元より仏への信仰によって何かの手段・方法を講じて
救われるのではありません。
本来、救われた者と救われない者との
区別があってはなりません。
救われる以前と以後があってはおかしいことです。
自分で自分を救うのが、「仏の教え、禅の修行の目的」 です。
「坐禅」 というのは、自分で自分を救うことの実践、即ち、
「真実の自己に目醒めること」 以外の何ものでもありません。
真実の自己そのものが生活をしているのならば
そのような不満足、不安、迷い、焦燥というようなものは
失くなるはずのものです。