連合軍占領下での独立運動 連合軍の軍政に対し蜂起した南朝鮮人
朝鮮人は朝鮮人民共和国の建国が謳ったが、それを承認しない連合国は、武力進駐し、軍政が布かれ朝鮮は南北に分割統治された。連合軍占領下の朝鮮では日本統治時代と異なり、強制拠出や自然災害などによる疫病の流行と、物価高騰(インフレ)が続発し、1946年10月には230万人の朝鮮人が連合国に対して蜂起し、大邱10月事件が起き100名を超える犠牲者が出た。アメリカの支援を受けた李承晩による南北分離独立政策に反対する市民が蜂起し、武力鎮圧の結果、数万人が殺害された。
済州島四・三事件 (チェジュとうよんさん事件)は、1948年4月3日に始まる。在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島本土の右翼青年団などが1954年9月21日までの期間に一連の島民虐殺事件を起こした。
島民の蜂起の思想的背景には南朝鮮労働党が関与しているとして、韓国政府側は政府軍と警察による粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。済州島の村々の70%が焼き尽くされた。この事件は麗水順天(ヨス・スンチョン)事件の背景 にもなった。
麗水順天(ヨス・スンチョン)事件
1948年10月19日、全羅南道麗水郡に駐留していた国防警備隊第14連隊は、済州島で起きた済州島四・三事件鎮圧の命令を受けていた。しかし南朝鮮労働党を支持していた連隊将校らは命令に服さず、反乱蜂起した。反乱軍は抵抗する警察官のほか、李承晩派の韓民党員、右翼幹部など数十名を連行し殺害した。
反乱は全羅南道麗水郡から隣の順天郡にも拡大した。李承晩は直ちに鎮圧部隊を送り込み、10月27日に事件を鎮圧した。反乱軍は北部の山中へ逃げ込み、長くゲリラ抵抗が続いた。事件では非武装の民間人8000名が殺害された。アメリカ軍機、韓国軍兵士、北朝鮮軍兵士、パルチザンにより殺害された。
この事件の混乱時期に日本へ不法入国して、在日韓国朝鮮人となるものがあった。
1945 年9月2日に日本が連合国に対し戦艦ミズーリ上で、尹奉吉の爆弾テロである上海天長節爆弾事件で右脚を失った重光葵政府全権(外務大臣)が降伏文書にサインして、降伏文書調印式が終了すると、朝鮮半島は米軍とソ連軍により北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザンを称する金日成の北朝鮮労働党政権が、米ソの力を背景に基盤を固めた。1945年9月10日、朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、まもなく、済州島人民委員会と改められた。1947年3月1日、済州市内で自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた。この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが行われた。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部の平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体である「西北青年団」を済州島に送り込み、白色テロルを主導した。
西北青年会は島民に対する弾圧を重ね、警察組織と協力して島民の反乱組織の壊滅を図ったが、南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装蜂起を起こした。
済州島民の蜂起と韓国による鎮圧
1948 年に入ると、南朝鮮は北朝鮮抜きの単独選挙を行うことを決断した。島内では選挙を前に激しい左右両派の対立が生まれた。その中で、4月3日、単独選挙に反対する左派島民が武装蜂起した。警察と右派から12名、武装蜂起左派島民側からは2名の死者が出た。事件当初は交渉による平和的解決も模索された。 しかし、アメリカ軍の介入と西北青年団の妨害行動で交渉は決裂し、流血事態となった。蜂起は後の韓国軍である朝鮮国防警備隊や警察、西北青年団などの治安部隊によって短期間で鎮圧された。武装蜂起遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになっていった。 治安部隊は潜伏している遊撃隊員と同調する島民の処刑粛清を行った。処刑粛清は8月15日の大韓民国成立後も正式発足した韓国軍によって継続された。韓国軍は、村を襲うと若者達を連れ出して殺害し、少女達を連れ出しては、数週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に殺した。
