活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

坐禅の功徳

2016年11月20日 | 坐禅

「坐禅」 をして、一体どうなるのであろうか、

という疑問をお持ちになる人もあろうかと思います。

 

少々、「坐禅の功徳」 について説明させて頂きます。

 

第一に、自分の思うもの、自分の考えているような

理想的なものに成れるということがあります。

 

即ち、時間的にも空間的にも、全部が大きく

自分のものになるという訳です。

 

人間(にんげん)は本能として限りあるものを嫌います。

「坐禅」 によって永久に「失くならないもの」がつかめる

ということです。

 

第二に、一切の不安から解放されることが出来ます。

不安が失くなりますから、恐れるものが失くなります。

 

第三に、「真実の愛」 が目醒めます。

これは何故かといいますと、相手と自分との間に

全く距離(隔て)が無いからです。

 

元々一体のもの、距離(隔て) のないものですから

離れるはずがありません。

 

第四に、能率が高まるということを挙げることが出来ます。

集中力が養われますから、仕事でも勉強でも、

無駄なく効果を上げることが出来ます。

 


無事禅(三つの禅)

2016年11月19日 | 

「坐禅の姿そのものが仏である」、

坐っているということだけで足りるのであるから、

悟りを求めたり、或いは自己を忘じるということは

間違っていると説く人が居ります。

 

もう一つの流れは、姿勢を正しくして合掌を上手にして

礼拝(らいはい)の作法通りにと、形式を整え、

それらが全く美しい動作に成るように務める、

それを 「禅」 と説く人も居ります。

 

それから、三つ目の流れに、

お寺とか、僧とか、法とか、仏とか、ということに

執着せず、縁に任せて東奔西走する、

そういうようなことを、「禅」 と説く人も居ります。

 

こういう三つの禅を 「無事禅」 と呼んでいます。

「無事」 というのは、事が起こらない様に

静かな環境に自分を鎮めているということです。

 

何故こういう、「無事禅」 が起こって来たかというと、

「そのままでよろしい」 とか、

「柳は緑、花は紅(くれない)」 を、そのまま認識する

ということから起こって来たのです。

 

ですから、「そのまま」 という状態を忘れてしまわなければ

本来の 「禅」 にはなれないのです。


禅の功夫

2016年11月18日 | 坐禅

禅における 「功夫(くふう)」 というのは、普通に言う

「分からないところがあるから

いろいろ功夫して分かるようにする」

という意味ではありません。

 

「功夫そのもの」 ということです。

 

「功夫」 ということに、意味付けや意義付けを

しないようにして頂きたいと思います。

 

「祇(只)管(ひたすら)」 に親切に、真心をこめて

一呼吸一呼吸、そのものそのものに成り切って

頂きたいと思います。


散乱の坐禅

2016年11月17日 | 坐禅

「散乱」 というのは、心が落ち着かないということです。

ですから、こういう人の坐禅の状態は、よく 「眼」 に

表われるといいます。

 

ですから、「昏沈(こんちん)の坐禅」 も 「散乱の坐禅」 も

両方とも悪い状態です。

 

道元禅師はそのことを

「昏散先ず撲落(ぼくらく)して」 

と、お示しになり

「そうであってはならない」 

ということを言って居られます。

 

そういうものが落ちないと

「真箇の正法」

というものは現前しないということです。


「坐禅の当体」 というのは、

平等でもなければ差別(しゃべつ)でもありません。

昏沈でもなければ散乱もしていない状態が坐禅です。

 

ですから、

「坐禅は坐禅なり」

なのです。

 

そのことを、道元禅師は

「坐禅は習禅にはあらず、唯これ安楽の法門なり」

と、はっきりとお示しになって居られます。


禅の究極

2016年11月16日 | 

「禅の究極」 を次のように言っている人がいます。

「雪を担って井戸の中に投げ捨てて井戸を埋める」

と。

 

到底、雪で井戸を埋め尽くすをいうことは出来ません。

「理(理論)」 の当然です。

 

そのように、「禅の究極」 とは、人から見たらつまらない

馬鹿だといわれるようなことでも、「平気で出来るようになる」 為に、

「禅の修行」 をしないと間違いを起こします。

 

