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日本の国際的な威信の低下に付け込む諸外国 6

2012-08-26 05:00:00 | ブログ

日本人が中国人より半島人(南朝鮮人)に親しみを感じるのは、古代4~5世紀に半島からやってきた渡来人との血縁が少なからずあるからである。焼き物の須恵器、馬術、馬具、鉄の農機具(韓鋤や韓鍛冶と呼ばれる)をもたらし、古代倭国の支配者の力を強化し、そしてその支配者のほとんどは新しくこの時代に半島人からやってきた渡来人だった背景がある。5~6世紀には文字 儒教 仏教 医学 政治制度などを伝え、倭を大きく変えてきた。百済が滅ぶと(660年)、倭は救援の軍を送り、百済から逃げてきた渡来人に、歓迎した。
「続日本紀」(722年)によれば、飛鳥地方の住民のうち、多くは百済からきた渡来人だったと推定される記載がある。文武天皇から孝謙天皇までの記載第二十の中に「百済」という文字は69回出現している。(私の調査による。)日本人のルーツ云々を述べているのではなく、「混血」が進んだことは確かであろう。

韓流ドラマ 映画と私

トンイー(粛宗王時代の側室もの時代劇)、東医宝鑑を著した許浚「ホ ジュン」、宮廷女官チャングムの誓い、禧嬪張(ヒビン チャン)、冬ソナ 韓国語原題「????」「冬の恋歌」、シュリ(北朝鮮工作員と、韓国諜報部員との悲恋物語)、春の日は過ぎ行く原題:??? ??(ポムナルンカンダ)、グエムル-漢江の怪物(グエムル かいぶつ)これには腹を抱えて笑ったが、イルマーレIL MARE 時越愛 ???、ハリウッド版 イルマーレ等、私は共感を持って観たし、ドラマ中の韓国音楽は何の抵抗も無く、自然の景観には親近感を持った。医師であることから許浚「ホ ジュン」と宮廷女官チャングムの誓いには大いに時間を割いて観た。

そして 自らの漢方市民講座のブログにも

http://kojindou.no-blog.jp/happykanpo/cat10317277/

http://kojindou.no-blog.jp/happykanpo/cat4423766/

などで許浚を紹介し、2007年2月8日に「レタスの安眠効果の「ネタ元」はやっぱり「チャングム」? で「宮廷女官チャングムの誓い」を紹介した。少し長くなるが興味のある方は同年2月のブログをご覧ください。

http://kojindou.no-blog.jp/happykanpo/2007/02/

医学、医術の発展は、先人の知識 経験の伝承によることが大である。したがって、許浚やチャングムが中国の医書から学んだことは当然だ。同じ組成の中国の処方を名前を変えただけにするといった許浚のいわば「パクリ」も当然の成り行きであろう。私の「内傷発熱論」「虚熱論」がそのままハングルに訳されて、「パクられた」のも、当初は憤慨したが、後で思い返せば「中国で学んだ私の論」から、同じく「中国から伝わった朝鮮での医学」に関与する人間がパクリを行ったのであるから、元の中国に戻ったといえなくもない。

それにしても人気「韓国ドラマ」の俳優のアクションは大げさで、あるときは京劇風、あるときは日本の漫才風であり、もう少し工夫が必要だと思うがいかがであろうか?

最優先事項

英語の priorityプライオリティーpriorityprior to~(~に先立って)の名詞形であり、優先順位、優先順、また、優先権、先取権を意味する。

ビジネス用語では、「優先順位」の意で使用する場合は、その度合いを「高い/低い」で表現する。「プライオリティーが低い」とは「優先順位が低いので、後回し」を意味する。業務のプライオリティー(優先順位)を見極める。の類はよく耳にする表現である。ところが「プライオリティーは私にある」というような表現の場合には、「私が誰よりも時間的に早く発見あるいは達成した」という意味の学者、研究者の用語となる。最近の韓国にはこういうプライオリティーを無視する発言が対中国に対しても行われている。「プロパガンダの論理」に近い発言はいかがなものであろうか?

政治用語としての「優先事項」は英語ではpriority matter単にpriority目的としての対象はpriority objective 最優先事項matter of the highest priorityhighest priority top priorityあるいはfirst priorityともされる。

メドベージェフ首相

度重なる中止要請にもかかわらず、7月3日、ロシアのメドベージェフ首相北方領土の国後島に入った。5月に発足わずか2ヵ月後のプーチン政権の新閣僚を同行させてである。日本政府の訪問中止の要請は完全に無視された。北方領土はプーチン政権にとって北方領土はpriority objectiveであり、実効支配を強調する最優先事項matter of the highest priorityの一つであったからだ。

最優先事項を間違えた可能性が高い李明博(イミョンバク)

