「うらしま太郎」、と、題して、7作、小説を書いた。
ここで、一つ、言っておきたいことがある。
僕は、亀を、陸に上がらせて、子供たちが、亀を、いじめていた、のは、実は、乙姫の、仕組んだこと、八百長、芝居、という、設定にした小説が多い。
しかし、お伽話の、「うらしま太郎」、の話は、そもそも、その可能性を持っているのである。
なぜ、亀は陸に上がったのか?
なぜ、子供たちは、亀をいじめたのか?
この理由も、述べられていない。
「いじめ」、を、するのは、何か、理由、があるはずである。
人間だったら、「あいつ。気に食わない」、とか、「あいつ。むかつく」、とか、「あいつ。生意気」、とか。
何か、理由が、あるから、「いじめる」、のである。
さて、「うらしま太郎」、の、お伽話では、どうして、子供たちは、亀をいじめたのか?
子供たちは、亀を、「気に食わない。とか、むかつく。とか、生意気」、とか、感じたからであろうか?
子供たちが、亀をいじめた理由は、お伽話、の、「うらしま太郎」、では、書かれていないのである。
これは、亀をいじめている、子供たち、を、うらしま太郎、が、注意して、亀が、助けてもらった、お礼をする、という設定にしないと、お話が作れないからである。
同様に、亀は、乙姫の、家来であるが、どうして、陸に上がったのか?
その理由も、書かれていない。
亀は、メスで、産卵のため、陸に上がった、とも、書かれていないし、陸に対する好奇心で、陸に上がったのかも、しれない。
その理由は、書かれていないので、「わからない」、のである。
だから、乙姫が、人間とは、どういう、生き物か、ということを、知るために、亀に、「陸に上がってみなさい」、と、命じた可能性は、否定できないのである。
そこは、お伽話では、書かれていないので、「わからない」、ままなのである。
多くの人は、亀は、「乙姫の命令で陸にあがった」、のではなく、「陸の人間に対する、好奇心から、自発的な自分の意志で、陸に上がった」、と、勝手に解釈してしまっているのに、過ぎない。
だから、亀が、「乙姫の命令で陸に上がった、というのは、間違い、である」というように、何となくの、雰囲気から、解釈してしまっているのである。
しかし、亀が陸に上がった理由は、「わからない」、し、「書かれていない」、のだから、「亀は乙姫の命令で陸に上がった」、可能性は、十分、考えられるのである。
そもそも、子供たち、は、なぜ、亀をいじめたのか?
普通、害虫でない限り、人間は、動物を、いじめたりはせず、逆に、面白がって、かわいがるものである。
乙姫は、うらしま太郎、と、話が出来るのだから、人語を話せる。
だから、亀を助けてくれる、優しい人を求めて、乙姫が、子供たち、に、亀をいじめるよう、頼んだ、という可能性も否定はできない。
亀の行動にせよ、子供たちの行動にせよ、乙姫の心にせよ、すべて、お伽話には、書かれていないのだから、あらゆる可能性が、考えられるのだから、
「乙姫が、子供たちに、亀をいじめてくれ」、と、頼んだ可能性も否定は出来ない。
☆
お伽話では、残酷な、あるいは、意地悪な、結末が多い。
たとえば、「カチカチ山」、では、ウサギは、タヌキを殺してしまう。
しかし、タヌキは、悪さはしても、ばあさん、を、殺してはいない。
それを、かたき討ち、と言って、殺す、というは、子供向けの話としては、ちょっと、残酷すぎる。
だから、その残酷さを、ゆるめて、ラストで、ドロ船で、おぼれそうになった、タヌキを、「どうだ。もう、悪いことは、しないか?」、と言って、ウサギが、タヌキを、懲らしめる、程度にとどめるのは、悪くはない。
しかし、お伽話の原作は、できるだけ、原作に、忠実に、そのまま、に、しておきたいし、また、しておくべきものだから、(そうしないと、原作が二次創作になり、伝言ゲームのように、どんどん、形を変えていってしまうから)、現在、いくつも、ある、「うらしま太郎」、のお伽話でも、「なぜ、亀は陸に上がったのか」、「なぜ、子供たちは、亀をいじめたのか」、「亀が陸に上がったのは、乙姫の命令なのか、それとも、亀の自発的な意志なのか」、は、分からないままにしてある。
そして、「わからない」、ものには、あらゆる可能性が考えられる余地があるのである。
☆
とは、書いたものの、「書かれていない事」=「なかった事」、と、考えるのも、妥当性がある。
お伽話は、単純な話だから、「あった事」なら、「書かれているはずだ」、と、考えるのも、妥当性がある。
ここで、一つ、言っておきたいことがある。
僕は、亀を、陸に上がらせて、子供たちが、亀を、いじめていた、のは、実は、乙姫の、仕組んだこと、八百長、芝居、という、設定にした小説が多い。
しかし、お伽話の、「うらしま太郎」、の話は、そもそも、その可能性を持っているのである。
なぜ、亀は陸に上がったのか?
