いわゆる731部隊で湯浅氏が行った生体解剖を医師として分析する。
湯浅医師が述べた生体解剖を医者の視点から考える。
赤が私の論点です。
誹謗中傷の目的ではありません。事実認定はあくまで「裁判用語」として捉えてください。
湯浅医師が述べた生体解剖 以下
医学生時代より、軍医になり中国へ渡れば生体解剖を行う機会があるという話を聞いていた。生体解剖の事実認定とはまったく関係ない。
(中略)病院では院長と庶務主任が準備をする。師団では、連隊付の軍医15-16名の教育のため実施した。被害者は、概ね八路軍と密通した被疑者とされていたが、実際に密通者かどうかは分からない。取調べで残酷な拷問を加えるため、解放した後日本軍の悪い噂が立たないように、口封じの為、生体解剖に送られてきた。
氏の供述が真実なら、拷問死を免れた人間を医学研究のために生体解剖したということになる。氏が主張する「口封じのため」なら拷問死させれば済むはずで、遺体を「廃物利用」として解剖したというほうが理にかなう。
湯浅が携わった生体解剖は合計6回に及ぶ。
1回目
(中略)第36師団より11-12名の軍医、新任軍医5名、その他2-30名が参加した。被害者は野良着姿の中国人男性2名。演習内容は、腰椎麻酔、全身麻酔、
つまり麻酔下で行った。
虫垂の摘出)、四肢の挫滅創(二の腕の切断)、腹部貫通銃創(腹部正中切開の後、腸の切断および縫合
被術者が暴れていてはろくな縫合練習にはならず、ここでも麻酔下が十分に想像される。
野戦気管切開器による気管切開
気管切開は死亡した後も十分に可能だ。
演習後、未だ呼吸が続く被害者に対し、心臓へ注射器による空気注入、首を絞めることによる頸動脈圧迫、静脈への麻酔注射によって死亡させる。
ここでも静脈への「麻酔」注射が出てくる。毒薬の注射でなかったことは不思議だ。
気管切開していたらその気管にゴム風船でもつめれば簡単に息絶える。吸い込んだペンシルキャップで気管を起こし短時間で死亡した小学生の友人を思い出す。その事件以降からか、製造者責任が叫ばれたキャップには先端に穴が開いたのである。こんにゃくゼリーによる窒息死も話題にされた。
呼吸停止その後の心臓停止となるのが通常の「死亡」過程である。氏が言う、虫の息の状態であれば、わざわざ頸動脈圧迫、静脈への麻酔注射など必要ない。放置しても程なく呼吸停止に陥る。作為的には気道閉塞による窒息死が一番早いのだ。
救急蘇生の第一歩は気道の確保である。逆に言えば、窒息させるのが殺すには一番早い。
加えて、氏は虫の息状態の被害者の頚動脈圧迫によって死亡させたと述べているが、氏は絞首刑の本質を知らないようだ。絞首刑は頚動脈圧迫により脳循環を遮断するのが目的では無い、頚椎骨折、頚椎脱臼による即死に近い状態を第一に狙うものであり、気管閉塞は同時に起こる現象であり、間接的な追い討ち効果である。氏の記載はなぜか医学的に一貫性(信憑性)を欠いている。
2回目
1942年秋。西村慶次中佐(潞安陸軍医院長)が教育責任者となり、第36師団から氏家少佐(同師団野戦病院長)および軍医が参加した。被害者は、憲兵隊より貰い下げられた中国人男性2名。腸管の縫合、野戦気管切開器による気管切開、顎骨骨折を予想しての整復手術、睾丸摘出。
術前に捕虜が生きていたという証拠にならない。麻酔下、沈静下の方が確実に行える処置だからである。
3回目
1942年12月。第一軍からの命令による軍医教育(中略)軍医40-50名が集められて行われた。この際、太源監獄にて生体解剖を実施。被害者は中国人男性4名。その場において、拳銃で腹部を銃撃し、弾丸の摘出手術を行う。その間、同時に四肢の切断、気管切開を行う。