日本側の上陸中止要請を無視し、10日に李明博竹島に上陸し、「悪い戦争を起こして真摯(しんし)に謝るべきなのに、日本が謝罪しないから問題が解決しない」と日本を強く批判した。14日には、天皇陛下の訪韓に言及し「韓国を訪問したいのなら、独立運動で亡くなった方々に対し心からの謝罪をする必要がある」と述べ、15日には、日本による植民地支配からの解放を記念する光復節67周年記念式で演説し、旧日本軍の従軍慰安婦問題について、「人類の普遍的価値と正しい歴史に反する行為」との認識を示した。さらに、慰安婦問題は韓日間の問題にとどまらず戦時下の女性の人権問題だとした上で、日本政府の責任ある措置を促した。67回目の光復節を迎え、大韓民国が堂々と先進国の隊列に加わったことを確認する」と述べた。国内事情もあったに違いないが、すでに実効支配している(先取した)竹島に上陸し、さまざまな発言をした李明博(イミョンバク)であるが、すでに政治決着をみている事項を蒸し返し、大政治家の如き行動発言を取ったことは、現在の日韓両国の優先事項を無視し、結果として、彼が狙ったわけでもない?最優先事項である「両国民のナショナリズムに火を注ぐ」結果となりつつある。日本流で言えば「大人気ない」という形容がピッタリと当てはまる。

一連の事件は大半の日本人にとっては「コケにされた」という屈辱とそれに対する憤慨を撒き(巻き)起こした。戦後、あれほど嫌うようにと日教組によって教育された「大日本帝国陸海(空)軍」の威光は地に落ち、「日米同盟」も基盤が崩れ始め、再びあの「大日本帝国」の再来を望む声が日本国民の中に生まれ出している。

本日の「漢方市民講座」

火病(ファビョン)

精神的ストレスが原因となる一連の症候群をさす。怒り、悔しさなどの感情などを長く胸にためていると発症する。アメリカ精神医学会が出している精神疾患のマニュアルと診断の手引きに「Hwa-byung」という病名で記載され韓国固有?の病で、「憤怒症候群」とされる。ファビョンの原因は、夫との確執が最多で半数に近く、次いで経済的な問題、姑など夫の家族との確執、育児の悩み、実家の問題、その他の順である。
 症状は胸、心臓の周りに熱感があり、逆に手足が冷たい。顔の火照り感、唇の乾燥、いわゆる梅核気と称される喉元の痞え、頭痛、動悸、消化不良、めまい、手足のしびれである。病状が進展すると、高血圧、不眠症や、慢性胃炎や胃潰瘍、慢性の頭痛、高音性、あるいは響くような耳鳴りなどを併発するようになる。急性悪化は感情のコントロールを失うことがきっかけとなる。

中国医学では「肝鬱化火」「心火上炎」「火性炎上」「痰熱上犯」「心失滋養」「心神不安」などの漢方用語を用いるが、それぞれが独立疾患ではなく、いわゆる虚実弁証に基づく病因論も含めた疾病の弁証(診断)に用いられる用語である。それぞれの弁証により方薬が異なる。

八月十九日 記


日本の国際的な威信の低下に付け込む諸外国 5

2012-08-25 07:00:00 | ブログ 湯浅謙 731部隊 生体解剖 漢

いわゆる731部隊で湯浅氏が行った生体解剖を医師として分析する。

湯浅医師が述べた生体解剖を医者の視点から考える。

赤が私の論点です。

誹謗中傷の目的ではありません。事実認定はあくまで「裁判用語」として捉えてください。

湯浅医師が述べた生体解剖 以下

医学生時代より、軍医になり中国へ渡れば生体解剖を行う機会があるという話を聞いていた。生体解剖の事実認定とはまったく関係ない。

(中略)病院では院長と庶務主任が準備をする。師団では、連隊付の軍医15-16名の教育のため実施した。被害者は、概ね八路軍と密通した被疑者とされていたが、実際に密通者かどうかは分からない。取調べで残酷な拷問を加えるため、解放した後日本軍の悪い噂が立たないように、口封じの為、生体解剖に送られてきた。

氏の供述が真実なら、拷問死を免れた人間を医学研究のために生体解剖したということになる。氏が主張する「口封じのため」なら拷問死させれば済むはずで、遺体を「廃物利用」として解剖したというほうが理にかなう。

湯浅が携わった生体解剖は合計6回に及ぶ。

1回目 

(中略)36師団より11-12名の軍医、新任軍医5名、その他2-30名が参加した。被害者は野良着姿の中国人男性2演習内容は、腰椎麻酔、全身麻酔、

つまり麻酔下で行った。

虫垂の摘出)、四肢の挫滅創(二の腕の切断)、腹部貫通銃創腹部正中切開の後、腸の切断および縫合

被術者が暴れていてはろくな縫合練習にはならず、ここでも麻酔下が十分に想像される。

野戦気管切開器による気管切開 

気管切開は死亡した後も十分に可能だ。

演習後、未だ呼吸が続く被害者に対し、心臓へ注射器による空気注入、首を絞めることによる頸動脈圧迫、静脈への麻酔注射によって死亡させる。

ここでも静脈への「麻酔」注射が出てくる。毒薬の注射でなかったことは不思議だ。

気管切開していたらその気管にゴム風船でもつめれば簡単に息絶える。吸い込んだペンシルキャップで気管を起こし短時間で死亡した小学生の友人を思い出す。その事件以降からか、製造者責任が叫ばれたキャップには先端に穴が開いたのである。こんにゃくゼリーによる窒息死も話題にされた。

呼吸停止その後の心臓停止となるのが通常の「死亡」過程である。氏が言う、虫の息の状態であれば、わざわざ頸動脈圧迫、静脈への麻酔注射など必要ない。放置しても程なく呼吸停止に陥る。作為的には気道閉塞による窒息死が一番早いのだ。

