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砂川元君を偲ぶ

2012-08-17 07:00:00 | ブログ

終戦記念日はいつ?沖縄に想う。

三十代前半に沖縄に2年間居た。普天間を左に見て、那覇空港から<msnctyst w:st="on" addresslist="47:沖縄県那覇市;" address="那覇市">

那覇市

</msnctyst>中心部に入る泉崎に勤務していたことがある。当時の心境は、大学病院での勤務も、研究生活にも行き詰まり、家庭内のいざこざもあり、何もかも嫌になって、知人の砂川元氏を頼って、沖縄に逃亡したのが本当のところである。まだ首里城も北部への高速道路も、ましてやモノレールも無い沖縄だった。

砂川氏は新潟大学医学部学生時代の親友である。沖縄が本土復帰する前からの友人だった。<msnctyst w:st="on" addresslist="47:沖縄県那覇市;" address="那覇市">

那覇市

</msnctyst>上原(うえばる)出身で鏡原町の小禄(おろく)高等学校出で本土留学生に選抜された秀才だ。当時の同級生は彼をやや低評価していたふしがあったが、私は彼の秀才振りがよく感じ取れた。不思議なことに、授業をサボってパチンコに行くと、必ずと言っていいくらい砂川氏に遭遇した。飲み屋のトイレで「今日の支払いはどうしよう」と迷っていると、いつの間にか、彼も隣に立っていた。ウマが合ったのである。彼の下宿に行くと、ジョニ赤や豚肉の味噌漬け、コーンビーフなど「康仁よく来たな」と笑顔で迎えてくれて御馳走してくれた。琉球大学卒のけい子夫人と家庭を持つようになってからは、南風原(はえばる)市に新居をかまえた。

私が沖縄に住むようになってからは、宮古島出身のお父様、砂川氏、私の3人で<msnctyst w:st="on" addresslist="47:沖縄県糸満市;" address="糸満市">

糸満市

</msnctyst>の金城(きんじょう)さんが操船する釣り船でよく沖釣りに行った。氏は婦人科医であり、氏の紹介患者の産後のショック性急性腎不全の救急搬送症例を救命したこともあり、親交はさらに深まった。その後、私が沖縄を離れ、阪急武庫之荘に住み始めたころ、お父様が夜のリーフ(さんご礁)に釣りの最中に、おそらくは脳卒中で倒れ、亡くなられたとの連絡があった。「シュジュキ先生にまた勝ってしまったァ」と私との碁の対局後に相好を崩すお父様であった。盆に供養しに沖縄まで飛んだ。

ところが、当の砂川氏は10年前に大腸がんで亡くなられた。亡くなる数ヶ月前砂川氏から電話があった。虫の知らせだったのか「康仁 お前が俺のたった一人の友達なんだ」と泣いていた。その前年だったか?新潟阿賀野川のほとりの宿に招待し。氏と一緒に夏の花火を楽しんだ。沖縄の味、風景などを、「連想のスピードでは文章は打てない」のが残念だ。氏と一緒に<msnctyst w:st="on" addresslist="47:沖縄県糸満市;" address="糸満市">

糸満市

</msnctyst>沖合いの海上で皆既日食も経験した。嘉手納カーニバルという基地の「一時的な住民への開放」の期間がある。基地内のスーパーなどで免税品の大きなコーンビーフや高級ウイスキーが手に入った。<msnctyst w:st="on" addresslist="47:沖縄県沖縄市;" address="沖縄市">

沖縄市

</msnctyst>のバーでは良く飲んだが、ベトナムへ行きで帰還できなかったUSマリーンソールジャーのメモが無造作にチップの1ドル札と一緒にコルク板にピン止めされていた。砂川氏の持ち歌は「加藤隼戦闘隊」であった。「それをアメ公のバーで歌うか」と私はよく言ったものだ。マージャンに強く、婦女子には優しく、酒にはめっぽう強い「男のなかの男」であった。「康仁 こんな熱帯魚みたいな魚食えるか?」エッヘ
ーと笑った。

どっこい グルクン タマン アカマチ ミーバイ アバサー イラブチャー エーグァ 何もかもが好きになった。

私は、米軍の艦砲射撃の下をかいくぐり乳飲み子を抱えて逃げまわったという知念○○さんを診て、看取ったこともある。宮古島出身で、戦後の沖縄で教師を勤めて教え子を多く輩出した○○さんの卵巣がんによる腎不全を看取ったこともある。

