神は私の素性を知っている。
頭から足の先まで罪にまみれていることを知っている。
私が肉の弱みであることを知っている。
そして、何もできないことを知っている。
問題は、私がそれを知らないところにある。
全ての者は罪人であること、故に私も罪人であることを認める。
しかし、私は他の者たちとは違い、全く希望のない罪人ではないと思っている。
そこで主は、我々が実はひどく弱くて希望のない存在であることを知るための場所へと導く。
我々は、そうでもしないとそれを信じない。
その事実を我々に確信させるために、神はあることをする必要がある。
もし律法がなかったなら、我々は自分が如何に弱いかを知らなかったであろう。
パウロはこの結論に達した。
このことを明らかにするため、ローマ書7:7において次のように言う。
「律法による以外に、私は罪を知らなかった。律法に、汝は貪らないであろう、と書いていなかったら、私は貪ることを知らなかった」
律法の他の戒めについての経験は何であれ、それは十番目の戒めであった。
文字通り訳出すると、「汝は貪ることを望まないであろう」
このことばがパウロを捉えてしまった。
自分自身の全的敗北と無能が彼の顔面を睨み付けた。
頭から足の先まで罪にまみれていることを知っている。
私が肉の弱みであることを知っている。
そして、何もできないことを知っている。
問題は、私がそれを知らないところにある。
全ての者は罪人であること、故に私も罪人であることを認める。
しかし、私は他の者たちとは違い、全く希望のない罪人ではないと思っている。
そこで主は、我々が実はひどく弱くて希望のない存在であることを知るための場所へと導く。
我々は、そうでもしないとそれを信じない。
その事実を我々に確信させるために、神はあることをする必要がある。
もし律法がなかったなら、我々は自分が如何に弱いかを知らなかったであろう。
パウロはこの結論に達した。
このことを明らかにするため、ローマ書7:7において次のように言う。
「律法による以外に、私は罪を知らなかった。律法に、汝は貪らないであろう、と書いていなかったら、私は貪ることを知らなかった」
律法の他の戒めについての経験は何であれ、それは十番目の戒めであった。
文字通り訳出すると、「汝は貪ることを望まないであろう」
このことばがパウロを捉えてしまった。
自分自身の全的敗北と無能が彼の顔面を睨み付けた。