CORRESPONDANCES

記述内容はすべてBruxellesに属します。情報を使用する場合は、必ずリンクと前もっての御連絡をお願いします。

一台の黒いピアノ...Bruxelles: 2人物紹介-3-1

2014年06月01日 10時48分50秒 | Bruxellesが守れなかったBarbara

Charles Aldoubaram & Monsuieur Victor
Marcinelle & La Mansarde:「Music Cross Talk」より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Jacques Serf Barbaraの父親 追記:2013年6月13日
Jacques Serf は「一台の黒いピアノ...」に於いては、実の娘を犯す父親、という単純な一面で問い詰められている。
ではかつてBruxellesはPLANETE BARBARAに於いて、Jacques Serfをどのように書きこんだのだろうか?探してみた。
Barbara学 学究ノートより
Jacques Serfの行方と心情 (1)
Jacques Serfの行方と心情 (2)
最近気づいたコメントにBBC3のバルバラ特番再放送へのリンクがあったので紹介しておく。コメントのおかげで半ば諦めていた放送を聞くことができた。
Barbara - The Inner Voice of France
真に受ける必要はないが、ここである心理学者が面白い見解を語っている。被害者で有りながら父親の愛を獲得することに於いて、彼女は母親に勝利したのだと。とんでもない解釈だとは思うが、ある意味正解かもしれない。何故なら母に書き置きを残してバルバラは躊躇することなく独断でナントに向かう。バルバラには父が母ではなく自分ひとりを求めているのだという確信があったということだ。

・・・・・・・・追記:2013年6月14日・・・・・・・・
Hubert Ballay  あるいは Monsieur H. 
Monsieur H par Gilles Schlesser
Monsieur H par Gilles Schlesser (つづき):
参照:Abidjan Cote d'IVOIREの記事
Correspondances過去記事↓
Sa plus belle histoire d'amour , c'est
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

//////////校正4回目//////////

追記:2013年6月16日
〇P.62(原文P.75)「ガラスの破片で右目の周りに傷ができていた」&P.63(原文P76)「目の治療も受け」&P.66(原文P.80)「眼鏡の修理を約束させた」→Charles Aldoubaramに助けられる場面である。P.62の訳が誤訳の発端で、眼鏡の右側が破損個所から放射状にヒビが入っていたのであって、右目の周りに傷ができていたのではない。reparer〈mon yeux〉を眼の治療と訳すのも間違いである。最後の「眼鏡の修理を約束させた」は正しく、ここでそれより以前の間違いに気づくべきだ。私は昔眼鏡の片方が割れて、グリーンの接着テープでとめて、そのままかけていた時期がある。フランス語のロッシーニュ先生に「イヨネスコの劇から出てきたようだ」と言われた。意味はわからなかったが、記憶に残っていたので、この時のBarbaraの状況がすぐに理解できた。お金がすってんてんだと、片方割れても、そのままかけざるを得ない。
〇P.64(原文P.77)rarement par vice,をどうやら「嫌々」と訳されているようだ。ここはBarbaraが女が「夜の女」になる際の原因・理由を挙げているところで、それは生きるため、食べるため、愛のため、その世界に足を踏み入れるのであって、「悪徳・不品行からであることはめったにない」と彼女の意見を開示しているところである。この対比は明確にしなければならない。売春や売春宿に対して決して否定的なイメージは持っていない。「嫌々、それをはじめるのだ」では後々に響く誤訳になる。また愛のためにとする以上は、愛する男が産ませたこどもを育てるために、愛する男が欲しがる薬を買ってやるために、と訳したほうが良い。自分のために薬を買うのであれば、それは不品行であって愛のためとは言えない。従って「薬」を買うために、だけでは、訳として不充分なのだ。
〇校正は一回2個と決めていたが今回は例外として三個所。P.64(原文P.77)Sauf que chanter, monter sur scene en pleine limiere, revetue de son habit de scene, c'est faire montre d'un grand egocentrisme et d'une belle indecence.の訳が「でも歌と舞台と衣装のほかに...」と、歌と舞台と衣装が並列関係に訳されている。がSauf をchanter, montre, revetueにかけると、一体何をc'estで受けるのかという話である。「歌うことは別として」が正しく、またc'estで受けるのは太字部、訳すと「舞台衣装を身につけて、光り輝く照明を一身に浴びる舞台に登場すること、それは」となる。翻訳本の訳はこの部分、ほとんど意味不明で、「私に誇示できるものがあるとすると、それは自分への執着であり、生きるあつかましさでしかない」とあり、この訳ではBARBARAが怒るだろうここでBARBARAが述べたいことは、売春を、修道女になることと同じレベルに引き上げること、そして歌手という人が憧れる仕事を修道女になることと同じレヴェルに引き下げること、そして三つが、同じようなものだとして並列することである。引き下げるために「舞台衣装を身につけて、光り輝く照明を一身に浴びる舞台に登場すること、それは」→「自己中心性や慎みのない品のなさを見せつけることである」
と書いたのである。このあたりの論理分析的解釈は、たとえ誰であれ、バルバラの素人には不可能だろう。仏語力云々の問題ではない。月日をかけたBarbara理解が最低必要条件となる。

・・・・・・・・・・・・・
これは2013年6月18日の記事です。
上に移動します。(7)



最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。