CORRESPONDANCES

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石井好子 (22) ホスピスで歌う

2014年04月20日 20時48分36秒 | 追悼:石井好子

以前に書いたかどうか忘れたが、多分まだだと思う。石井先生はホスピスで歌う活動もされていた。誰も知らないことだ。
昔の文学上の知り合いに芦原修二という方がいて、彼が「短説」なるものを考え出した。短い小説の新しいジャンルである。昔の好で毎月月刊短説を送っていただいていた。私は一度も参加しなかったのだが、新聞に紹介されたときには関西地区の連絡係をした。原稿用紙2枚の小説で、座会を開いて、天地人と得点をつける新鮮味が受けてか結構会員も全国的で多かった。
その中のある号において、石川と言う方が「ホスピス」をテーマに作品を書いておられた。
病院の中のコンサートホールに母を車椅子に乗せて連れて行く。今日はシャンソン歌手の石井好子さんがいらっしゃる。コンサートが始まると会場は一杯になり熱気に包まれた。母は、懐かしい曲を聴いて指揮棒を振っているつもりか、腕でリズムを取っている。母はその一瞬死から解放されて、楽しみに浸っている。知っている曲ばかりなのか、時々くちずさんで、自分の生を回想しているのだろうか。-と言うような作品だったと思う。
私Bruxellesは、この石川と言う方の作品を石井先生に送った。石井先生にしてもこうして自分の歌声を聞いている人の立場から客観的に見ること、知ることは稀だったのではないかと思う。改めてホスピスで歌うと言うことの意味を、認識されたのではなかったかと思う。
この方のお母様はまだご存命でしょうか?と問いがあったが、私は知る由もない。
手紙にはこう書かれてあった。-この病院の若いドクターの知り合いに頼まれて、病院でのコンサートを引き受けた。ボランティアである。自分が人の役に立つならと出かけたが、いざホスピスのステージに立つと、そこから客席をみると、どのひともこのひとも、半年後、一年後にはもうこの世にいらっしゃらない、そう思うと胸が一杯になり気持ちも引き締まった。普通のステージとは全く違う何か真剣な一秒一秒が流れていく、と。生きる側であるからこそそこで「死」に直面し、消え行く側であるからこそそこに「生」を感じるのではないだろうか?シャンソンを通した「生」と「死」の真剣勝負の出会いである。
石井先生はこの作品を前にどう反応してよいのか迷われたようだが、結局短説の会のほうに、御自分のカセットとCDを贈られたようだ。
考えてみれば「お母様はまだご存命でしょうか?」と言う問いは野暮だ。場所はホスピスなのだ。石川さんの作品を読んで、石井先生のお手紙を読んで、私もあたかもこのホスピスでのコンサートの場にいたような気持ちになった。それ以来、死を拒否せず、できるだけ受け入れてそれに向かってゆっくりと進むことも、またひとつの立派な選択肢なのだと考えるようになった。老化でも死でも抗うよりは、受け入れる方がよいに決まっている。誰が考えたか知らないが、ホスピスと言う場をこの世に存在させた発想は素晴らしいと思った。孤独死ではない。大勢の仲間たちと一緒に暮らし同じ方向に進んでゆくのだから、そしてこの石川さんのお母さんのように、時には子供や孫にも支えられふれあい、愛され、それゆえに病院で死ぬより心穏やかで、自分自身に「さよなら」がいえるのではないか?
現実的にはどうか知らないが、それ以来、私はどうもこの甘い「ホスピス」と言う夢に取りつかれてしまっている。ホスピスで石井先生の歌声におくられて旅立つのもいいかなと...

Edith Piaf : Mon Dieu :



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