人で行ったことがあります。それは1945年4月、中支軍が突っ込みすぎて重慶軍に包囲され離脱できず、山西から一ケ師団を結成し北から応援に出動したときのこと、私は病院から隊付の軍医として派遣されました。単独の赴任で、黄河を越えた河南省はマラリアや栄養失調症が多発すると聞いていたので淋しくなり、途中の太原市で無理して酒を飲み一人で慰安所を訪れました。そんな気持ちを察したのか、朝鮮の慰安婦から「死んじゃ駄目よ」と慰めの言葉を掛けられたのを覚えております。(中略) 当時の軍人の目から見ると「慰安婦」は公娼のように見えたのです。料金を払いますし愛想もよかったからです。然し彼女たちには本当のこと、つまり「私は強制され連れて来られた」とか、「帰ろうとしても脅迫され帰れなかった」などとは絶対に言えなかったのです。相手は軍人、ましてや将校、「日本軍を談議する」とか、「戦争に協力しない」として憲兵隊に通報される。またにこにこして兵隊を迎えなければぶん殴られるが関の山。ここに落ちたら泣いても反抗しても同じ、することはしなくてはならない。だから性奴隷です。
(中略)私は路安で一日に30人を相手にして急死した女性のことを聞きました。苦しくても逃げられなかったのです。
(中略)これらは植民地支配や戦地の軍支配の実体を何も知らない人たちの言うことです。「慰安婦」は正しく日本軍の性奴隷だったのです。
(中略)赴任して間もなく大隊長に呼ばれたところ、「嬉しいことがある」とにこにこ顔で言われ、「慰安婦」六、七名が来たのです。別に性病検査の命令は受けなかったのですが、軍医の私しかいないのです。私は産婦人科の経験は学生時代しかなく自信がなかったのですが、六、七名の「朝鮮人慰安婦」の性病検査をしました。リンパ腺にふれて腫大をみたり、クスコという器具を性器に突っ込み粘膜の異常をみる。尿道部を圧迫して腹が出るかを検査しました。そして全員合格とし、部隊には回覧を廻して「全員合格だが肉眼的所見によるものだから必ず予防具をつけること」と通知したわけです。(中略)
私が3年半いた路安陸軍病院のことですが、兵隊は日曜の外出日には慰安所を訪れるのが最大の楽しみでした。整列した兵に「みんな持っているか」「はーい」、予防具を持っているかを確かめるのです。
(中略)
私は巡察時には慰安所には行かぬよう先輩から注意されました。その先輩は馴染みの慰安婦から「今日は偉そうな格好している」と冷やかされ、慌てて逃げてきたそうです。(中略)
日曜日だけの外出では慰安所がいっぱいになるから、部隊に外出曜日を割りあてました。また物価騰貴の折から2円を3円に値上げしたように記憶しています。このように慰安所の経営は業者(軍属?)が行ったのですが、管理は軍がしていたのです。(中略)
敗戦後も2700名の軍人と共に国民党軍に徴用され3年半も人民解放軍と戦ったわけですが、その中に軍人の妻となった朝鮮人慰安婦が何十名かおりました。そして全中国の解放時に軍人は捕虜収容所に収容されましたが、彼女たちは軍人の家族として家族隊で生活していました。その時、日本軍国主義の束縛から解放された彼女たちは、
「日本軍に騙されていた(本土の日本国民も日本軍大本営発表に騙されていたし、誰でも言いたい放題がゆるされると悪口雑言を吐くものである)」
「村祭りで遊んでいたら軍人に集められ、つれて行かれた(軍人とは断定できない)」
「父親の(承諾書)を見せられたが父親は字が書けなかったのに(文盲は当時珍しくなかった。本土日本でも事実私の祖母は文盲であったし、東北大飢饉で都会に身売りしていった娘の両親にも文盲が存在し承諾書は代筆だった)」
「苦しくて消毒薬をのんで死を図った(クレゾールであろうが、クレゾールではなかなか死ねないことは当時わかっていたことだ。致死量を超えて大量に飲んで、胃洗浄を受けなければ、ももだえ苦しんだ挙句、死ぬまでには三時間近くかかる。死ぬ気があれば他に方法はいくらでもある)」等々の不満が噴出したそうです。
(噴出したそうです。講釈師 見て来た様な嘘をつきの類に属する)
敗戦後再教育をうけた湯浅医師に対し、敗戦後もフィリピンルパング島で29年間戦士として生きぬき、敗戦後再教育を一切受けなかった教養人でもある小野田寛朗陸軍少尉が存在する。
従軍慰安婦を知る上で両者の論点の違いを比較対照することは大いに意味を持つ。
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「私が見た従軍慰安婦の正体」 雑誌「正論」より 小野田寛朗 全文