主の血潮は、贖いのため、すなわち、我々が神の御前に立たなければならない時に必要だ。
(最後の審判の日にではなく、今この瞬間瞬間だ。今この瞬間瞬間、主の前に立ち続けている)
犯し続けている罪々に対する赦しのため。
今この瞬間瞬間主の前に立ち続けているなら、今この時の我々の罪々はすでに赦されてしまっている。
神が犯し続けてきた罪々を見逃したからではない。
主の血潮を見て過ぎ越したのだ。
見逃したのではない、過ぎ越したのだ。
主の血潮は、我々のためではなく、神のために流された。
主の血潮がどれほどに貴重か、今はおぼろげながらにしか分からない。
新約及び旧約聖書問わず、血は「贖い」と深く関連している。