1948 年9月、金日成は朝鮮人民軍を創設し、続いて朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。1950年に南北朝鮮労働党が合同し、金日成の朝鮮民主主義人民共和国が韓国に侵攻し朝鮮戦争が始まった。
韓国では朝鮮労働党党員狩りは熾烈さを極め、1954年9月21日までに3万人が、1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。また、韓国本土で保導連盟事件(ポドヨンメンサコン)が起きると本土と同様にチュジュの刑務所で1200人が殺害された。海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている。
保導連盟事件 (ポドヨンメンサコン)
韓国では近年まで事件に触れることもタブー視 されており、「虐殺は共産主義者によっておこなわれた」としていた。1950年6月25日の朝鮮戦争が勃発し、李承晩大統領の命令によって軍や警察が共産主義からの転向者、その家族を再教育するために設けられた統制組織である「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人など、少なくとも20万人あまりを大量虐殺した事件である。虐殺された人数は近年の韓国での研究で60万人から120万人に上るとされた。李承晩大統領の失脚直後、全国血虐殺者遺族会が、遺族たちの申告をもとに報告書を作成し、その報告書によれば虐殺された人数は114万人である。韓国政府の「真実和解のための過去史整理委員会」は朝鮮戦争の初期に韓国政府は子供を含む少なくとも10万人以上の人々を殺害し、排水溝や炭鉱や海に遺棄したことを確認した。アメリカ軍の公開機密書類にはアメリカ軍将校の立会いと虐殺の承認などが詳細に記録されている。ワシントンは虐殺の写真が半世紀の間隠蔽し続けた。虐殺の事実はアメリカ軍司令官のマッカーサーにも報告されていたが止めようとした形跡は発見されていない。
済州島は歴史的に流刑地 だった。朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。現代のオーバーステイ、不法滞在である。韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身である。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日朝鮮人となった人々も多い。日本へ逃れた島民の一部は大阪にコミュニティーを建設した。済州島では事件前(1948年)に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる。
長年「反共」を国是に掲げてきた韓国では、責任の追及が公的になされていない。また、事件を語ることがタブー視されてきたため、事件の詳細はまだまだ未解明である。
21世紀になって、韓国大統領となった盧武鉉(ノムヒョン)は、自国の歴史清算事業を進め、2003年10月に行われた事件に関する島民との懇談会で初めて謝罪した。また、済州四・三事件真相糾明及び犠牲者名誉回復委員会を設置した。さらに2006年同日の慰霊祭に大統領として初めて出席し、島民に対して正式に謝罪するとともに、事件の真相解明を宣言した。しかし2年後、盧武鉉は2008年2月に自殺した。
事件から逃れて日本に密航した済州島出身の在日朝鮮人は、その恐ろしい体験から「再び酷い目にあわされるのではないか」と祖国へ数十年も訪れることのない人々も多かった。韓国政府が反省の態度を示し始めたことで、60年ぶりに祖国を訪れる決心をした人物も現れ始めている。
新潟在住のころ、行きつけのコリアンバーで、女性たちと踊り、歌ったのが
「済州(チェジュ) エアポート」である。単なる歌謡曲と言ってしまえばそれまでだが、
歌詞中「 はるか東に飛び立つ影よ の 東 」とはもちろん日本である。
日本人観光客向けの歌であろうが、、 しかし
想像を膨らませ、在日済州島出身の祖父母、子供、孫たちが(結婚した日本人も連れて)自分のルーツの済州島を訪れて、知人や愛人との別れを惜しむ歌でもあるとすれば、「日韓の歴史を感じつつ」酒が飲めるのである。
済州島で虐殺された住民の御遺体を対馬の日本人が浜から引き上げ、篤く供養した後に、寺に安置した。海流は済州島から対馬へ向かう。対馬海流を「済州海流に改めよ」などとは言い出さないであろうが、、。
八月十六日 記