救急蘇生の第一歩は気道の確保である。逆に言えば、窒息させるのが殺すには一番早い。

加えて、氏は虫の息状態の被害者の頚動脈圧迫によって死亡させたと述べているが、氏は絞首刑の本質を知らないようだ。絞首刑は頚動脈圧迫により脳循環を遮断するのが目的では無い、頚椎骨折、頚椎脱臼による即死に近い状態を第一に狙うものであり、気管閉塞は同時に起こる現象であり、間接的な追い討ち効果である。氏の記載はなぜか医学的に一貫性(信憑性)を欠いている。

2回目 

1942年秋。西村慶次中佐(安陸軍医院長)が教育責任者となり、第36師団から氏家少佐(同師団野戦病院長)および軍医が参加した。被害者は、憲兵隊より貰い下げられた中国人男性2名。腸管の縫合、野戦気管切開器による気管切開、顎骨骨折を予想しての整復手術、睾丸摘出。

術前に捕虜が生きていたという証拠にならない。麻酔下、沈静下の方が確実に行える処置だからである。

3回目 

194212月。第一軍からの命令による軍医教育(中略)軍医40-50名が集められて行われた。この際、太源監獄にて生体解剖を実施。被害者は中国人男性4名。その場において、拳銃で腹部を銃撃し、弾丸の摘出手術を行う。その間、同時に四肢の切断、気管切開を行う。

気管切開はつきものだったらしいが、銃弾は、弾創口に限らず、銃弾本体とその破片による内臓破壊を伴う。銃弾の摘出手術だけでは本番の日本兵の救命はできない。ましてや近距離からの射撃である。実習訓練ではもちろん麻酔下、あるいはモルヒネ投与下でやるのが普通だ。すでに死んでいたのではなかったかと氏の供述を疑う。日本兵のための衛生兵ではなく「軍医」の教育実習なら「雑な練習」は許さない。腹を打たれてもだえ苦しむ瀕死の人体から、その腹部から銃弾を摘出するのは至難の技であり、銃弾を摘出しただけではもちろん訓練にもならない。氏の供述には、使用された日本陸軍の拳銃名とその性能、摘出した弾丸の口径、貫通銃創の有無、銃撃部位、損傷内臓などの情報が一切無い。モルヒネの投与があったのか無かったのかの記載も無い。いわゆる雑文に近い印象を与える。

4回目~6回目 

19444月、安陸軍病院で庶務主任に任命される。(中略)湯浅は年6回の手術演習の計画を立て病院長へ提示した後、第1軍と北支方面軍の軍医部にそれぞれ計画書を提出したが、作戦やその他諸事情のため、敗戦までの間に行えた手術演習は3回だけであった。

194411月に行った演習では2名の被験者が居たものの、軍医の集まりが悪く、1名の生体解剖を行っただけで演習が終了した為、もう1名の被験者は院長が日本刀で斬首した。

これも事実認定の証拠にはならない。

病院長の依頼により日本の製薬会社に送るという理由で、大脳皮質を(中略)二十数名の衛生補充兵の衛生教育のため、1名の中国人被験者を生体解剖し内臓などの位置を教える演習を行った後、脳皮質の採取を行い病院長へ渡した。

大脳皮質云々は解剖後の病理標本の製作過程である。衛生兵や軍医でもない衛生補充兵の衛生教育に生体解剖(解剖学実習)があったという事実認定は氏の供述だけによるもので、教育実習ならば生体解剖より遺体解剖が向いている。生体解剖であれば視野が血液で失われ、観察が出来なくなる。4年間約48ヶ月(1400日強)の間で「頻繁に毎日行われていたという生体解剖」のうち6回((0.43%)にかかわり、約10人の解剖に携わったということになる。認罪するにはちょうどよい数であると言われても反論できない数字である。

独立歩兵第5警備隊 

19453月、安陸軍病院から独立歩兵第5警備隊(司令部は運城)へ派遣。(中略)大隊の高級軍医に任命される。(中略)この部隊ではしばしば八路軍に対する掃討作戦を行い、この掃討作戦の際、負傷した八路軍兵士を銃殺する場面に立ち会っている。

もちろん生体解剖ではない。掃討作戦では負傷した敵兵士を銃殺するのが当時では敵側からしても当たり前だった。

1956年6月 起訴免除となり釈放。日本へ帰国。

1957年3月 慈恵医大の内科で再研修。

1958年7中国帰還者連絡会に参加白十字病院で初めて証言する。以降、反戦・平和、原水禁、日中友好運動などに積極的に参加する。

1958年3民医連・西荻窪診療所に勤務、所長となる。

民医連とは日本の社会主義運動の下部団体のひとつである。勤労者医療協会、あるいは医療生協を束ねる組織を指す。

(清朝ラストエンペラー溥儀は1959に、当時の劉少奇国家主席の出した「戦争犯罪人」に対する特赦令を受け、129日に模範囚として特赦された。なお、溥儀とともに収容所に収監されていた溥傑も、19601120日に釈放された。)

1976年西荻窪診療所所長を退任、勤務医となる。

1988年秋帰国後はじめて太原へ謝罪の旅。

1991年10 4回目の訪中。路安を訪問。

2010112日心不全のため死去。享年94歳。

氏が参加した「中国帰還者連絡会」の体質

中国帰還者連絡会は、撫順戦犯管理所に戦争犯罪人として抑留された旧日本軍の軍人が帰国後の1957924日に結成した団体で略称は中帰連という。

会員資格は「中国を侵略して戦犯となり、中国の寛大政策により帰国したもの」としている。731部隊 南京事件 強制連行などについて積極的に証言し、かれらの活動が歴史をゆがめた可能性が高い。撫順戦犯管理所969名、太原戦犯管理所140名の「出」の会員からなる。戦犯管理所ではシベリア抑留時代とは異なり、「人道的処遇」が戦犯容疑者たちに保障された。戦犯容疑者たちは、自分たちの行為を反省し、罪を自主的に告白する認罪運動(ないし洗脳)を、長期間にわたって課された。