気管切開はつきものだったらしいが、銃弾は、弾創口に限らず、銃弾本体とその破片による内臓破壊を伴う。銃弾の摘出手術だけでは本番の日本兵の救命はできない。ましてや近距離からの射撃である。実習訓練ではもちろん麻酔下、あるいはモルヒネ投与下でやるのが普通だ。すでに死んでいたのではなかったかと氏の供述を疑う。日本兵のための衛生兵ではなく「軍医」の教育実習なら「雑な練習」は許さない。腹を打たれてもだえ苦しむ瀕死の人体から、その腹部から銃弾を摘出するのは至難の技であり、銃弾を摘出しただけではもちろん訓練にもならない。氏の供述には、使用された日本陸軍の拳銃名とその性能、摘出した弾丸の口径、貫通銃創の有無、銃撃部位、損傷内臓などの情報が一切無い。モルヒネの投与があったのか無かったのかの記載も無い。いわゆる雑文に近い印象を与える。
4回目~6回目
1944年4月、路安陸軍病院で庶務主任に任命される。(中略)湯浅は年6回の手術演習の計画を立て病院長へ提示した後、第1軍と北支方面軍の軍医部にそれぞれ計画書を提出したが、作戦やその他諸事情のため、敗戦までの間に行えた手術演習は3回だけであった。
1944年11月に行った演習では2名の被験者が居たものの、軍医の集まりが悪く、1名の生体解剖を行っただけで演習が終了した為、もう1名の被験者は院長が日本刀で斬首した。
これも事実認定の証拠にはならない。
病院長の依頼により日本の製薬会社に送るという理由で、大脳皮質を(中略)二十数名の衛生補充兵の衛生教育のため、1名の中国人被験者を生体解剖し内臓などの位置を教える演習を行った後、脳皮質の採取を行い病院長へ渡した。
大脳皮質云々は解剖後の病理標本の製作過程である。衛生兵や軍医でもない衛生補充兵の衛生教育に生体解剖(解剖学実習)があったという事実認定は氏の供述だけによるもので、教育実習ならば生体解剖より遺体解剖が向いている。生体解剖であれば視野が血液で失われ、観察が出来なくなる。4年間約48ヶ月(1400日強)の間で「頻繁に毎日行われていたという生体解剖」のうち6回((0.43%)にかかわり、約10人の解剖に携わったということになる。認罪するにはちょうどよい数であると言われても反論できない数字である。
独立歩兵第5警備隊
1945年3月、路安陸軍病院から独立歩兵第5警備隊(司令部は運城)へ派遣。(中略)大隊の高級軍医に任命される。(中略)この部隊ではしばしば八路軍に対する掃討作戦を行い、この掃討作戦の際、負傷した八路軍兵士を銃殺する場面に立ち会っている。
もちろん生体解剖ではない。掃討作戦では負傷した敵兵士を銃殺するのが当時では敵側からしても当たり前だった。
1956年6月 起訴免除となり釈放。日本へ帰国。
1957年3月 慈恵医大の内科で再研修。
1958年7月 中国帰還者連絡会に参加。白十字病院で初めて証言する。以降、反戦・平和、原水禁、日中友好運動などに積極的に参加する。
1958年3月 民医連・西荻窪診療所に勤務、所長となる。
民医連とは日本の社会主義運動の下部団体のひとつである。勤労者医療協会、あるいは医療生協を束ねる組織を指す。
(清朝ラストエンペラー溥儀は1959に、当時の劉少奇国家主席の出した「戦争犯罪人」に対する特赦令を受け、12月9日に模範囚として特赦された。なお、溥儀とともに収容所に収監されていた溥傑も、1960年11月20日に釈放された。)
1976年西荻窪診療所所長を退任、勤務医となる。
1988年秋帰国後はじめて太原へ謝罪の旅。
1991年10月 4回目の訪中。路安を訪問。
2010年11月2日心不全のため死去。享年94歳。
氏が参加した「中国帰還者連絡会」の体質
