ブログ人 話の広場

日頃の生活のなかで見つけたことなどを写真もそえて

姉の訃報

2008-12-31 22:44:53 | 日記・エッセイ・コラム

 今年もあと2時間ほどで暮れ、新しい年を迎えようとしている夕暮れ時、遠くに住む弟からの電話で「姉が今朝自宅で息を引き取った」という知らせを受けました。ぼくと4つ違いですから、今の時代ではもう少し生きていたかっただろうと想像しながら亡き姉を偲んでおりました。

 身内とはいえ、もう何年も会っておらず、元気な姿しか思い浮かべることが出来ませんが、自宅で静養していて、朝起こしに行ったらすでに独りで旅立っていたとの事。昨日まで会話を交わしていたのに、と長女が電話口で無念な声を上げていました。別れは誰であれ、辛いものですね。ましてや身内となれば。

 ふと「千の風になって」という新井 満さんの歌を思い出しました。肉体的には亡びても、姉がぼくにもよくしてくれた優しさや辛いときに慰めてくれたことを思い出すごとに、心のなかでずっと生き続けていくだろうと、その死を悼みながら静かに大晦日を過ごします。

やさしいタイガー


外で夜を明かす人

2008-12-27 12:21:52 | 日記・エッセイ・コラム

 年末近くになって、冬空に放り出された非正規社員の不安な日々を想像すると、日本も人間味のない今の季節のような寒く、そして寂しい国になったものだと思ってしまいます。沢山の住宅が空いているにもかかわらず、やむなく路上で生活する人になってしまいます。住所不定扱いのために、就職の斡旋もしてもらえない、と思うと情けない国なったものです。

 会社の経営者の中には、社員のために真摯に取り組み、身を削っても守るという人がいるのに、大手ほど冷たい印象を受けるのは、働く人が多いために人間と見ていないだろうか、と皮肉っぽく考えてしまいます。

 日本海の景観のひとつに東尋坊がありますが、持ち金のない人がふと気がつくと岩の上に立つ人があると聞きます。それでも何とか支援しようと言う心優しい人たちもいることを忘れないようにしたいものです。

やさしいタイガー


今年も一枚のハンカチのプレゼント

2008-12-24 18:39:52 | 日記・エッセイ・コラム

 もう何年になるでしょうか。ぼくの誕生日がクリスマスと重なっていることから、毎年誕生日のプレゼントに素晴らしいハンカチが届きます。30年くらいになるかもしれません。それほど長く忘れずに欠かさず贈ってくださる遠くに住むAさんの心遣いにただただ感謝の思いで一杯です。

 神戸の職場で一緒に働いた仲間の一人ですが、ぼくはある日神戸の大手のホテルを訪ねたとき、フロントで働くこの女性と会話をし、後日上司にお願いしてぼくたちの職場に譲っていただいた、いわゆるスカウトのような形で迎えた人なのです。やがてぼくのほうが転勤で北海道に来てしまったことで、もう会う機会を逃してしまったわけですが、それ以来でしょうか、ずっと贈ってくださるのです。

 誠実で優しくそれでいて明るさを持った彼女は殺伐とした職場の中で一輪の花のような存在でした。今ではお子様も順調よく育ち、平和な家庭を築いておられるようです。つい人のことなどどうでもよい、と考えがちな今の社会の中で、あの頃と少しも変わらない優しさと温かさの心を添えてくださる思いが伝わってきます。絆の大切さが一枚のハンカチにこめられているように感じています。今年もどうやらひとつの節目を元気で通過できそうです。

 皆様のよきクリスマスを祈って

やさしいタイガー


クリスマス・カードを飾って

2008-12-18 08:48:26 | 日記・エッセイ・コラム

 クリスマスが近づくと、友人からクリスマス・カードが届き始めます。懐かしいメッセージを読むのもまた楽しみです。我が家では開いたカードを玄関に飾り、来客の方々にご覧いただくとことを習慣にしています。外国ではそういう習慣が一般的ですが、日本ではどうでしょうか。

 カードのユニークなものもさることながら、一言メッセージを拝見するのもまた嬉しいものです。懐かしさがこみ上げてきて、この方とも随分あっていないなあとしばし感慨にふけることがあります。ともにイエスキリストの降誕を祝おうと言う意味で、世界中でカードが行きかっているのでしょうが、中にはメールでアニメのようなカードも届いたりして時代の変化を感じます。

 個人的なことですが、ぼくはちょうど25日に生まれたものだから、世界中の人が祝ってくれているんだ、などとよく言っていたものです。このごろになると、年を重ねるというより、年を取る、といった思いのほうが強くなっていく弱気な自分を感じます。でもまた誕生日を迎えられるということを神様と今は波両親に感謝して日々大切に過ごしたいと念じています。


取り戻した人生への希望

2008-12-17 08:58:21 | 日記・エッセイ・コラム

 先日ぼくと親しくしている25歳の青年が、一人の目を真っ赤にした友人を連れて待ち合わせの場所にやってきました。型どおり互いに挨拶をし合って、ぼくはどうしたのかな、目の充血は、と思ったのですが、ふれずに話し合っていました。すると彼の方から「ぼくの眼が赤いでしょう。実は1週間前に手術をしたのでまだ吸収していないのです」と進んで話してくれました。

 「ぼくはずっと今まで斜視で悩んでふさぎこみ、友人とも交わることや人前に出ることに躊躇していました。でもこの手術のおかげで完全に正視になりました。ぼくの第2の人生とも言うべきスタートです。社会は暗いし、バイト先も倒産して今は無職。それでも何か希望が涌いてきます。目の違いだけでこんなに物の見方が変わるのか、初めて分かりました」と喜びの表情で話してくれました。なかなかの二枚目の好青年です。

 そうだなあ。自分も人にいわれぬコンプレックスを持っていたこともあったなあ、と思い出していました。周りはそれほどでなくても思い込みはもっと深いものなのです。そんなとき何も聞かずにそっと支えてくれた友人の心遣いにどんなに救われたか、ふと思い出しました。彼はこれからきっと希望を失わずに大きな海原に漕ぎ出すでしょう。

やさしいタイガー