ヴァルガス時代
15年に渡るヴァルガス時代の間に現在のブラジルが形作られた。
1930年にカフェ・コン・レイテ体制に対する反乱が各地で勃発し、リオ・グランデ・ド・スール州のジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが1930年革命を起こし、独裁政治を確立しようとした。1932年にはサン・パウロ州の反ヴァルガス勢力によって護憲革命が勃発したが、この反乱を鎮圧するとヴァルガスはブラジル全土に対する支配権を確立した。1937年にはヴァルガスはクーデターによってイタリア・ファシズムに影響を受けた体制を確立し、ヴァルガス時代には大学の整備、国家主導の工業化、ナショナリズムの称揚と移民の同化政策、中央集権体制の確立が進んだ。
1942年にヴァルガスは第二次世界大戦に連合国の一員としてイタリア戦線に参戦したが、独裁体制に対する不満が国民と軍内部で強まり、第二次世界大戦終結後の1945年10月13日に軍事クーデターによって失脚した。
ポプリズモ時代
1946年に新憲法が制定された後、1950年にブラジル史上初の民主的選挙によってジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが大統領に就任した。二度目のヴァルガスはファシズム色よりも左派ポプリズモ色を打ち出し、ブラジル経済の国民化が進められたが、軍の抵抗に遭ってヴァルガスは1954年に自殺した。
1956年に就任したジュセリーノ・クビシェッキ大統領は「50年の進歩を5年で」を掲げて開発政策を進め、内陸部のゴイアス州に新首都ブラジリアを建設し、1960年にリオデジャネイロから遷都した。しかし、この開発政策によって生まれた債務が財政を圧迫し、インフレが加速した。
1961年に就任した通称 ジャンゴ大統領はこのような困難な状況を乗り切ることが出来ず、1964年にアメリカ合衆国の支援するカステロ・ブランコ将軍のクーデターによって失脚した。
軍事独裁政権時代
1964年にクーデターを起こしたカステロ・ブランコ将軍は軍事独裁体制を確立し、親米反共政策と、外国資本の導入を柱にした工業化政策が推進された。この軍政の時代に「ブラジルの奇跡」と呼ばれたほどの高度経済成長が実現したが、1973年のオイルショック後に経済成長は失速し、さらに所得格差の増大により犯罪発生率が飛躍的に上昇した。また、軍事政権による人権侵害も大きな問題となった。この間、各地でカルロス・マリゲーラの民族解放行動(ALN)や10月8日革命運動など都市ゲリラが武装闘争を展開し、外国大使の誘拐やハイジャックが複数にわたって発生した。
1974年に大統領に就任したエルネスト・ガイゼル将軍は国民的な不満を受けて軍政の路線転換を行い、1979年に大統領に就任したジョン・バチスタ・フィゲイレードは民政移管を公約した。1985年に行われた大統領選挙ではタンクレード・ネーヴェスが勝利した。
民政移管以降
1985年に民政移管が実現し、文民政権が復活したが、ネーヴェスが急死したために副大統領だったジョゼー・サルネイが大統領に昇格した。サルネイ政権下ではインフレの拡大によりブラジル経済は悪化し、内政では大きな成果を残せなかったが、外交ではアルゼンチンのラウル・アルフォンシン政権との関係がこの時期に大きく改善し、長らく続いた両国の敵対関係に終止符が打たれた。
1990年には国家再建党からフェルナンド・コーロルが大統領に就任したが、経済問題に対処できず、数々の汚職や様々な奇行のために1992年に罷免された。コーロルの失脚後、副大統領のイタマール・フランコが大統領に昇格した。
1995年にブラジル社会民主党から就任したフェルナンド・エンリッケ・カルドーゾ政権下でアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ、パラグアイにより、同年一月にメルコスール(南米南部共同市場)が発足した。2003年には労働者党からルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァが大統領に就任し、その後世界経済の好調を受けて経済が回復を見せた。
2010年10月、大統領選挙が行われ、与党労働者党のジルマ・ルセフ官房長官が当選した。ルセフは2011年1月、大統領に就任した。
存在感増すブラジル経済 ハイパーインフレからどう脱出したか
1993年に2500%に達していたブラジルのインフレ率はその後劇的に下がって、例えば2008年には6%にまで低下した。インフレが収まって経済に「予測可能性」が戻って安定するとともに、もともと人口の多い資源の豊かな国であるので、海外から直接、間接の投資が入り始めた。