中国帰還者連絡会は、撫順戦犯管理所に戦争犯罪人として抑留された旧日本軍の軍人が帰国後の1957年9月24日に結成した団体で略称は中帰連という。
会員資格は「中国を侵略して戦犯となり、中国の寛大政策により帰国したもの」としている。731部隊 南京事件 強制連行などについて積極的に証言し、かれらの活動が歴史をゆがめた可能性が高い。撫順戦犯管理所969名、太原戦犯管理所140名の「出」の会員からなる。戦犯管理所ではシベリア抑留時代とは異なり、「人道的処遇」が戦犯容疑者たちに保障された。戦犯容疑者たちは、自分たちの行為を反省し、罪を自主的に告白する認罪運動(ないし洗脳)を、長期間にわたって課された。
1956年4月、山西省太原市と遼寧省瀋陽市での特別軍事法廷で、重要戦犯容疑者の45人の裁判が行われた。それ以外の容疑者たちは管理所内の臨時法廷で「起訴免除、即時釈放」の判決を受ける。そして湯浅氏は帰国した。
1957年帰還者連絡会が創立。「死刑」や「無期」、「長期刑」に処されると恐れていたところを、寛大な恩赦によって帰国を得たものたちは中国共産党政府に深く感謝したであろう。しかし、その実態は、思想教育が有用だったと判断した者を、思想の伝播者として、無罪放免という恩を着せて帰国させた意図が否定できない。世界は共産主義と資本主義の対立、朝鮮戦争にみる代理戦争の真っ最中だった。
私は「生体解剖」があったとか無かったとかを論じているのではない。湯浅謙氏が再々に渡って述べ、残された資料から分析したのである。何故なら「プロパガンダの論理」の中ではもっともショッキングで心理に訴える供述が「従軍慰安婦」「生体解剖」の類であるからだ。今となっては、誰も湯浅氏を責められない。ただし、彼が選択し、残した「文責」は依然として存在する。
731部隊による「生体解剖」とされて報道された写真。
http://ccce.web.fc2.com/si/731.html より引用した。ご覧ください。
医師としての観点からはやや腐敗が始まった遺体であり、腹部は「湯浅式」腹部正中切開ではなく、横に切られており、上顎から下顎にかけては鈍的外傷があり、右肩から上腕にかけて丸みを感じさせる皮下脂肪の存在、側腹部から盛り上がる腸骨(骨盤)の曲線から判断すれば被害者は女性である。
本日の漢方市民講座
「欲絶」とは「まさに死なんとする人体の危機的状況(瀕死)」の脈を示す漢方用語である。
脱証(だっしょう)
(症状)突然の昏倒、人事不省、目を閉じ、口が開き、呼吸衰微、手は弛緩状態、四肢厥冷、多汗、二便失禁、肢体萎軟、舌痿、脈が微、欲絶である。
(症候分析)元気衰微、陰陽離決の傾向のため、目を閉じ、口が開き、手は弛緩状態、二便失禁など「脱」の症状をみる。正気虚衰、陽気欲脱のため、呼吸衰微、多汗、四肢厥冷、二便失禁、舌痿、脈が微、欲絶をみる。
(治法)益気回陽、扶正固脱
(方薬)参附湯加減。人参で大補元気、附子で回陽救逆する。
「欲絶」は(まさに絶えようとしている)とする意味)であり、杜甫の「春望」中の「白頭掻けば更に短く、渾て(すべて)簪(しん かんざし)に勝(た)えざらん と欲す」の欲の語法と同じである。漢文に得意な御仁には当たり前のことだが、素人が「絶対に欲しい」などと勘違いしないでいただきたい。
医師というものは、「観察所見を何かに必ず記載する習慣」を身につけている。誹謗中傷するつもりも、氏の名誉を貶めるつもりも全く無い。しかし、湯浅氏にはその「習慣」が無かったと思われる。供述にも必ず医師らしさが伴うのであるが、医師らしさの「観察の視線」は一切感じられない。生々しさを極力避けた意図もあったろうが、それでも医師の「さが」「性」は捨てようもないのだが、観察記録が残されていないのは事実だ。
八月十八日 記