当時、ベトナムからはすでに米軍は撤退していたころである。赤線地帯も含め、沖縄のほぼすべてを私に見せてくれたのが砂川氏である。

米軍基地上空には、B52爆撃機とF4ファントム戦闘機が飛んでいた。

40代になってタイに遊ぶようになったが、バーで「ビーフィフティツー(B52)」とよく叫んだ。カルアミルク味でアルコール度数の高いカクテルで数杯飲むうちに泥酔した。金も盗られずに宿泊のホテルまで何人かのホステスが運んでくれた。ナコンサワンというバンコクからバスで3時間は離れている田舎の農場で、連日、ココナツミルクを削り絞った事もある。そこのオバアチャンはタイ語で「カヤンチャン!」(勤勉!)と驚いていた。疲れはて、農場の中の薄暗く涼しい庭で寝ていたら「そこはコブラが出るから、コブラを驚かせないでね」とその農場の娘に注意され青くなったこともある。なにも無い田舎であった。タイ語で「アライコマイミー」である。ともかく先の戦争で、タイに進駐した旧日本軍の兵隊さんは礼儀尾正しく、その行進は「美しかった」とは農場の主のオバアチャンの思い出だった。タイでは嫌な思い出は皆無である。

ソウルでは金をせびられ、上海では飲んでいるビールグラスに「小鬼日本」とののしられ、タバコの吸殻を投げ込まれたり、マニラでは両替をたびたび誤魔化されたり、旧米軍基地の近くでは、ポリス(警官)ぐるみの詐欺にあいそうになったりしたとは好対照を成す。

釣りに行った<msnctyst w:st="on" addresslist="47:沖縄県糸満市;" address="糸満市">

糸満市

</msnctyst>の摩文仁(まぶに)の丘とその周囲は平和祈念公園がある。広場には国の内外、軍民間を問わず沖縄戦で亡くなった人々の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」と名づけられた記念碑が屏風を並べたように建っている。

沖縄の終戦記念日は623日か? 72日?あるいは97日か?

牛島司令官が自決し、日本軍の組織的戦闘が終わったとされる6月23日を慰霊の日とし、日本の降伏調印にともなって、沖縄本島を含む南西諸島の日本軍代表3人が、越来(ゴエク)村森根(現<msnctyst w:st="on" addresslist="47:沖縄県沖縄市;" address="沖縄市">

沖縄市

</msnctyst>)で、降伏文書に調印したのが1945年9月7日である。この日を沖縄戦終結の日とすべきという人もいる。沖縄戦を時系列で要略すれば以下のようになる。

昭和二十年(1945)四月一日、米軍の嘉手納海岸への上陸によって始まった沖縄の地上戦も五月中旬には、日本守備隊第三十二軍が司令部を置く首里近郊にまで米軍が迫ってきた。 第三十二軍司令部では本土決戦の時間稼ぎのためにも首里で玉砕せず、戦線を後退させてでも戦闘を続行すべきとして、南部(喜屋武(きやん)半島)後退の方針を固めた。五月二十二日、この日から数日の間に各部隊は首里戦線を放棄して南へと向かった。米軍の無血上陸から首里攻防に至るまでの作戦域は当初から日本軍が想定していたが、沖縄南部地域の住民の避難は進んでいなかった。軍の後退とともに住民もその後を追って避難をはじめたが、多くの老幼婦女子がその途中で米軍の砲爆撃で悲惨な死を遂げた。六月一日未明、軍司令部は摩文仁の丘の洞窟に設けられた戦闘司令部に到着した。後退の途中、米軍の砲撃や梅雨の合間に飛来する米軍機による攻撃で犠牲となった住民の遺体は「野ざらし」となった。当初、約十万の兵力であった第三十二軍もこの頃には三万に減っていた。しかもその半数は軍人でない臨時召集の県民であった。十七日になると八重瀬岳と与座岳の戦線が米軍によって突破され、摩文仁の丘近くにまで米軍が迫ってきた。十八日、牛島軍司令官は、彼我混戦の状況下においては各部隊の把握及び指揮連絡は困難であると判断し、軍としての最後の命令を下した。「自今諸氏は、各々その陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ」である。大本営に向けて決別の電報が打たれた。二十一日、ついに摩文仁の丘前面に米軍の戦車が迫った。二門の高射砲の水平射撃によって数輌の戦車を破壊したが、反撃の集中砲火を浴びて全滅してした。あとは爆雷を抱いての肉弾攻撃の連続であった。二十二日には、喜屋武岬方面で第六十二師団長以下師団隷下の将軍らが自決、半島中部の真壁付近に孤立した第二十四師団の師団長以下全軍が敵陣に斬り込み突撃を敢行全員戦死した。二十二日は摩文仁の丘司令部洞窟周辺に米兵が迫り、米軍は丘の山頂部も制圧した。二十三日夜明け時、海側の岩場で牛島中と長参謀長は割腹自決した。米軍による掃討作戦は続き、七月二日に以って米軍は琉球作戦の終了を宣言した。

