「坐禅の姿そのものが仏である」、
坐っているということだけで足りるのであるから、
悟りを求めたり、或いは自己を忘じるということは
間違っていると説く人が居ります。
もう一つの流れは、姿勢を正しくして合掌を上手にして
礼拝(らいはい)の作法通りにと、形式を整え、
それらが全く美しい動作に成るように務める、
それを 「禅」 と説く人も居ります。
それから、三つ目の流れに、
お寺とか、僧とか、法とか、仏とか、ということに
執着せず、縁に任せて東奔西走する、
そういうようなことを、「禅」 と説く人も居ります。
こういう三つの禅を 「無事禅」 と呼んでいます。
「無事」 というのは、事が起こらない様に
静かな環境に自分を鎮めているということです。
何故こういう、「無事禅」 が起こって来たかというと、
「そのままでよろしい」 とか、
「柳は緑、花は紅(くれない)」 を、そのまま認識する
ということから起こって来たのです。
ですから、「そのまま」 という状態を忘れてしまわなければ
本来の 「禅」 にはなれないのです。