なぜ、子供たちは、亀をいじめたのか?
この理由も、述べられていない。
「いじめ」、を、するのは、何か、理由、があるはずである。
人間だったら、「あいつ。気に食わない」、とか、「あいつ。むかつく」、とか、「あいつ。生意気」、とか。
何か、理由が、あるから、「いじめる」、のである。
さて、「うらしま太郎」、の、お伽話では、どうして、子供たちは、亀をいじめたのか?
子供たちは、亀を、「気に食わない。とか、むかつく。とか、生意気」、とか、感じたからであろうか?
子供たちが、亀をいじめた理由は、お伽話、の、「うらしま太郎」、では、書かれていないのである。
これは、亀をいじめている、子供たち、を、うらしま太郎、が、注意して、亀が、助けてもらった、お礼をする、という設定にしないと、お話が作れないからである。
同様に、亀は、乙姫の、家来であるが、どうして、陸に上がったのか?
その理由も、書かれていない。
亀は、メスで、産卵のため、陸に上がった、とも、書かれていないし、陸に対する好奇心で、陸に上がったのかも、しれない。
その理由は、書かれていないので、「わからない」、のである。
だから、乙姫が、人間とは、どういう、生き物か、ということを、知るために、亀に、「陸に上がってみなさい」、と、命じた可能性は、否定できないのである。
そこは、お伽話では、書かれていないので、「わからない」、ままなのである。
多くの人は、亀は、「乙姫の命令で陸にあがった」、のではなく、「陸の人間に対する、好奇心から、自発的な自分の意志で、陸に上がった」、と、勝手に解釈してしまっているのに、過ぎない。
だから、亀が、「乙姫の命令で陸に上がった、というのは、間違い、である」というように、何となくの、雰囲気から、解釈してしまっているのである。
しかし、亀が陸に上がった理由は、「わからない」、し、「書かれていない」、のだから、「亀は乙姫の命令で陸に上がった」、可能性は、十分、考えられるのである。
そもそも、子供たち、は、なぜ、亀をいじめたのか?
普通、害虫でない限り、人間は、動物を、いじめたりはせず、逆に、面白がって、かわいがるものである。
乙姫は、うらしま太郎、と、話が出来るのだから、人語を話せる。
だから、亀を助けてくれる、優しい人を求めて、乙姫が、子供たち、に、亀をいじめるよう、頼んだ、という可能性も否定はできない。
亀の行動にせよ、子供たちの行動にせよ、乙姫の心にせよ、すべて、お伽話には、書かれていないのだから、あらゆる可能性が、考えられるのだから、
「乙姫が、子供たちに、亀をいじめてくれ」、と、頼んだ可能性も否定は出来ない。
☆
お伽話では、残酷な、あるいは、意地悪な、結末が多い。
たとえば、「カチカチ山」、では、ウサギは、タヌキを殺してしまう。
しかし、タヌキは、悪さはしても、ばあさん、を、殺してはいない。
それを、かたき討ち、と言って、殺す、というは、子供向けの話としては、ちょっと、残酷すぎる。
だから、その残酷さを、ゆるめて、ラストで、ドロ船で、おぼれそうになった、タヌキを、「どうだ。もう、悪いことは、しないか?」、と言って、ウサギが、タヌキを、懲らしめる、程度にとどめるのは、悪くはない。
しかし、お伽話の原作は、できるだけ、原作に、忠実に、そのまま、に、しておきたいし、また、しておくべきものだから、(そうしないと、原作が二次創作になり、伝言ゲームのように、どんどん、形を変えていってしまうから)、現在、いくつも、ある、「うらしま太郎」、のお伽話でも、「なぜ、亀は陸に上がったのか」、「なぜ、子供たちは、亀をいじめたのか」、「亀が陸に上がったのは、乙姫の命令なのか、それとも、亀の自発的な意志なのか」、は、分からないままにしてある。
そして、「わからない」、ものには、あらゆる可能性が考えられる余地があるのである。
☆
とは、書いたものの、「書かれていない事」=「なかった事」、と、考えるのも、妥当性がある。
お伽話は、単純な話だから、「あった事」なら、「書かれているはずだ」、と、考えるのも、妥当性がある。