ブログ人 話の広場

日頃の生活のなかで見つけたことなどを写真もそえて

互いに息災を確かめて

2010-11-01 09:05:30 | 日記・エッセイ・コラム

 「孤独を感じる毎日だ」、「話す相手がいなくて寂しい」など生きていくこと自体に疲れを感じる人がどうも多くなった気がします。僕の周りにもそういう方がいるのです。家族がいてもその思いは拭い去れないというのです。妻や夫との対話も途絶え、互いに空気のように感じて無味乾燥な毎日が続いているのでしょうか。

 先日NHKが「無縁社会をどう生きる」という特集をしていましたが、若い人の中に、自分はやがて独りになってしまったらどうしたらいいのだろうと、何年も先のことを考えるととても不安でならない、と悲しみを感じるような発言者もいました。なくなった親のお骨を引き取りたくないのでお寺で処理してくださいという驚くべき子どももいるのです。これは決して珍しいことではないほど社会は人間関係の絆を持ちたくないと思う人が増えているようです。

 評論家や学者、そして介護の現場にいる人びとがその立場から発言していましたが、どうも歯の浮いたような話。聴いていてもあまり参考にならない。そんな思いを強くしました。私たちは何に不安を感じているのでしょうか。

 老化したり、物忘れが激しくなって、認知症とでも診断されようものなら、苦しむのは相方や周囲なのです。長年介護することによる疲れ、苛立ち、自分自身の人生はどうなるのだという不満や焦り、それぞれが問題を抱えて生きていれば、とても先に希望を見出すことは出来ないと思うのは当たり前かもしれません。支えあうことによって改めて夫婦の愛情を確かめることができた人や、もうこの辺で、と投げ出したくなる思いをふと横切る人もいるようです。

 このような社会に住むぼくは、ふと日ごろ音信の途絶えた人びとを思い出します。多分元気にしておられるのだろうと推察するのですが、次第に細くなる絆を回復するために手紙の一本でも書いてみようと心が動きます。親子の間でさえ、音信を取りたくないという冷たさに一層の孤立感を抱く親の寂しさを想像します。だから他人はどうでもよいというわけにはいきません。

 多分一人や二人、僕はどうしているのか、と心にかけてくれる人がいるのではないかと思うとお互いの息災をを確かめ合うことは生きる上でもとても大切な行為だと思います。

やさしいタイガー