19564月、山西省太原市と遼寧省瀋陽市での特別軍事法廷で、重要戦犯容疑者の45人の裁判が行われた。それ以外の容疑者たちは管理所内の臨時法廷で「起訴免除、即時釈放」の判決を受ける。そして湯浅氏は帰国した。

1957年帰還者連絡会が創立。「死刑」や「無期」、「長期刑」に処されると恐れていたところを、寛大な恩赦によって帰国を得たものたちは中国共産党政府に深く感謝したであろう。しかし、その実態は、思想教育が有用だったと判断した者を、思想の伝播者として、無罪放免という恩を着せて帰国させた意図が否定できない。世界は共産主義と資本主義の対立、朝鮮戦争にみる代理戦争の真っ最中だった。

私は「生体解剖」があったとか無かったとかを論じているのではない。湯浅謙氏が再々に渡って述べ、残された資料から分析したのである。何故なら「プロパガンダの論理」の中ではもっともショッキングで心理に訴える供述が「従軍慰安婦」「生体解剖」の類であるからだ。今となっては、誰も湯浅氏を責められない。ただし、彼が選択し、残した「文責」は依然として存在する。

731

731部隊による「生体解剖」とされて報道された写真。

http://ccce.web.fc2.com/si/731.html  より引用した。ご覧ください。

医師としての観点からはやや腐敗が始まった遺体であり、腹部は「湯浅式」腹部正中切開ではなく、横に切られており、上顎から下顎にかけては鈍的外傷があり、右肩から上腕にかけて丸みを感じさせる皮下脂肪の存在、側腹部から盛り上がる腸骨(骨盤)の曲線から判断すれば被害者は女性である。

本日の漢方市民講座

「欲絶」とは「まさに死なんとする人体の危機的状況(瀕死)」の脈を示す漢方用語である。

脱証(だっしょう)

(症状)突然の昏倒、人事不省、目を閉じ、口が開き、呼吸衰微、手は弛緩状態、四肢厥冷、多汗、二便失禁、肢体萎軟、舌痿、脈が微、欲絶である。

(症候分析)元気衰微、陰陽離決の傾向のため、目を閉じ、口が開き、手は弛緩状態、二便失禁など「脱」の症状をみる。正気虚衰、陽気欲脱のため、呼吸衰微、多汗、四肢厥冷、二便失禁、舌痿、脈が微、欲絶をみる。

(治法)益気回陽、扶正固脱

(方薬)参附湯加減。人参で大補元気、附子で回陽救逆する。

「欲絶」は(まさに絶えようとしている)とする意味)であり、杜甫の「春望」中の「白頭掻けば更に短く、渾て(すべて)簪(しん かんざし)に勝(た)えざらん と欲す」の欲の語法と同じである。漢文に得意な御仁には当たり前のことだが、素人が「絶対に欲しい」などと勘違いしないでいただきたい。

医師というものは、「観察所見を何かに必ず記載する習慣」を身につけている。誹謗中傷するつもりも、氏の名誉を貶めるつもりも全く無い。しかし、湯浅氏にはその「習慣」が無かったと思われる。供述にも必ず医師らしさが伴うのであるが、医師らしさの「観察の視線」は一切感じられない。生々しさを極力避けた意図もあったろうが、それでも医師の「さが」「性」は捨てようもないのだが、観察記録が残されていないのは事実だ。

八月十八日 記


日本の国際的な威信の低下に付け込む諸外国 5

2012-08-24 07:00:00 | 李明博 従軍慰安婦 慰安所 湯浅謙 小野

ソウル聯合ニュース815()によると

李明博(イミョンバク)大統領は15日、日本による植民地支配からの解放を記念する光復節67周年記念式で演説し、旧日本軍の従軍慰安婦問題について、「人類の普遍的価値と正しい歴史に反する行為」との認識を示した。
 慰安婦問題は韓日間の問題にとどまらず戦時下の女性の人権問題だとした上で、日本政府の責任ある措置を促した。67回目の光復節を迎え、大韓民国が堂々と先進国の隊列に加わったことを確認する」と述べた。

人類の普遍的価値と正しい歴史に反する行為」「慰安婦問題は韓日間の問題にとどまらず戦時下の女性の人権問題」だとした上で、日本政府の責任ある措置を促した

「極東軍事裁判の訴因」のような文言である。「戦時下の女性の人権問題」とはよく言ったものだ。これには呆れる。戦時下,内乱下の暴力と女性の人権の消失は現在でも続いている世界的な事実であり、総論を大上段に掲げて「日本という各論」を述べている。まるで「神」の如き尊大な発言である。朝鮮半島はいまだ統一されず、大国の「暴力の論理」と「プロパガンダの論理」に揉まれ続けた朝鮮民族の悲しみと怨念は理解できなくもない。しかし、かつてマッカーサーが戦艦ミズーリ上で宣言したような気分をイミョンバクが共有しているとすれば大きな誤算につながるだろう。

