小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

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守、破、離

2008-11-24 21:37:23 | 武道・スポーツ
守、破、離

今日は日曜だと思って、テレビをつけたら、月曜だった。
ある番組で、おわらいの芸人が、多くの学者達と、学問と独創性について討論していた。彼は学問は覚えるだけで独創性とは関係がなく、価値が無いような主張だった。

私の見解。

まず、確かに学問、というより勉強は、他人が作ってくれたものを覚えるだけである。独創性などない。しかしその味気ない勉強にも独創性を発揮する余地は、十分すぎるほどある。どういう勉強の仕方をしたら成績を上げられるか、どう工夫したら、膨大な量の知識を暗記できるか、その方法までは先生は教えてくれない。というより、人によって特性や性格、長所、短所、が違うから、一律に教える事は出来ないのである。自分にとって最も合理的な勉強法は自分で考えて工夫しなくてはならい。それは独創性いがいの何物でもない。学力を単なる先天的な能力と考えるべきではない。

確かに学問は無味乾燥である。特に理系の学問はそうである。誰が最初に発見するか時間の問題に過ぎない。では学者はどう考えているだろうか。自分の名前や名誉のためにだけ、無理して嫌なものをやっているのだろうか。それは違う。本当の学者は、研究することが面白くて面白くて仕方がないから、研究しているのである。それは物事の理屈がわかるから面白いのである。

勉強や知識は確かに、独創性とは関係のないものである。しかし独創性のある人でも知識がなければ、せっかく持ってる独創性を大きな事に生かすことが出来ないのである。知識とは、独創性をより有意義に生かすための道具なのである。
どんなに優れた大工でも鑿と鉋がなければ家は建てられない。

どんな芸事にも、守、破、離、というものがある。守、は多くある流派のうち、一つを決め、その流派を完全にマスターすることである。破は、他流派を広く研究することである。離、とは、それらをした後、自分独自のものをつくりあげる事である。

では、守、には独創性がないかといえば、そんな事はない。習い事で基本が身につかなかった人はいる。どうしたら基本を身につけられるか、考えなくてならない。それに創意工夫や独創性が必要なのだ。

そして、守、破、離、とは完全に分かれた別のものではない。

小さな完成にも、守、破、離というものが要求されるのである。

スポーツにおいてたとえれば一つの技術を身につけるにしても、守(先生の教えを理解する)破(他の人の運動をよく見て考える)離(それらをもとに自分で工夫して技術を身につける)なのである。

さらに敷衍すれば人生は何事においても、守、破、離、のプロセスの要素がある。
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