活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

只如是(ただ、かくのごとし)

2018年06月10日 | 

「修證不二(しゅしょうふに)」とは、「只如是(ただ、かくのごとし)」ということです。


即ち修行の面からいうと「修(修行)」は「只」であり「差別(しゃべつ)」になり、

「証(悟り)」は「如是(かくのごとし)」であり「平等」ということです。


一方に偏るということはありません。


人間(にんげん)にはどうしても先入観念というものがあり、「只」とか「如是」というと

平等一面に偏りやすい癖があります。


昔から「平等智」というものは、比較的明らめやすいものです。

「明らめやすい」ということは、はっきりしやすい、よく分かるということです。


しかし「差別智(しゃべつち)」というものは、昔からなかなか明らめ難い、

分かり難いということがいわれています。


「只如是」というのは、あるときは「手段、方法」になり、「差別(しゃべつ)」です。

同時に究極になる「平等」です。


「只如是」とは、そういう「両面を持っている」ということです。


三昧4

2018年06月09日 | 仏教

昔の話ですが、朝早く起きて御飯を炊くことは「三昧」です。

これを禅語で「心境一如」といいます。


つまり、御飯を炊く時は御飯を炊くばかりに成り切って、他には何もないということです。

「三昧に成っている」のです。


人が御飯を炊くのではありません。

御飯が御飯を炊くのです。


「人(私)」が坐禅をするのではありません。

坐禅が坐禅をするのです。


これを「坐禅は坐禅なり」といいます。


これは理窟ではありません。

実験して其処に徹し、実証するしかありません。


このことを禅語で「実参実悟」といいます。


三昧3

2018年06月08日 | 仏教

新しいものを一所懸命に務めて求めるということだと、出来る人と出来ない人が

あるのではないかという心配が生じて来ると思います。


しかし、そういうことは絶対にありません。


何故ならば、「自分」のことだからです。

「今の自分の事実、今の自分の様子」をそのまま肯うということだからです。


ですから、出来る出来ないということではありません。


気が付くか気が付かないかということです。

ですから、正しい教えに因って正しい三昧に入れば、必ず気が付くことは間違いありません。



三昧2

2018年06月07日 | 仏教

ご婦人の方は、炊事や掃除をするよりも、静かに坐って三昧に成る方が尊いのでは

ないかと考えるかもしれません。


しかし、三昧ということから言えば「何時何処で何をしていても全く同じこと」

なのです。


坐っていても三昧に成り切ることが出来なければ、其の人は「修行(坐)」に

成っていないということです。


坐ることが出来ないからといって決して「自分は修行が出来ないのだ」というような

ことは言ってはいけないのです。


ですから、そのことだけに一所懸命に成り切って頂きたいのです。

「今」のことに、懸命に成っていただきさえすれば、それで宜しいのです。


三昧1

2018年06月06日 | 仏教

「三昧」とは成り切ることです。

修行を自分のものにするには三昧に成り切ることです。


静かに坐ることの時間を割けない方は、坐らなくても結構なのです。


自分の仕事、考えることに時間を費やしている方は、一所懸命に考えることに

成り切っていただければ、それで結構なのです。


或いは体を動かして労働している方は、一所懸命に労働に従事をすることで

結構なのです。


これらはみんな形の変わった坐ることなのです。

これを「動中の修行」といいます。


成り切る2

2018年06月05日 | 道のこと

たまたま坐禅というものが、どうしても自己を忘ずるための手段や方法になりやすい

のです。


だから指導者は、「坐禅に成りなさい、妄想に成りなさい、分別に成りなさい、

見たものに成りなさい、聞いたものに成りなさい、其のもの其れに成りなさい」

というのです。


これが「自己を忘ずる」ということです。


お間違いのないように、そのことだけは自分でよく「理(理論)」として

理解して頂きたく思います。


特別に新しいことを見たり、聞いたり、求めたりする訳ではありません。

いつものことです、平常のことです。


ですから「自己を忘じよう」ということは、もう本当に思う必要はありません。

考える必要もありません。


「今の自分のやっていることに成り切る」、そのように努めて頂きたいと思います。




成り切る1

2018年06月04日 | 道のこと

今の自分のやっていることに、「成り切る」ということが修行の最大要件です。

どんなものでもよいので、「一つのものに成り切ればよい」のです。


「成り切る」ということは、成り切った中に自分が無いということを「自覚」

して頂きたいと思います。


「自己の三昧自己また知らず」という禅語があります。

成り切らない限りは自己が有(在)るということです。


ですから自己の三昧の状態を自己が知(識)っていれば、知(識)っているだけ

三昧の外にいるということに、気が付いてもらわなければなりません。


日々の生活が油断のない生活に変わって来るのが修行でなければなりません。



苦楽とは4

2018年06月03日 | 道のこと

「苦」というものを感じる時は、自分と離れたものを認める時です。

これは「苦」でも「楽」でも同じことがいえるのです。


従って、私たち衆生の修行は苦しみがあるから「安心(あんじん)」を求める

ということでは間違いなのです。


「苦の時は苦だけ」なのです。

ですから「苦」というものの中には針で突いたほどの安心(あんじん)という

ものも入る余地はありません。


ですから、道の修行に於いて指導者は、「苦に成り切ってしまいなさい」と

強調するのです。


即ち「其のものに成る」ということです。


苦楽とは3

2018年06月02日 | 道のこと

苦しみが無くなって楽になったというのなら、そこでもう一つ「楽になったという

楽を消滅」させていかないと、本当の「苦楽の無い境地」には成れません。


人間(にんげん)の社会では、苦しみが無くなって楽になった世界を「極楽」と

いっています。


天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄という「六道輪廻(りくどうりんね)」

のなかの「天上界(迷いの世界の一番上)」です。


俗に有頂天といっています。


これはまだ、何時か「果報が尽きる」と「三悪道(地獄、餓鬼、畜生)」という

非常な苦しみの世界に落ちなければならない生活の中なのです。


苦楽とは2

2018年06月01日 | 道のこと

「苦が無くなったから楽になった」というのは大変な考え違いです。


相対的なものの見方、考え方からすれば、当然苦が無くなれば楽になり、

煩悩が無くなれば、菩提が残るということになります。


片方が無くなれば、もう一方の対象もなくならなければなりません。

そうでないと、「本当の相(すがた)を見ることも掴むことも窺い知ることも

出来ないという世界」には到着することは出来ません。


「無相」というのは相(かたち)が無いということです。


「本当の相(すがた)は相(かたち)が無いものである」というのが

「実相無相(実相は無相なり)」というお言葉なのです。