世界でも、もっとも「駄目な国」から、世界的ショックにも強い国になったのか。
まずは資源大国であることを強調する。石油で輸出国になるなどの資源輸出国ぶりが顕著になった。穀物、バイオ燃料など、資源価格が世界的に高騰する中で、ブラジル経済は強化された。
経済成長を輸出に依存せず、格差解消への努力の中で内需中心に成長したことで、海外の経済ショックの影響をあまり受けない体質を確保したとも言われるが少し褒めすぎかもしれない。
海底油田の探査や、小型 中型のジェット旅客機製造など多くの産業分野で世界をリードするサービス 製造業の国としての立場に立てた 。
80年代のブラジルは、「危機の連鎖」の中にあった。このプランは、後に大統領になるカルドーゾ蔵相が93年末に発表し、翌94年から実施されたもので、以下の3つを柱にした。
財政の大幅な調整
仮想通貨(URV)価値単位の利用による相対価格の調整、新通貨の導入
貿易の自由化と新為替政策
その段階で、ブラジル経済の離陸への環境は整ったのである。環境を整えるのに力になったのは、前々回も指摘した政府の低所得者支援制度である。これで国内の消費者層が厚くなった。それ以前は何も買えない貧困層が多かったから、これは内需を確かなものにする点で大いに効果があったという。
ブラジルを石油の輸入国から輸出国に導いたペトロブラスは、海底油田の長い開発実績から今や世界屈指の海底採掘技術を持つといわれる。ブラジルはバイオ燃料(サトウキビから採取するエタノール)の利用国としても有名で、ブラジルで走る車のかなりの部分は、ガソリンでもエタノールでも走る高い性能を持つ。これは世界に先駆ける実用技術だ。ブラジルは“資源国”でもある。同じBRICSの国でも中国が国内の資源枯渇が進み、世界中で資源を漁っているのと比べると、ブラジルの余裕ぶりは痛快だろう。穀物まで含めてその資源の価格が世界的に上昇したわけで、ブラジルの経済力は上がったといえる。今はGDPの世界ランキングで ベストテンに入っている。
ざっとブラジルの歴史を不振り返ると、近代まで「戦争」の繰り返しであることに気がつく。日本が長い間、押し付けられ洗脳された結果の「平和ボケ」に陥り、「デフレ」と「食料自給率の低下」「円高不景気」「国際発言力の低下」に苦しむ現在は、ちょうど現在のブラジルと真逆である。
ブラジルでの日系移民者の貢献
かつて日本人が農業移民としてブラジルに入植して以来、日本人は「農業の神様」と呼ばれている。それは日系ブラジル人の高いステータスを確保する重要な礎になっている。首都ブラジリアが建設された際には、首都建設に必要な食料生産を日系人に任せる目的で、当時の政府はブラジリア周辺に日系人を入植させた。日本人の農業を通じたこうした功績に対し、ブラジリア建設40周年記念式典の際には、日系人に対して連邦区知事から特別に感謝の言葉が述べられた。
果実生産においても、日本の経済協力を契機に収穫量が増え、特に南部サンタ・カタリーナ州におけるリンゴ栽培等への協力は、ブラジルにおける日本のプレゼンス向上に大いに役立った。リンゴ栽培に関するブラジル側研究施設の所長に日系人が抜擢され、同協力に殉じた日本人研究者の胸像まで設置された。2005年9月29日に20年来の懸案だったマンゴーの対日輸出が始まった。食料の増産と輸出、エネルギー資源の自国内確保と輸出、エネルギー新技術の発展これらが継続すればブラジルの未来は明るい。
平成9年6月2日(火) 陛下三度目のブラジル訪問
ブラジル大統領夫妻主催晩餐会(イタマラチ宮)における天皇陛下のおことば
大統領閣下,令夫人並びに御列席の皆様
今夕は,私どものために晩餐会を催してくださり,また,ただ今は大統領閣下から懇篤なお言葉を頂き,厚く御礼申し上げます。
大統領閣下並びに令夫人には,昨年3月国賓として我が国を御訪問になりましたが,この度ブラジリアにおいて再びお目にかかる機会を得たことを誠に喜ばしく思います。
貴国と我が国が1895年,日伯修好通商航海条約を締結し,両国並びに両国民の間に,「永久堅固ノ和親アルヘシ」と約して以来102年の歳月が経ちました。一昨年は修好100周年を記念する行事が両国で行われ,両国の関係にとり,誠に意義深い年でありました。
貴国との交流の歴史を振り返りますと,遠く離れた地球の反対側に位置する両国を深く結び付けましたのは,1908年より始められた日本人移住者のブラジルへの渡航でありました。日本人移住者とその子孫の日系ブラジル人は現在130万人に達し,貴国は世界で最も日系人の多い国となりました。日本人移住者を迎え入れ,活動の場を与えられたブラジルの人々の温かい心に,深い感謝を覚えるものであります。今日,日系ブラジル人は様々な分野で貴国の社会に尽くしており,また我が国民との重要な接点となっておりますことを心強く,また,喜ばしく思っております。