騒動には震源がある。本多勝一氏しかり、森村誠一氏しかり、湯浅謙氏しかりである。では震源地をまずは調べなくてはならない。

「従軍」慰安婦「問題」湯浅謙

避けて通れない人物である。同じ医師であるBC級戦犯で処刑もされなかった湯浅謙医師の証言や行動には以前から興味を持っていた。「認罪学習」で共産党に提出した「反省文」が事実なら、当然死罪は免れないからだ。氏が収監された太原監獄は共産党支配下、上海は国民党の勢力下であり、BC級戦犯5人が絞首刑に処せられている。ただし米国の報復的死刑執行であった。中国の周恩来総理は戦犯裁判で大半の日本人を不起訴にして、即時釈放という寛大な裁きを行なった。一般の中国人(戦犯管理所の職員も)の感情からは納得できない寛大な処置であったが、周恩来総理は「いま理解できないとしても、20年後にはこの寛大な処置が正しい事がわかる。」と諭したという。さて、彼の言った20年後の意味と意図は何であったであろうか?

湯浅氏の略歴

1916年東京生まれ 1941年東京慈恵医科大学卒業 駒込病院勤務(25歳でインターン生活に入る)

1942年26歳、つまり医者に成りたての時分に、河北省に接する山西省の北支山西路安陸軍病院に赴任した。同病院では、伝染病科 病理検査室付軍医として勤務。(以下ウキペディアによることが多い)

1942年3月 八路軍とされる兵士の生体解剖に携わる。生体解剖は、衛生兵教育、製薬会社の研究材料提供の為に行われた。指導的な立場になった後、新任軍医の演習の為、自身の計画と実行のもとに計6回、延べ10名の生体解剖を行う。

1945年815日 太原陸軍病院で終戦を迎える。その後、太原に残留した日本人と共に、医師団の一員として残留し、日本人居留民のための山西共済病院に勤務。

さらに日本の同仁会が経営する慈恵病院に移籍する。

(1946年には上海でBC級戦犯の処刑が行われた。)

1947年 31歳で太原郵便局保険課長の次女だった啓子と結婚。二児の父親となる。

(1948年11月12日 極東軍事裁判終了)

1949年4月 人民解放軍が太原をいわゆる「解放」する。中国政府の命令により省立病院に勤務。10月毛沢東中華人民共和国建国を宣言

1950年 陽泉の病院に移動。朝鮮戦争勃発。人民解放軍朝鮮戦争参戦

1951年 35歳で河北省永年の捕虜収容所に家族と共に収容される。

1951年1月 捕虜として河北省永年の捕虜収容所に収容される。生体解剖について告白する。

1952年 36歳、戦犯として太原監獄に拘置される。

(1953年7月27日 朝鮮戦争 休戦)

1956年 40歳で起訴猶予で釈放、帰国する。

(周恩来の「20年後」を待たず、1972年に日中国交は正常化する)1977年毛沢東の権力闘争、10年間続いた「文化大革命」が終わる。

「季刊中帰連 第5号」軍医湯浅謙の「私が知る従軍慰安婦」

赤で記載したところは私の感想です

私は先の大戦中、中国戦線に於て陸軍病院の軍医として従軍し、(中略)生体解剖をずいぶんやりました。(中略)自分の罪を反省することができた次第です。

 1956年、許されて帰国してからは、中国帰還者連絡会の一員として、(中略)日本の軍国主義の実態を訴えています。(中略)私が体験した朝鮮人の「慰安婦」について述べます。(中略)1942年1月、中国山西省南部の路安にある陸軍病院に着任しましたが、そこは付近を占拠している36師団の司令部の所在地で、そこでの私の日常は兵隊と中国人に対し驕り高ぶったものでした。

路安には軍人専用の朝鮮人「慰安所」があり、病院の軍人たちもよく訪れていました。兵隊は国家から遮二無二連れて来られ、(中略)やっと気が抜けるのが月に一回か二回訪れる慰安所です。そこで元気を取り戻して明日から辛い日常です。即ち活力の元が「慰安婦」だったのです。(中略)或るとき酒の勢いで皆と一緒に慰安所を訪れました。慰安所での値段は兵隊は2円で5時まで、下士官は3円で7時まで、将校は泊って10円。但し慣れている仲間からサービス料を出せと言われて15円置いて一時間位で帰りました。これが私の初めての体験ですが、飲んで騒いで遊びに行っただけという気持ちでした。その後そこには2~3回行ったように覚えています。(中略) いつも皆と一緒に酒を飲んだ挙句に行ったのですが、一回だけ一人で行ったことがあります。それは1945年4月、中支軍が突っ込みすぎて重慶軍に包囲され離脱できず、山西から一ケ師団を結成し北から応援に出動したときのこと、私は病院から隊付の軍医として派遣されました。単独の赴任で、黄河を越えた河南省はマラリアや栄養失調症が多発すると聞いていたので淋しくなり、途中の太原市で無理して酒を飲み一人で慰安所を訪れました。そんな気持ちを察したのか、朝鮮の慰安婦から「死んじゃ駄目よ」と慰めの言葉を掛けられたのを覚えております。(中略) 当時の軍人の目から見ると「慰安婦」は公娼のように見えたのです。料金を払いますし愛想もよかったからです。然し彼女たちには本当のこと、つまり「私は強制され連れて来られた」とか、「帰ろうとしても脅迫され帰れなかった」などとは絶対に言えなかったのです。相手は軍人、ましてや将校、「日本軍を談議する」とか、「戦争に協力しない」として憲兵隊に通報される。またにこにこして兵隊を迎えなければぶん殴られるが関の山。ここに落ちたら泣いても反抗しても同じ、することはしなくてはならない。だから性奴隷です。