「禅」 は学んでものを覚えるとか、何かの役に立てようとかで行うと、

多少方向違いの趣があります。

 

「太公望」 という人がいました。

この人は、非常に釣りの好きな人でした。

この人の釣り糸には「針」がついていませんでした。

 

一晩中釣り針のついていない釣り糸を垂らしていたという程

釣りの好きな人でした。

これも 「禅の究極」 を示している話です。

 


動中の禅

2016年11月15日 | 語録

白隠禅師は、

「動中の禅は静中(じょうちゅう)の禅に勝ること百千万億倍」

と、このように表現しておられます。

 

どうしても 「静かに坐る坐禅(静中の禅)」 という、

そういう穴蔵の中に入ってしまって

身動きが取れないというようなことがあります。

 

その反対に、動中の禅だと、流されることがあったとしても

比較的、禅というものの執着から離れやすいという

そういうことがあります。

 

ペンを持ち、諸々の考えをしていること、

「それ自体が禅」 なのです。

 

ですから、

「その中に禅というようなことを取り入れてはいけない」

ということです。

 

「静中の禅」 が 「動中の禅」 に変わったということだけですから、

「法」 とか 「禅」 というものがどこかへ行ってしまった

というのではありません。

 

それを忘れない様にして、「動中の禅」 を相続していって

頂きたいと思います。

 


2016年11月14日 | 

坐禅を一応手段や方法として、万(ばん)止むを得ず

使うことはあります。

 

それは、「法(道)」 そのものに到達する方便として使う場合です。

 

手段、方法ですから、「途中のもの」 です。

あく迄も途中のものとして、そういうものがあっても

差し支えないということです。

 

何故ならば、何もなければ何も分からないからです。

手段、方法というものは自由に一人歩きが出来るまでの

「杖」 のようなものなのです。

 

本当に坐れた時とは、坐(ざ)がなくなった時です。

ですから、形あるものを消滅させて行かなければいけない

ということです。

 

これを、「法を求める」 と言っています。

 

「禅」 は、私たち衆生の 「今の事実(状態)」 です。

その他に特殊なものはありません。


「禅」の参究3

2016年11月13日 | 坐禅

今の今まで素凡夫(すぼんぷ) であったのが、ふと、

「眼・耳・鼻・舌・身・意の六根」 から受ける 「縁」 によって

すべてが解決し、「仏に成る」 ということは何の不思議なこと

ではありません。

 

ごくごく当たり前のこととして、そういうことがあるということです。

 

いつも、「空(から)」 になって生活をする、あるいは、

そのものそのものに成り切る生活を間断なく続けていきさえすれば

おシャカ様を始めとして歴代の覚者といわれる方々と同様に

道を得ることは出来るのです。


「禅」の参究2

2016年11月12日 | 坐禅

どんなに自分で知識を巡らし、あるいは坐禅をして

「空」 に成ったとしても、「今、今の事実」 を分かることは

出来ません。

 

そのくらい、「今、今の事実」 というのは何にもないということです。

 

元々あったものが欠落してなくなったのではありません。

元々なかったのです。

 

生まれながらにして有るものの中に育っている私たち衆生は、

「無い」 というと、どうしても 「有る」 ということの対照しか

考えられないのです。

 

そこで、おシャカ様が 「因縁果」 というようなものをお立てになって

「ものの無いという様子」 を説明されたということです。

 

 


「禅」の参究1

2016年11月11日 | 法理

畢竟、私たち衆生の禅の参究というのは、「今、今の事実」 の

参究に過ぎないということです。

 

それでは、「今、今の事実」 はどういうことかというと

私たち衆生がどれだけ 「今の自分はこういう状態だ」 といっても

それは、「今」 の他に今を認めているにすぎないということです。

 

本当につかむことの出来ない、名付けようもない、

触れようもないことを、仮に 「今」 と名付けたのです。

 

それを心(こころ) とも、あるいは無相とも、仏とも、

如来ともいうのです。

 

様々に 「今の事(じ)」 の変化がある訳です。