エペソ書にあるように、主イエスの死に関する一つの側面が分かった。
これほどクリアに示している箇所は他には見当たらない。
ローマ書では堕落した人間という観点から論じられている。
キリストは、罪人、敵対する者、神を恐れない者のために死んだ(ロ-マ5章)。
我々はゆっくりと、しかし確実に「キリストの愛」へと導かれていく(ローマ8:35)。
他方、エペソ書では「世が創造される前から」神の愛があったと論ずる(エペソ1:4)。
そして、福音の核心とは「キリストが・・・愛した」そして「キリストは主にある教会のためにご自身を捧げた」(エペソ5:25)とある通りだ。
かくして、ローマ書においては「我々は罪を犯した」とあり、次に、罪人に対する神の愛を宣べ伝える(ローマ5:8)。
一方、エペソ書には「キリストは愛した」とある。
その愛は妻に対する夫の愛と全く同じもの。
そのような愛が、罪やその類のものとは全く無関係であるということは言うまでもない。
エペソ書に書いてあることは罪に対する贖いではない。
主にある教会の創造だ。
その目的を達成するために「ご自身を捧げた」とある通りだ。
これほどクリアに示している箇所は他には見当たらない。
ローマ書では堕落した人間という観点から論じられている。
キリストは、罪人、敵対する者、神を恐れない者のために死んだ(ロ-マ5章)。
我々はゆっくりと、しかし確実に「キリストの愛」へと導かれていく(ローマ8:35)。
他方、エペソ書では「世が創造される前から」神の愛があったと論ずる(エペソ1:4)。
そして、福音の核心とは「キリストが・・・愛した」そして「キリストは主にある教会のためにご自身を捧げた」(エペソ5:25)とある通りだ。
かくして、ローマ書においては「我々は罪を犯した」とあり、次に、罪人に対する神の愛を宣べ伝える(ローマ5:8)。
一方、エペソ書には「キリストは愛した」とある。
その愛は妻に対する夫の愛と全く同じもの。
そのような愛が、罪やその類のものとは全く無関係であるということは言うまでもない。
エペソ書に書いてあることは罪に対する贖いではない。
主にある教会の創造だ。
その目的を達成するために「ご自身を捧げた」とある通りだ。