究極を唱える人が分かっていて、「無所悟無所得の修行」を唱えれば
衆生教化には役立ちます。
もし、究極がわかっていなくて「無所悟無所得の修行」を唱えたら
一体どうなるのでしょうか。
究極が分かっていて「無所悟無所得、手段、方法、方便」を唱えるというならば
「起承転結」がはっきりしています。
しかし、究極が分からなくて「方便、方法、手段」を唱えても「究極(本当の処)」
に私たち衆生を連れて行ってあげることは出来ないと思います。
これは大きな間違いで「毫釐(ごうり)も差(しゃ)あれば天地懸(はるか)に隔(ヘだた)る」
ということにもなりかねないということです。