(中略)私は路安で一日に30人を相手にして急死した女性のことを聞きました。苦しくても逃げられなかったのです。

(中略)これらは植民地支配や戦地の軍支配の実体を何も知らない人たちの言うことです。「慰安婦」は正しく日本軍の性奴隷だったのです。

(中略)赴任して間もなく大隊長に呼ばれたところ、「嬉しいことがある」とにこにこ顔で言われ、「慰安婦」六、七名が来たのです。別に性病検査の命令は受けなかったのですが、軍医の私しかいないのです。私は産婦人科の経験は学生時代しかなく自信がなかったのですが、六、七名の「朝鮮人慰安婦」の性病検査をしました。リンパ腺にふれて腫大をみたり、クスコという器具を性器に突っ込み粘膜の異常をみる。尿道部を圧迫して腹が出るかを検査しました。そして全員合格とし、部隊には回覧を廻して「全員合格だが肉眼的所見によるものだから必ず予防具をつけること」と通知したわけです。(中略)

私が3年半いた路安陸軍病院のことですが、兵隊は日曜の外出日には慰安所を訪れるのが最大の楽しみでした。整列した兵に「みんな持っているか」「はーい」、予防具を持っているかを確かめるのです。

(中略)

私は巡察時には慰安所には行かぬよう先輩から注意されました。その先輩は馴染みの慰安婦から「今日は偉そうな格好している」と冷やかされ、慌てて逃げてきたそうです。(中略)

日曜日だけの外出では慰安所がいっぱいになるから、部隊に外出曜日を割りあてました。また物価騰貴の折から2円を3円に値上げしたように記憶しています。このように慰安所の経営は業者(軍属?)が行ったのですが、管理は軍がしていたのです。(中略)

敗戦後も2700名の軍人と共に国民党軍に徴用され3年半も人民解放軍と戦ったわけですが、その中に軍人の妻となった朝鮮人慰安婦が何十名かおりました。そして全中国の解放時に軍人は捕虜収容所に収容されましたが、彼女たちは軍人の家族として家族隊で生活していました。その時、日本軍国主義の束縛から解放された彼女たちは、

日本軍に騙されていた(本土の日本国民も日本軍大本営発表に騙されていたし、誰でも言いたい放題がゆるされると悪口雑言を吐くものである)

村祭りで遊んでいたら軍人に集められ、つれて行かれた(軍人とは断定できない)

父親の(承諾書)を見せられたが父親は字が書けなかったのに(文盲は当時珍しくなかった。本土日本でも事実私の祖母は文盲であったし、東北大飢饉で都会に身売りしていった娘の両親にも文盲が存在し承諾書は代筆だった)

苦しくて消毒薬をのんで死を図った(クレゾールであろうが、クレゾールではなかなか死ねないことは当時わかっていたことだ。致死量を超えて大量に飲んで、胃洗浄を受けなければ、ももだえ苦しんだ挙句、死ぬまでには三時間近くかかる。死ぬ気があれば他に方法はいくらでもある)等々の不満が噴出したそうです。

噴出したそうです。講釈師 見て来た様な嘘をつきの類に属する

敗戦後再教育をうけた湯浅医師に対し、敗戦後もフィリピンルパング島で29年間戦士として生きぬき、敗戦後再教育を一切受けなかった教養人でもある小野田寛朗陸軍少尉が存在する。

従軍慰安婦を知る上で両者の論点の違いを比較対照することは大いに意味を持つ。

ブルーで私の感想を付す。

「私が見た従軍慰安婦の正体」 雑誌「正論」より 小野田寛朗 全文


真面目すぎる「コメント」  しかし、、

2012-08-23 07:00:00 | ぼた餅

先日次のようなコメントをいただいた。

「粳米をもち米と定義してあるのは間違いではありませんか?まして白虎湯に含まれるとすれば清熱作用を期待してのこと。もち米だと温性があります。粳米は玄米、お米、うるち米だと聞いています。これなら凉性で白虎湯と合います。

大変に真面目に勉強されている。真面目に勉強するのは賞賛に値するが、部分を見て、全体を見ないというのか、私に言わせれば「浅はか」というべきコメントである。

確かにご指摘のようにウルチ米であろう。「盆 戦争 ぼた餅」の流れからもち米という講座になってしまったことはお詫びする。

しかし「白虎湯」中の粳米は粳米の清熱作用を期待して配合されているのではない。私がグリーンで表記したのは薬性が「平」という意味である。コメントにあるように温性であればレッドあるいはオレンジで表現したはずである。「白虎湯」は「粥」はなく「薬湯」である。石膏中の微量元素を安定させ薬湯に留める働きが粳米にあるわけで、山薬、これも薬性は平であり、代用も可能である。分子間の詳しい関係は知らないが、「リポステロイド」の如き、成分の閉じ込め作用があるのではないかと思う。

