第4戒
安息日と仕事
p146~
The Sabbath and Work
The Fourth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony
◇◇
安息日と仕事の関係は、万物を神との関係の中に入れ、神への献身の中に組み込むこと。
何物も神と無関係になることはできないし、また、無関係であると考えることもできない。
契約の人だけではなく、彼のすべての仕事もある意味で割礼または洗礼を受けて御国に入るべき。
初物を捧げる習慣は、このことを表していた。
しかし、他の律法はこの点をさらに明らかにしている。
レビ記19:23~25
あなたがたが、かの地にはいって、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなさなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。四年目にはその実はすべて聖となり、主への賛美のささげ物となる。五年目には、あなたがたはその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、主である。
この律法は明らかに、土壌保全・樹木の多産・すべての被造物の生命に対する敬意というテーマで以前論じた際に取り上げた律法と関係している。
ギンスバーグはこの面についてすばらしい解説を行った。
食用ではない実を結び、ひとりでに育ち、垣や材木として植樹される木は、この律法の対象に含まれなかった。
その実は無割礼のものと見なさなければならない。
文字通り訳せば、無割礼、つまり、その実を割礼しなければならないとなる。
すなわち、テキストそのものが「その実」であると説明している無割礼を切り離せ、ということ。
割礼の暗喩的な利用法がテキストそのものによって説明されている。
テキストの中において、その実は資格のない、不適切なものとして描かれている。
レビ記26:41において、神の訓戒に耳を傾けるまでに成長していない頑固な心に対して同じ暗喩が使用されている。
聖書の他の個所では、その本来の役割を果たさない唇(出エジプト記6:12、30)と耳(エレミヤ6:10)に関連して使用されている。
最初の3年間、実は刈り取ってはならず、地面の上で自然に腐らせておかなければならなかった。
第4年目に、その値に5分の1を上乗せした値を払うことによって、主から贖われた実(この実は神のものだったので)を食べることができた。
5年目になってやっと実を収穫することができた。
その後5年間、もしくは、次の安息年まで同じように収穫が可能であった。
コメント:
ディスペンセーション主義によって導き出される誤謬;
#1.紀元70年に経綸が変わったという理解に乏しいので、パレスチナ及びアブラハムへの約束の地であるナイル河からユーフラテス河までの土地を武力と計略で奪還しようとする今のイスラエルを非難しない。
#2.旧約聖書がすべてキリストによって成就したという理解もないので、旧約の預言で現代の政治状況を解説する。
#3.初臨のキリストにやり残したことがあったと考えるので、再臨のキリストにその成就をゆだねる。
等々。
安息日と仕事
p146~
The Sabbath and Work
The Fourth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony
◇◇
安息日と仕事の関係は、万物を神との関係の中に入れ、神への献身の中に組み込むこと。
何物も神と無関係になることはできないし、また、無関係であると考えることもできない。
契約の人だけではなく、彼のすべての仕事もある意味で割礼または洗礼を受けて御国に入るべき。
初物を捧げる習慣は、このことを表していた。
しかし、他の律法はこの点をさらに明らかにしている。
レビ記19:23~25
あなたがたが、かの地にはいって、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなさなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。四年目にはその実はすべて聖となり、主への賛美のささげ物となる。五年目には、あなたがたはその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、主である。
この律法は明らかに、土壌保全・樹木の多産・すべての被造物の生命に対する敬意というテーマで以前論じた際に取り上げた律法と関係している。
ギンスバーグはこの面についてすばらしい解説を行った。
食用ではない実を結び、ひとりでに育ち、垣や材木として植樹される木は、この律法の対象に含まれなかった。
その実は無割礼のものと見なさなければならない。
文字通り訳せば、無割礼、つまり、その実を割礼しなければならないとなる。
すなわち、テキストそのものが「その実」であると説明している無割礼を切り離せ、ということ。
割礼の暗喩的な利用法がテキストそのものによって説明されている。
テキストの中において、その実は資格のない、不適切なものとして描かれている。
レビ記26:41において、神の訓戒に耳を傾けるまでに成長していない頑固な心に対して同じ暗喩が使用されている。
聖書の他の個所では、その本来の役割を果たさない唇(出エジプト記6:12、30)と耳(エレミヤ6:10)に関連して使用されている。
最初の3年間、実は刈り取ってはならず、地面の上で自然に腐らせておかなければならなかった。
第4年目に、その値に5分の1を上乗せした値を払うことによって、主から贖われた実(この実は神のものだったので)を食べることができた。
5年目になってやっと実を収穫することができた。
その後5年間、もしくは、次の安息年まで同じように収穫が可能であった。
コメント:
ディスペンセーション主義によって導き出される誤謬;
#1.紀元70年に経綸が変わったという理解に乏しいので、パレスチナ及びアブラハムへの約束の地であるナイル河からユーフラテス河までの土地を武力と計略で奪還しようとする今のイスラエルを非難しない。
#2.旧約聖書がすべてキリストによって成就したという理解もないので、旧約の預言で現代の政治状況を解説する。
#3.初臨のキリストにやり残したことがあったと考えるので、再臨のキリストにその成就をゆだねる。
等々。