活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

如是の法5

2018年06月20日 | 法理

「心」を探しても有(在)るかと思えば無いし、無いかと思えばどうも有(在)る

ような気がするものです。


じつに「不思議」です。

しかも、「縁」に応じて様々な形が出来ます。

それが「心の正体」です。


別の言葉で言えば「自分の正体」です。

「眼・耳・鼻・舌・身・意」という六根の働きは、全部そういうものです。


間違えると、「初めから人(六根)の機能が有(在)るという考え方」

強く持っている人がいますが、「そういうことを認める自分が有(在)る」

ということに気が付いてもらわなければなりません。


別の言葉で言えばどうしても「人の働き(六根)というものが始めから

有(在)ると思ってしまう」という大きな間違いがあることに気が付いて

頂かないと「修行」にはなりません。


如是の法4

2018年06月19日 | 法理

ですから、「求心(ぐしん)〈求め心〉」を止めて結果を求めずに

修行(坐禅)をすることです。


具体的には親切に丁寧に真心を尽くして「只 修行(坐禅)を務める」ことです。


務めれば結果を求めなくてもそこに「現成(げんじょう)」するものです。


しかし、どうしても自分を運んで「修行(坐禅)をしよう」と思うから

隔てが出来る(生ずる)のです。


如是の法3

2018年06月18日 | 法理

「如是の法というものをあなたは、どのように受け取っていますか」

と問うと、多くの人は「チラッ」と自分を見るものです。


これを「法を見る」といいます。

このことを「検私(けんし)の病」といいます。


そうすると「色(いろ)」が付いてしまいます。

このことを禅語では「染汚(ぜんな)に属す」といいます。


そういう色付けをしてしまうと「本来本法性天然自性心(ほんらい

ほんぽっしょう てんねんじしょうしん)」を汚すことになるのです。


しかし、もともと「因縁生(いんねんしょう)」のものですから

「無自性(むじしょう)」です。


「無自性」とは、人をも含めて一切のものには自性(塊)が無いということです。


 

 


如是の法2

2018年06月17日 | 法理

「如是の法」をどのようにして自分のものにしたらよいのか、そこに

問題が至らなければなりません。


「大火聚(たいかじゅ)のごとし」というお言葉があります。

「火聚」とは、火の玉ということです。


ですから、火の玉に成って「修行(坐禅)」をしなさいということです。

私たち衆生は問題に対してどうにかしようという癖が付いています。


「意根(意識の根源)を坐断する」というお言葉がありますが、坐る一方で

焼き尽くしてしまわなければならないということです。


よく、指導者が「成り切って下さい」というのはそういうことです。

本当に成り切って成り切るものも、成り切れるものも無くなってしまわなければ

いけないのです。


ですから最初としては「成り切る」というスタートラインに立つことが必要なのです。


如是の法1

2018年06月16日 | 法理

「如是」とは「かくの如し」ということです。


「おシャカ様を始めとして歴代の覚者(仏祖)」は、「如是の法」とは

「私たち衆生の今の状態そのままだ」と仰っています。


別の言葉で言えば、すべての法を「如是(かくの如し)」と、ご説明なさったのです。


このことを受け取る私たち衆生としては、「如是の法」とはどういう「法」なのか

ということを自分の問題意識として取り上げて、自分自身で自分自身を見つめて

「如是の法(かくの如きの法)」であると「実証(理論においても事実においても

証明すること)」しなければなりません。




只の消滅

2018年06月15日 | 

例えば坐禅の力に因って静かになってきたことを「只に成った」というように

「錯覚」を起こすと、そのままで修行が止まってしまいます。


そこをもうひと踏ん張りしていただかないと「只が消滅しない」のです。


修行というものは、修行することによって修行を消滅していくことです。

そうすれば「何をしていてもそれが修行に成る」ということです。


別の言葉で言えば「日常のことが全て道に成る」ということです。

そこまで懸命に努力して頂きたいと思います。


「ああなりたい、こうなりたい、こうしたい、こうでなければならない」

ということを、色々と考えるからそれだけ「苦」が多くなるのです。


そんなことを考えずに「祇管(只管)(しかん)、ひたすら」に坐って頂きたいと思います。


只(ただ)4

2018年06月14日 | 

人間(にんげん)は「只、今、即今」というと、そのものだけは無常の外にあると

思い、移り変わっているものの他に何となく「只、今、即今」というものがあるように

「錯覚」を起こしやすいものです。


「只」というのは究極ではありません。

それも途中の様子なのです。


そこで歴代の覚者といわれる方々はいろんな書物を後世に残して注意しておられるのです。


只(ただ)3

2018年06月13日 | 

ところが「無始劫来(むしごうらい)」の自我の迷執に因って、そのことを

どうしても納得(理解)することが出来ないのです。


生まれながらにして「我見の無い人」はいません。

ですから、其のものが其のまま受け取れるようになるには、多少の時間が必要なのです。


そこで修行もしなければならない「道理」が生じるのです。


一番気を付けなければならないのは、「人間(にんげん)」は本来限りあるものを

嫌いますが、「只(ただ)」というと何となく本当のもののようで、途中のものには

思えないものなのです。


只(ただ)2

2018年06月12日 | 

信じる、あるいは疑いというものが無くなったら、何のようになると思いますか。

其のまま有(在)るではないですか。


「私たち衆生は、修行をするとかしないということに関係なく、何時でも何処でも

何をしていても、信じるとか疑うとかいうこと以前の状態」として、ものが見えたり

考えたり、聞こえたり、分かったりしている訳です。


これを言葉で言い表せば「只(ただ)」と言っているのです。



只(ただ)1

2018年06月11日 | 

信じるということは、如何にもすべての疑問から解放されたような気がしますが

そうではありません。


疑うことと、信じることは全く等しいことです。

何故ならばそれは、「人の考え」だからです。


「信、疑」というものを一度離れてみる必要があるのです。


信仰も本当に信じつくせば疑いが無くなります。

疑いが無くなれば、対象が無くなりますから、信じるということが無くなります。