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2012-10-27 00:15:00

2012-10-27 00:15:00 | インポート

Marilyn_monroe_calmness

Marilyn Monroe Calmness  Dr. Kojin Sezuki original

「怖いもの」見たさ、「見たくもない」物見遊山

日曜の午後、ふとTVの電源を入れたら「そこまで言って委員会」が流れている。

お茶を飲みながら15分ほど眺めた。「ああ、また見たくもないお人が出ている。でも、好対照で他が引き立つから、まあいいだろう」と、つい30ほど見てしまった。田嶋ヨウコ女子、そう前歯を突き出して話しなさんなよ。いつも嫌になる。下の吼えてばかりの犬の犬歯を連想させる。 池田信夫が出てきた。「従軍慰安婦強制連行はやっぱり嘘」だったか、やっぱりというくらいなら、他のことすべきでしょうに、と感じる。もとNHKの職員、東大卒ぐらいしか知らなかったが、ブロガーでは知られている存在だ。なかなかだなと思ったのは、「ノンワーキング・リッチ」なる新語や、「大麻は毒性も依存性も、タバコや酒より低い」の類、しかし、「自分でやったら の話」ならわかるが、である。「地球温暖化懐疑論」、「世界でいちばんリスクが高い通貨は円」になると、やはり三文学者の域を出ていない。「原発はどんどん稼働していくべきで、稼働してはいけないという法律根拠」になると「賛同のウケ狙い」の裏を行く「反発のウケねらい」の「チンケ」さえも感じてくる。腹が据わっていれば、もう少し、前額部から飛び出るような発声を止めて、静かに話して欲しい。いつ頃だったか、テレビ局のレポーターの甲高い、裏声的脳天からの発声がマスコミでは当たり前になってしまったのかと嘆く。浮ついて、日銭を稼ぐ感じが否めない。田嶋氏にしても、それがウリなら仕方ないが、落ち着いて話をして欲しい。吼える犬のようでは下の落ち着きのない犬と大差ない。勝谷氏にしても、身を斜めに乗り出すとは何たる無作法であろうか。自重して欲しい。

No more noise but composure/calmness

本日の漢方市民講座 中医診断学入門No

(2)

顔色 常色は先天的な一生変化しない主色dominant complexionと環境によって変化する客色varied complexionに大別される 

色は血に属し陰に属す、光澤は気に属し陽に属す。

病色morbid complexion 五色主病 diseases indicated by the five kinds of colour

bluish complexion:①寒、②痛、③blood stasis syndrome④驚風convulsive syndrome ⑤木乗土  

④驚風(子供のチック、ひきつけ 舌が青いことが多い)

 特に慢驚風(夜泣き、落ち着かない、食欲不振 脾胃虚弱)に見られる

   急驚風(脳炎、破傷風など)のひきつけ時には青は見られない

血の原因:①肝の疎泄作用の低下、②心の血脈を司る機能の低下

③肺の百脈を司る機能の低下、④脾の陽虚、腎の陽虚(少ない)など

治療は活血化

red colour血流(血行)と色素が関与

原因:殆どが熱症(血得熱即行速) 一部が寒症

熱症が原因: 実熱(熱邪侵入)症状: 顔面通紅、高熱、口渇、便秘

                                     Flushed face

         虚熱(陰虚内熱)症状: 両頬潮紅、午後低熱、盗汗  

                                         Flushed and delicate cheeks

  寒症が原因:弱まった陽が浮上してくる。虚陽浮越という。

假熱、戴陽などがその例

yellow:原因:①湿症と②脾気虚

黄色    原因分類: 

湿熱〔肝胆湿熱―陽黄(鮮やかなオレンジ色)〕

寒湿――――――陰黄(スモーカーの指先の色)

湿症――――――湿困脾胃(脾失健運)の時 「萎黄

上焦、下焦の湿証では黄は出現しない


益胃湯と昇陽益胃湯 (1)

2009-05-21 18:33:12 | インポート

似たような名称であるが効能はまったく異なる。

出典と組成

昇陽益胃湯(脾胃論)李東垣(11801251)

組成:黄蓍 人参 半夏 炙甘草 羌活 独活 防風 白芍 茯苓 澤瀉 柴胡 黄連 生姜 大棗

中国時代区分では金元時代である。下ること約600年後の清代になり、益胃湯が現れる。

益胃湯(温病条弁)呉鞠通198年)

組成 沙参 麦門冬 生地黄 玉竹 氷砂糖

赤は温薬、青は涼寒薬、緑は平薬である。

黄色とブルーの意味

李東垣を黄で表記したのは後世、脾胃論に代表される補土派であり、五行学説で脾胃は中焦、色は黄であるからである。

呉鞠通を薄いブルーで表記したのは、養陰生津剤が多くは涼寒の性質を持ち、彼が温病(熱病)の治療において、清熱解毒、養陰生津を重んじたからである。

同じ益胃湯と命名されているが、違いを判断する上で、中国医学の発展の推移がまず参考になる。歴史的に古い順から簡略に述べるが、

中国医学史簡記

漢代における張仲景(130?~219)は、先人の経験と自分の臨床体験を結びつけて「傷寒雑病論」(秦代の後の後漢時代の傷寒論、金匱要略を指す)を著した。一部(傷寒論)は六経をもって総括され、熱病の専門篇である外感熱病として認識される。金匱要略は、臓腑病機を総括され、内傷雑病を認識し、方法、処方、薬物を含む、辨証論治の理論体系を創造的に確立しつつ、中医内科学の基礎となった。現在話題の映画「レッドクリフ」赤壁の戦いが208年であったから、当時張仲景は存命していたことになる。