四月七日 戦艦大和の最後をもって大日本帝国海軍は米軍によって滅亡させられた。沖縄地上戦で、牛島司令官が自決し、日本軍の組織的戦闘が終わったとされる6月23日を慰霊の日として沖縄での終戦記念日とする向きもある。しかし、その6月23日では、各地や離島で、山やガマ(さんご礁が形成した石灰岩の洞窟)に潜み、抵抗を続ける日本軍と住民の存在があった。だから、8月6日の米軍の広島原爆攻撃(私は投下とは言わない。虐殺目的の攻撃であった。)、3日後の8月9日の長崎原爆攻撃、そして8月15日の天皇の玉音放送と終戦の事実も知らないままだった。捕虜になった住民は、各地の収容所で日本軍の降伏を通訳から聞かされた。南城市玉城糸数(タマグスクイトカズ)のアブチラガマでは、避難住民百余人と傷病兵7人が米兵の呼び掛けでガマを出たのが8月22日だった。このガマでも日本軍の住民虐殺事件が起きている。久米島では、島に配属された海軍通信隊が住民をスパイ視して殺害する事件が相次いだ。8月15日以降も、住民に投降を呼びかけた仲村渠(ナカンダカリ)明勇さんと妻、子どもの3人が浜辺の小屋で刺殺され放火された。日本政府の無条件降伏である8月15日の終戦記念日は、沖縄には、米軍の横暴な占領と支配のスタートを意味する。終戦記念日とされる815日には菊水作戦の最高指揮官であった、第五航空艦隊司令長官 宇垣纏中将が、玉音放送終了後の夕刻、大分基地から艦上爆撃機・彗星43型に搭乗し、列機10機を率いて沖縄近海の米軍艦隊に突入、戦死している。また、819日には、満州に展開していた練成飛行隊の一部の操縦者が自発的に編成した「神州不滅特別攻撃隊」が、ソビエト軍の機甲部隊に突入し自爆した。その八月十九日は私の誕生日でもある。

9月7日の降伏文書調印によって、沖縄、奄美は日本本土から分離されて、米軍の直接統治のもとに置かれた。<msnctyst w:st="on" addresslist="47:沖縄県宜野湾市;" address="宜野湾市">

宜野湾市

</msnctyst>の普天間飛行場は、占領下で建設が進められた。米兵のよる女性への暴行も、沖縄戦の初期のころから多発している。8月には、<msnctyst w:st="on" addresslist="47:玉城村;" address="玉城村">

玉城村

</msnctyst>や金武村などで、家族と食料を探していた女性が複数の米兵に山中に連れ込まれ暴行される事件が起きた。

沖縄に居たころ、離島に遊んだことがある。島の翁の話では海岸には多数の白骨化した頭蓋骨があったという。その中に小さなヤドカリを潰して入れて砂浜に埋めておくと、食い物なる立派なカニやエビが捕れたとのことである。

大田司令官、最後の電文。発 沖根 昭和20612

一、朝来、敵戦車および歩兵、当司令部壕外にいしゅうし(集まり)、煙弾を打ち込みあり
二、我方、およそ刀をもって戦いうる者は、いずれも敵に当たり、然らざる者は自決しあり
三、74高地2か月余りの奮闘も、本日をもって終止符を打つものと認む
発 沖根 昭和20612日 1619
これにて通信連絡を絶つ

大田司令官の三女、愛子さんの歌
身はたとへ沖縄の野辺に朽ちるとも祖国守ると父は逝きにし


軍と一緒にいても離れていても被害がある。満州の開拓民も同じだったか?

玉砕を覚悟した大田實 海軍少将(日本海軍沖縄方面根拠地隊司令官)が、昭和2066日に海軍次官に宛てた電文分を載せる。不明な箇所は□です。当時の沖縄県民の苦難が目に浮かぶ。 大田司令官の人柄もうかがい知ることが出来る。

沖縄県民斯く戦えり

発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官

左の電文を次官に御通報方取り計らいを得たし

沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる。

沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面、防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど顧みるに暇(いとま)なかりき。
然れども、本職の知れる範囲に於いては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅かに身を以って軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、尚、砲爆撃下□□□風雨に曝されつつ、乏しき生活に甘んじありたり。
しかも若き婦人は、率先軍に身を捧げ、看護婦ぼう炊婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊すら申し出る者あり。

所詮、敵来たりなば、老人子供は殺されるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生き別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。
看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵既に出発し、身寄り無き重傷者を助けて□□、真面目にして、一時の感情に駆られたるものとは思われず。さらに、軍に於いて作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。

これを要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられつつ(一部はとかくの悪評なきにしもあらざるも)ひたすら日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ、遂に□□□□与え□ことなくして、本戦闘の末期と沖縄島は実情形□□□□□□

一木一草焦土と化せん。糧食6月一杯を支うるのみなりという。沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。

私はシベリヤ抑留後生還し60歳で逝った父より約1年長く生き延びている。

盆に燗酒を傾けつつ、砂川元(はじめ)氏を偲ぶ。

今日も漢方市民講座をお休みにさせていただきました。

小林秀雄だったか?

「人は上手に思い出すことが必要だ」の文章があったような気がする。

野坂昭如だったか?

「人は二度死ぬ」である。本人の死と、その記憶を留めている人間の消滅である。

「砂川君 君はまだ死んでいないよ。」遠く離れた神戸の僕ですら、君の記憶を留めているから。