「もち米だと温性があります、、玄米、お米、うるち米、、これなら凉性で」のコメントはさらに「近○眼的専門○○」である。

飢餓が続けば体温が低下する、その時に「玄米、お米、うるち米」の粥を食わせれば体温が下がるから避けるべきかといえばそうではない。「エネルギー」漢方で言う「気」「陽」を補うことで体温は上昇するわけで、「玄米、お米、うるち米」が補陽薬として分類されていないのとは別課題なのである。ましてや清熱剤とも分類されていない。杓子定規に「玄米、お米、うるち米は涼」とする根拠が見当たらない。米を食いすぎれば冷え性になり、餅を食いすぎれば体が熱くてたまらないということは無いのだ。麦飯は麦(涼)と飯(涼とすれば)だが、とろろ=山芋(平)をかけて食すれば体が冷えて困ることは無いのだ。

脱水、高体温、飢餓に陥り砂漠で行き倒れになっている人がいるとすれば、紅茶(温性)、緑茶、麦茶(涼性)、水(平)を問わず、まずは補陰の意味で水分を与え、日陰で涼ませ、一息ついたら消化のいい食べ物を温、涼を問わずエネルギー補給の目的で与えるわけである。棗(なつめ)は温、西瓜(すいか)は涼、米が涼?苦瓜は寒であるという薬性にかかわらずにである。当然餅粥でもいいわけだ。

逆に冬山で遭難して低体温になっている人に対しては、まずは保温し、ブランデーを飲ませ、気付けと共に体を温め、エネルギーを早急に与える。漢方用語で言えば補気、補陽である。次に暖かい飲み物、消化のいい食べ物を温涼にかかわらず与えるのである。最初から餅を食わせる馬鹿は当然いない。ブランデーが補陽剤として分類されていないのはすでに御存知であろう。

「凉性で白虎湯と合います」とは私にとっては鋭い指摘だったが、以上を以って、その「涼性」も、もち米の「温」にも納得できないものがあると返答する。平を意味するグリーンで表記した根拠である。

そもそも主食となる穀物は、温熱涼寒平で言えば平を中心とするものであり、秋刀魚は涼、マグロは温のような議論は無意味だと思う。生姜、シシトウ、唐辛子、ニンニクは温という議論は、副食物となり生薬となるから存在する。

それでも疑問をお持ちになるのであれば、上海中医薬科大学薬理学教室の「文」教授(中薬理学、方剤学教授)に質問をすればいいと思う。大変優しい女性教授である。

「ナゼ粳米(ジンミー)いれる、これ大切なことよ、オシリ コメ清熱作用ナイ、これ試験に出すよ、よく覚えるネ オシリ」と言われて私は覚えた。

頻繁に耳にする「オシリ」であったが、「お知り!」と激励の意味か、彼女が留学中に日本人か誰かに悪戯で吹き込まれた単なる「お尻」なのかいまだに意味不明である。私の「白虎湯」理論は文教授の教えである。

真面目な漢方の御質問には誠意を持ってお答えします。


日本の国際的な威信の低下に付け込む諸外国 5

2012-08-22 07:00:00 | 日韓併合 朝鮮独立運動 竹島

連合軍占領下での独立運動 連合軍の軍政に対し蜂起した南朝鮮人

朝鮮人は朝鮮人民共和国の建国が謳ったが、それを承認しない連合国は、武力進駐し、軍政が布かれ朝鮮は南北に分割統治された。連合軍占領下の朝鮮では日本統治時代と異なり、強制拠出や自然災害などによる疫病の流行と、物価高騰(インフレ)が続発し、194610月には230万人の朝鮮人が連合国に対して蜂起し、大邱10月事件が起き100名を超える犠牲者が出た。アメリカの支援を受けた李承晩による南北分離独立政策に反対する市民が蜂起し、武力鎮圧の結果、数万人が殺害された。

済州島四・三事件

(チェジュとうよんさん事件)は、194843日に始まる。在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島本土の右翼青年団などが1954921日までの期間に一連の島民虐殺事件を起こした。

島民の蜂起の思想的背景には南朝鮮労働党が関与しているとして、韓国政府側は政府軍と警察による粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。済州島の村々の70%が焼き尽くされた。この事件は麗水順天(ヨス・スンチョン)事件の背景

にもなった。

麗水順天(ヨス・スンチョン)事件

1948年1019日、全羅南道麗水郡に駐留していた国防警備隊第14連隊は、済州島で起きた済州島四・三事件鎮圧の命令を受けていた。しかし南朝鮮労働党を支持していた連隊将校らは命令に服さず、反乱蜂起した。反乱軍は抵抗する警察官のほか、李承晩派の韓民党員、右翼幹部など数十名を連行し殺害した。

反乱は全羅南道麗水郡から隣の順天郡にも拡大した。李承晩は直ちに鎮圧部隊を送り込み、1027日に事件を鎮圧した。反乱軍は北部の山中へ逃げ込み、長くゲリラ抵抗が続いた。事件では非武装の民間人8000名が殺害された。アメリカ軍機、韓国軍兵士、北朝鮮軍兵士、パルチザンにより殺害された。

この事件の混乱時期に日本へ不法入国して、在日韓国朝鮮人となるものがあった。

1945

92日に日本が連合国に対し戦艦ミズーリ上で、尹奉吉の爆弾テロである上海天長節爆弾事件で右脚を失った重光葵政府全権(外務大臣)が降伏文書にサインして、降伏文書調印式が終了すると、朝鮮半島は米軍とソ連軍により北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザンを称する金日成の北朝鮮労働党政権が、米ソの力を背景に基盤を固めた。1945910日、朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、まもなく、済州島人民委員会と改められた。194731日、済州市内で自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた。この事件を機に310日、抗議の全島ゼネストが行われた。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部の平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体である「西北青年団」を済州島に送り込み、白色テロルを主導した。