晋朝時代の王叔和は後漢霊帝の光和3年(AD180)から西晋泰始6年(AD270)頃まで在世したが、張仲景の『傷寒雑病論』が仲景の死後、わずか10年で戦乱のために散逸したことに心を痛め、叔和はよくこれを収集して、編集復刻した。叔和が著わした「脈経」(脈診の手段、脈の分類、臨床的定義などがほぼ完全に述べられている。「脈経」には歴代の医書がほとんど引用されており、内科の診断においてきわめて大きな影響を与えた。同時代の葛洪の著わした「肘後備急方」には、簡単で有効な薬について多くの記載がされている。例えば病(甲状腺疾患)の治療には、海藻、昆布を用いることが述べられており、これらの方法はヨーロッパに比べて、千数百年も早い。

隋代(581618 都は長安 現代の西安市)の巣元方の「諸病源候論」は、中医の病理専門の本であり、その中では、内科疾病の記載が大半である。巣元方は煬帝に上奏して『諸病源候論』を作ることを提案し、勅命によってその計画が実行され5年後の610年に完成した。しかし刊行を目前にしながら、随は唐に亡ぼされた。原稿が発見されたのは、唐代の玄宗の頃で、『外台秘要』の中で、『諸病源候論』が引用されている。

宋代に至って、その価値が改めて見直され、はじめて単独で印刷出版された。『諸病源候論』は、病因諸侯学をまとめた書物としては、初めての著作であり、急性伝染病から各種内科疾患、外科、皮膚科、婦人科、小児科、眼科、耳鼻科等々、当時の病気という病気の総まとめの、しかもその原因にも言及している。外科には、刃物で断たれた腸を縫合するような記述もある。

唐代の「千金方」「外台秘要」の両冊には、内科の治療方法が更に豊富に書かれている。北宋時代の「太平聖惠方」「聖済総録」は、国家が頒布した内科書である。南宋時代の「三因極一病証方論」は、病因をさらに一歩明らかにしたものである。

金元時代には、内科学術方面において多くの独特のすぐれた点があった。例えば劉完素は、火熱に対しては寒涼の方法を提唱した。劉完素は『素問』中の運気学説を熱心に研究し、風・湿・燥・寒などの邪気も火と化して病となることを説き、「六気は皆火に従いて化す」と結論づけた。この「火熱」に対して、治療としては寒涼の薬をたくさん用いたので、後世「寒涼派」と呼ばれる。金元四大家の一人である。「防風通聖散」は彼の創方による。張従正は治療における攻邪の方法として、汗法、吐法、下法の三法説いた。「攻邪派」の代表である。劉完素の後を継いだ金元四大家の一人李東垣は、内傷について脾胃を重んじて論じた。補中益気湯、生脈散は李東垣の創方による。李東垣は張元素に師事した。東垣は泰和2年(1202)に済源へ赴任。その四月に流行した疫病に特効のあった創方を、普済消毒飲子と命名している。 東垣の著作と伝えられる書はすこぶる多い。しかし東垣の生前に著作が刊行された記録はなく、いずれも没後に世に現われたものである。脾胃を重要視した補土派の先駆者である。朱丹渓は「陽は常に余り、陰は常に不足している」との説をたて養陰を主な治療法とした。後の中国医学界に滋陰降火という考え方を残し、滋陰派と呼ばれる。朱丹渓は前三家と併せて、金元四大家といわれ、また金元医学の集大成者ともいわれる。その著作は、金四大家のなかで最も多く、二十数種を数え、その代表が『格致余論』『局方発揮』『丹渓心法』などである。後世に大きな影響を与えたのはもちろん、日本では「丹渓学社」がつくられた。

彼らは、各方面にわたって新しい知識を打ち立て、中医内科学に対して豊富な理論と実践の経験を提供し、多いなる貢献をした。

明代において薛己の「内科摘要」と、王綸の「明医雑著」が有名である。後者の中に、外感法は張仲景、内傷法は李東垣、熱病には劉完素の方法と雑病には朱丹渓の方法を用いるとある。これは、その当時の内科学術思想の一つのよい総括であった。また、王肯堂の「証治準繩」、張介賓の「景岳全書」、秦景明の「症因脈治」等の著作は、内科における多くの病証について深く認識させ、とりわけ「景岳全書」は、更に独自の見解をもち、内科の辨証論治に対して重要な貢献をして来た。

清代における中医内科の特筆すべきことは、温病学説の発展である。例えば葉天士、薛生白、呉鞠通、王孟英等は温病学に対して大いなる貢献した代表人物である。彼らの著述は中医内科学上において、新しきページをひらいたのである。清代叢書の編集は、更に豊富になり、内科を主体とする書籍は、「図書集成医部全録」「医宗金鑑」「張氏医通」「沈氏尊生書」などがあり、その他簡結に短く実用的な「証治匯補」「医学心悟」「類書治裁」「医学実在易」「医林改錯」等がある。これらは、中医内科学の発展に大きく起与している。

益胃湯(温病条弁)呉鞠通1