活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

坐禅は習禅には非ず2

2016年11月22日 | 道元禅師

「雑り物(まじりもの)のない結果」はどうなるかというと

そこに人格というものが出て来るのです。

 

坐禅ばかりに成ったら自分というものはありません。

自分というものがなくなれば、

「一切の物が自分と同化せざるを得ない」

のです。

 

例えば隣家の人が私の眼の中に入っています。

私が隣家の人の眼の中にも入っているのです。

 

それは何故かというと

「自分というものがないから」

です。

 

自分というものに何時の頃からか認めたから

坐禅に因って、その「自分」というものを

同化(殺す)するのです。

 

それから後は自分というものがありませんから

「向こうが自分と同じものに成ってしまう」

のです。

 

「自分」 というものを考えるから

「相手」 というものが生じてしまうのです。

 

「自分」 というものがなくなれば隔て(距離)が

とれて打っ通しです。

 

そういう自覚が起こらざるを得ないのです。

坐禅をするとその境界(きょうがい) が

得られるのですが、口では説明することは

出来ません。

 

ですから、自分と自分で冷暖自知をしなければ

ならないのです。

 

そこまで来るには若干の時間がかかります。

それがなかなか生易しいものではありません。

 

「その物それ」 がわからないので、

十年、二十年、三十年かかった人もあるのです。