貴国と我が国の関係は,第二次世界大戦後,両国の経済発展と共に深まり,近年は科学技術の開発や地球環境保全に関する協力にまで幅広く及んでおります。また多数の両国民が様々な形で両国関係の発展に関与していることは意義深いことであります。
大統領閣下には,社会的公正に配慮しつつ,ブラジル経済の安定的な発展と社会の近代化のための諸改革を目指して真摯な努力を重ねていらっしゃいますが,そのような中で,常日頃,我が国との友好関係の増進にも心を配っていらっしゃることに,深い敬意を表したいと思います。
私どもの貴国訪問はこの度が三度目になります。初めて貴国の土を踏みましたのはちょうど30年前,当時のブラジリアは赤土の荒野の中に都市計画に沿って建物が建てられていく真新しい首都でありました。二度目の訪問は1978年,日本移民70年祭記念式典出席の機会であり,ブラジリアは11年の間に大きく発展しておりました。この度の訪問でブラジリアの更なる発展を心に留めることになることと思います。
私どもはこれまでの貴国訪問を通じて,貴国の広大な土地,豊かで多様性に富む自然環境(陛下は生物学的多様性についても述べられた),寛容な国民性に深く印象づけられ,また,各地において,人々の温かい歓迎を受けてまいりました。今回の訪問においても,訪れる各地において,大きな変貌を遂げ,未来に向かって伸びようとしている貴国の姿を知るとともに,貴国国民との交流を深めたいと思っております。
ここに,貴国と我が国の国民が,世界の人々と相携え,平和で豊かな世界を目指して努力していくことを願い,大統領閣下並びに令夫人の御健勝と貴国国民の幸せを祈り,杯を挙げたいと思います。
平成9年6月5日(金) 陛下サンパウロに二度目の訪問
サンパウロ在留邦人 日系人歓迎行事(イビラプエラ体育館)における天皇陛下のおことば
この度,再びサンパウロを訪れ,皆さんとお会いすることを誠にうれしく思います。19年前のこの同じ季節に,ここサンパウロの地において行われた,移民70周年記念の式典を懐かしく思い起こしつつ,今日の歓迎に対し,深い感謝を表します。
1908年,日本から最初の移住者が笠戸丸でサントス港に到着して以来,移住者の長年にわたる並々ならぬ努力により,現在,日系の人々がブラジルの社会で信頼され,高い評価を得ていることを,喜ばしく思っております。また,新しい世代がたくましく成長し,サンパウロを始め,各地で様々な分野において,活躍するに至っていることも,うれしく,心強いことに思います。このような今日の日系社会の発展をもたらした各世代の人々の,それぞれの時代における努力に対し,深く敬意を表します。同時に,日本人移住者を迎え入れ,その活躍を可能ならしめたブラジル国民の寛容さを,私どもはこれからも長く心にとどめていきたいものと思います。一昨年,日本が戦後50年を迎えた折には,復興の苦難の日々,はるかなブラジルに住む日系人から寄せられた支援に対し,深く思いを致したことでありました。
近年,日系ブラジル人を含め,日伯両国の人々の間に新たな交流が盛んになってきております。こうした交流が,両国民の間の友好を深めると共に,相互の言語や文化の理解を通じ,両国社会への更なる貢献に資するものとなることを願っております。皆さんには,今後ともどうか体を大切にし,元気でブラジルの発展に貢献されるよう,また日本とブラジルの友好のため,引続き尽くしていかれるよう切に希望しています。
サンパウロ州では、50年以上も大会が続いている。現地ポスター中の「AGOSTO」は「AUGUSTの8月」であるから13 AGOSTOは8月13日であり、例年、日本とほぼ同じ頃に盆踊りをするのだろうと思う。
日系ブラジル人社会の「盆踊り」の録画映像に接するたびに目頭が熱くなる。
ひたすら真面目で勤勉だった日本人の原型をそこに感じる。
しかし、現代の国際情勢には、昔と変わらない「戦力の論理」つまり「暴力の論理」と「プロパガンダの論理」つまり「嘘を平気で吹聴する事実」があることを忘れてはならない。ロンドン五輪も終わりに近づいた。1836年8月1日から8月16日にかけ、開催されたベルリン五輪の1年後、1937年3月にはドイツはオーストリアを併合し、1年後1938年のミュンヘン会談後、英国のチェンバレンはヒトラーの空手形を持ち、嬉々として英国に戻った。いつの時代でも「平和主義と宥和政策だけでは平和は維持されない」のが、どの国でも逃れられない歴史的教訓なのである。「共同宣言」「協定」の類を見れば自明だ。
漢方市民講座は本日も盆の入りでお休みにしました。
八月十三日 盆の入りに記す。