CORRESPONDANCES

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Jacquesのこと

2014年04月25日 18時52分00秒 | Bruxelles Talks

薄情ではないつもりだが、人間とは薄情なものかもしれない。Jacquesのことを思い出そうとして、Jacquesが何年に亡くなったのかを思い出せない。4月だったことだけは覚えている。
2008年03月05日
Jacquesが今朝また入院した。治療してもDamageを受けるのはJacquesのからだばかり。肺がん細胞は死滅しない。ただその速度を少し弱めるだけだ。ーと書いている。この時入院している。そして治療がうまく進んでいないようだ。
「放射線治療ばかりでなく、手術とか、抗がん剤とか、他の方法はないの?」と聞いたら「ここの医者はベルギーでも一番優秀な医者だから、信頼するほかはない」と言う返事だった。Jacquesのほかに私の身近で二人肺がんで亡くなっている。二人とも手術の話は聞いていない。肺は手術に適しない場所なのだろうか?聞いての想像だが、放射線治療のあとはかなり体力が衰退する。何故体をいじめるようなことをするのだろう、と強く思った。
Jacques et Micheline
空気がまだ肺に充分確保できないので、息継ぎと初めと終わりの挨拶はMichelineがアシストした。ーと書いている。はっきり覚えている。この時すでにjacquesは空気がどこかに漏れて会話ができない、言葉が聞きとりにくい状態だった。最後の力を振り絞って電話をかけてきてくれたのだ。苦しいのはよく伝わってきた。これが2008年2月。もうメイルも打てなくなって「どうして?」と聞くと、PCの前までひとりではたどり着けない状態だ、ということだった。しばらくして万能チェアーを購入した、と言った。リモコンがたくさん付いた椅子で、その椅子のまま動けて、何でもとれて、まるでロボットになったような能力を持つことができる高級チェアーだということだった。歯磨きや洗面もできるのだろう。排尿・排便もできるのかもしれない。飲み物も好きなものを好きなだけ飲めるシステムになっているようだった。たいへん喜んではいたが、それだけ自分の機能を消失していたということだろう。「あともう長くはないからね」と言った。それが2月か。癌になったら治療などしても苦しいだけなのだと思った。Jacquesは一年前の2007年Barbara没後10周年にはたくさんの放送をファイル化してくれたではなかったか。すでに癌に侵されていたとしても、自由に動けたのだ。いつから放射線治療を始めたのか、思い出せないが「放射線治療に行くたびにどんどん死に近づくようだ」というようなことも言っていた。
Il pleut sur Planete Barbara
そしてJacquesは4月に死んだ。2008年4月13日。6年も前なのか。
Jacquesは何も言わなかったので、私は2008年の1月くらいまで、実際Jacquesの病気のことは知らなかったような気がする。なにか「生き急いでいるようだ」と感じたのも、よく思い出せないが2007年の夏くらいだったような気がする。そのときでも別にすでに病名が付いていたわけではない。
癌が発覚し、入院したり治療をうけたりしはじめてから、どれくらい生きたのだろう。短かったような気がする。癌センターでの治療はさらにその命を短くした。こんなものが治療と呼べるのだろうかと、強く思った。
これだけ医学・科学が発達しているのに、何故ひとは癌などで今も亡くなるのだろうか?Jacquesの苦しい呼吸を思い出すにつけ、「癌の治療とは一体何なのだろう?」と思う。
人口調整のためにわざと特効薬を作らないのではなかと、勘繰りたくなる。
私の父は39歳で胃がんで死んだ。医者のカルテをそっとみて胃がんであることを知った父は「まるで死刑宣告だ」と呟いたそうだ。癌が発覚したら、55年後の今でも、ひとは同じようなショックを受けるだろう。



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