西北青年会は島民に対する弾圧を重ね、警察組織と協力して島民の反乱組織の壊滅を図ったが、南朝鮮労働党は、194843日、島民を中心とした武装蜂起を起こした。

済州島民の蜂起と韓国による鎮圧

1948

年に入ると、南朝鮮は北朝鮮抜きの単独選挙を行うことを決断した。島内では選挙を前に激しい左右両派の対立が生まれた。その中で、4月3日、単独選挙に反対する左派島民が武装蜂起した。警察と右派から12名、武装蜂起左派島民側からは2名の死者が出た。事件当初は交渉による平和的解決も模索された。 しかし、アメリカ軍の介入と西北青年団の妨害行動で交渉は決裂し、流血事態となった。蜂起は後の韓国軍である朝鮮国防警備隊や警察、西北青年団などの治安部隊によって短期間で鎮圧された。武装蜂起遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになっていった。 治安部隊は潜伏している遊撃隊員と同調する島民の処刑粛清を行った。処刑粛清は815日の大韓民国成立後も正式発足した韓国軍によって継続された。韓国軍は、村を襲うと若者達を連れ出して殺害し、少女達を連れ出しては、数週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に殺した。

1948

9月、金日成は朝鮮人民軍を創設し、続いて朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。1950年に南北朝鮮労働党が合同し、金日成の朝鮮民主主義人民共和国が韓国に侵攻し朝鮮戦争が始まった。 

韓国では朝鮮労働党党員狩りは熾烈さを極め、1954921日までに3万人が、1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。また、韓国本土で保導連盟事件(ポドヨンメンサコン)が起きると本土と同様にチュジュの刑務所で1200人が殺害された。海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている。

保導連盟事件

(ポドヨンメンサコン)

韓国では近年まで事件に触れることもタブー視

されており、「虐殺は共産主義者によっておこなわれた」としていた。1950625日の朝鮮戦争が勃発し、李承晩大統領の命令によって軍や警察が共産主義からの転向者、その家族を再教育するために設けられた統制組織である「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人など、少なくとも20万人あまりを大量虐殺した事件である。虐殺された人数は近年の韓国での研究で60万人から120万人に上るとされた。李承晩大統領の失脚直後、全国血虐殺者遺族会が、遺族たちの申告をもとに報告書を作成し、その報告書によれば虐殺された人数は114万人である。韓国政府の「真実和解のための過去史整理委員会」は朝鮮戦争の初期に韓国政府は子供を含む少なくとも10万人以上の人々を殺害し、排水溝や炭鉱や海に遺棄したことを確認した。アメリカ軍の公開機密書類にはアメリカ軍将校の立会いと虐殺の承認などが詳細に記録されている。ワシントンは虐殺の写真が半世紀の間隠蔽し続けた。虐殺の事実はアメリカ軍司令官のマッカーサーにも報告されていたが止めようとした形跡は発見されていない。

済州島は歴史的に流刑地

だった。朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。現代のオーバーステイ、不法滞在である。韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身である。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日朝鮮人となった人々も多い。日本へ逃れた島民の一部は大阪にコミュニティーを建設した。済州島では事件前(1948年)に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる。

長年「反共」を国是に掲げてきた韓国では、責任の追及が公的になされていない。また、事件を語ることがタブー視されてきたため、事件の詳細はまだまだ未解明である。

21世紀になって、韓国大統領となった盧武鉉(ノムヒョン)は、自国の歴史清算事業を進め、200310月に行われた事件に関する島民との懇談会で初めて謝罪した。また、済州四・三事件真相糾明及び犠牲者名誉回復委員会を設置した。さらに2006年同日の慰霊祭に大統領として初めて出席し、島民に対して正式に謝罪するとともに、事件の真相解明を宣言した。しかし2年後、盧武鉉は2008年2月に自殺した。

事件から逃れて日本に密航した済州島出身の在日朝鮮人は、その恐ろしい体験から「再び酷い目にあわされるのではないか」と祖国へ数十年も訪れることのない人々も多かった。韓国政府が反省の態度を示し始めたことで、60年ぶりに祖国を訪れる決心をした人物も現れ始めている。

新潟在住のころ、行きつけのコリアンバーで、女性たちと踊り、歌ったのが

済州(チェジュ) エアポート」である。単なる歌謡曲と言ってしまえばそれまでだが、

 

You Tube http://www.youtube.com/watch?v=MqtQSs7KEQE

歌詞中「 はるか東に飛び立つ影よ の 東 」とはもちろん日本である。

日本人観光客向けの歌であろうが、、  しかし

想像を膨らませ、在日済州島出身の祖父母、子供、孫たちが(結婚した日本人も連れて)自分のルーツの済州島を訪れて、知人や愛人との別れを惜しむ歌でもあるとすれば、「日韓の歴史を感じつつ」酒が飲めるのである。

1  

済州島で虐殺された住民の御遺体を対馬の日本人が浜から引き上げ、篤く供養した後に、寺に安置した。海流は済州島から対馬へ向かう。対馬海流を「済州海流に改めよ」などとは言い出さないであろうが、、。

八月十六日 記