私達衆生の仏道の修行とは、「仏に成る修行」です。
「真の仏」というのは、余って居る所も無ければ、欠けて居る所も無いという事です。
即ち「今の私達衆生の様子」です。
修行するとかしないに関わらず、「今の自分のそのままの様子」です。
私達衆生の仏道の修行とは、「仏に成る修行」です。
「真の仏」というのは、余って居る所も無ければ、欠けて居る所も無いという事です。
即ち「今の私達衆生の様子」です。
修行するとかしないに関わらず、「今の自分のそのままの様子」です。
「法(道)その物自体」は、「元々無い物」ですから、法(道)その物自体は、一つも変わっていません。
これからは、私達衆生が自由に「おシャカ様の時代はそうであったかもしれません」がと。
今はそうでなければなりませんし、そのほうが今の多くの人には、分かってもらえると思います。
自信を持って法(道)を自分の者にして頂きたく思います。
「自分の法に目覚める」という事は、「おシャカ様の法」では在りません。
「独立した自分という者」に成るわけです。
私はとてもおシャカ様の様な人には成れませんと、いう人がいます。
よく考えて見て下さい。
みんなそれぞれ違うのに、同じ人に成ろうと思うのは、おかしいと思いませんか。
しかし同じ人に成らなければおかしいと思う人が多いのも、「現今の事実」です。
法(道)という物は、そういうものではありません。
おシャカ様の教えは、インドから中国に入り、中国から日本に入って来ましたが、みんなそれぞれ違います。
ですからその土地その文化に因って、様々に形を変えて今日までこの様に、有(在)るのです。
誰でも熱い物は熱い、冷たい物は冷たい、悲しい事は悲しい皆同じです。
おシャカ様を始め歴代の覚者と言われる方々は、誰一人として特別な人は、いません。
「その人」が或る「縁」に因って、法(道)を求め導かれ、そうして「道」を歩んで、来られたのです。
その事に因って、そう言う機縁に逢ったという事ですから、何方でも「志」さえ有(在)れば、「今の自分の事実」に気が付くという事です。
「悟り」が在ってはならないとか、得るべき処が在ってはならないとか、目的をもって修行(坐禅)をしてはならない」と、そういう間違ったことを話す人が在ります。
これらは、「悟った人、究極に達した人のお言葉」です。
ですからこれから法(道)を求めていかなければならない人、自分の問題を何とかしなければならない人は、そんな事に耳を貸していたら、駄目なのです。
法(道)の為に一生懸命に、頑張らなくてはならないのです。
法(道)の為に一生懸命頑張らないと、いけないのです。
目的に向って一歩一歩進んでいかなければなりません。
そうでありませんと、何にも成りません。
道元禅師の教えというのは、身心脱落です。
信心脱落とはその説明なのです。
ですから私達衆生は、「覚者」にならないと、いけないのです。
覚者というのは、「身心脱落した」です。