ブログ人 話の広場

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虐待と躾

2010-11-07 17:44:40 | 日記・エッセイ・コラム

 土曜日の午後、ある団体の主催で、小さな講演会がありました。誘われて出席しました。講演は児童相談所の中堅幹部の方でした。虐待の実態と苦労話、相談員を受け止める相手の精神状態など、相談所の職員としての並大抵の気持ちではできない仕事の中味を想像しつつ伺っていました。

 なぜ、虐待は起こるのか、そしてなぜ防御できないのか、この10年、4倍にまで増加している実態を知りつつ、日本の子供を守る土壌が一向に改善されていないことに苛立ちを感じます。

 北海道には「市」という中に児童相談所は1箇所しかないようです。それで150万人にもなろうとする親や子どもを見守っていかないという社会のシステムそのものに矛盾であり、過酷であり、よくはならないと言うことをどんなに愚かな政治関係者や専門家にはわかっているはず、とぼくは思うのです。

 地域にはいろんな役職をもらっている人がいます。しかしこれもまた機能しているとはいえません。しかも高齢者がほとんど。隣の人も見てぬ態度をとる人が多く、かつてのような「おせっかい」役の人がいなくなり、人間関係をあえて旨く保とうする意識もない。集団住宅に住む人たちは隣の人さえ、だれだか知らない。そんな無縁な社会にあってこれからの若いお母さんになる人のために、躾の訓練をするのは、児童相談所ではなく保健所の役割です。

 それはそれでもいいのだが、日本にあるこうした組織がそれぞれの分野を一生懸命役割を果たしてながらも、組織間の中に大きな溝があるように見えてくる。そこまでの質問をするのは、講演者が応えるには重たいと思い、質問しませんでした。

 躾という言葉は、今の社会にはもう死語になっているのでしょうか。わが身に置き換えてどう子育てをしてきたかを顧みて、後悔は残るが、ぼくたちの力で精一杯の愛情と親力をかけて育ててきました。いまはそれぞれに生活を営み、苦労しているものの、幼い時に受けた親の躾が年齢を重ねていく過程でやがて理解していくことだろうと願うだけです。

 虐待という行為はいかなる理由があっても許されるものではありません。子どもを人間として一瞬忘れてしまうほど人間性を踏みにじって命への尊厳感を失い、死の直前まで虐げていく親が親であることを忘れていく中で「ハッとして我に返ること」の大切さを残してくれる優しさに心から願いたい気がしました。

やさしいタイガー