ブログ人 話の広場

日頃の生活のなかで見つけたことなどを写真もそえて

スマホの生かし方

2015-08-31 17:05:28 | 日記・エッセイ・コラム

 先日外出した時、札幌駅を通り抜けようとした。そこで思わず素晴らしいシーンに出会った。 一人の女性が何か懸命に手話をしているのだ。だが向かいには誰も人はいないのだ。一瞬何をしているのか、と不思議に思ったが、横を通ってわかったのだ。この方は手にスマホを持ち、そこに映されている相手と会話をしているのだ。多分動画であろう。

 僕は心の中で拍手をしたい思いになった。 昨今スマホを操作する人の中でマナーに欠けるとひんしゅくを買う人が増えているらしいが、このような女性にとってスマホは遠くの人と会話を楽しみ、視野を広げ、交友関係を豊かにしていく手段になっているのである。

 ガラケーの僕は持ってはいても十分使いきれないが、使いようによっては大きな情報のリソースであることは間違いない。近年の情報機器の進化によってコミュニケーションは豊かになったことは確かだ。一方では人と向き合うことが少なくなったという批判もある。

 確かに面と向き合って話すほうが、笑いがあり、会話も弾み、時間を忘れることも多い。今では二人でカフェに入っても向き合いながら沈黙し、ひたすらスマホを見続けている人は多い。今やそうした光景を不思議ではない。

 フェイズブックを開くと、多くの人が立ち寄ったレストランやカフェで出される料理やコーヒーを活写し、すぐに発信して楽しんでいる人が多い。これはまるで店を紹介しているような感じがする。だからだろうか。長居しても店員は仕方ないと受け止めているらしい。

 世の中、持ちつ持たれつなのだが、先に紹介した手話で会話をする女性の姿をみていると、スマホの登場は悪くはないと思った。だがバスや電車の中で隣の人が夢中になってみているので何かとこっそり覗くと、なんだかわけのわからないゲームをしているのだ。たいていこういう人は周囲への気配りができない人だ。

 いい年をして、と思うのは年寄りの冷や水かもしれない。退屈しのぎには良いのだろうが、何とかと何とかは使いようだと古人は言った。うん、その通りだ。でも有効にしている人が、大いに役立っていることをしると、スマホよ、ありがとうと言いたい思いがする。

 ちょっと目を開かされたシーンに寄せて。

やさしいタイガー


つながりのありがたさ

2015-08-26 10:45:30 | 日記・エッセイ・コラム

 まるで孫のような年齢の開きのある若者と久しぶりに再会した。彼女は、かつて私が大学で講義を持っていた時の受講生。たくさんの学生の中でもどういう理由かはわからないが、もう一人の学生の二人が卒業してからも折に触れて連絡を取り合う仲なのである。その女性とワインを飲みながらしばし歓談の機会を持った。

 元学生は卒業後デパートの酒類売り場に立ち、客の応対をしていたのだが、しっかり勉強したのであろう。アドバイザーの資格を取り、制服を着るスタッフとなった。酒を買いに来たお客の相談に乗りながら適切なアドバイスをするという専門職についた。その仕事を辞めるというのだ。

 まだ若いから先に向かう姿勢は自分も取ってきただけによくわかるのだが、一念発起して外国に留学するという。数年も働くと、見えないものが見えてきたり、人間のいろんな場面を見てきたせいなのかもしれないが、ジャンプするには今だと判断してのことのようだった。

 もっとも彼女は大学在学中に半年、短期留学した経験もあるので、特段びっくりするような行動ではないらしいが、それにしても若さの特権をフルに生かす行動力は大したものだと私も感心した。そんな話を聞きながら、ふと60年代に出版された小田 実の「何でも見てやろう」というアメリカをぐるっと回った体験記を読んだことを思い出していた。

 時代はベトナム戦争期があり、国際社会は相変わらず戦争に明け暮れ、民衆は痛ましい犠牲を負ってきた。そんな中で登場したのが小田実であり、「ベトナムに平和を、市民連合」という組織を立ち上げたのである。私も共鳴して参加したことがあった。それはそれとして、あまりにも外国の事情に疎い日本の若者に刺激を与えたのが、この本である。

 今思えば特段刺激的なことを語っているわけでもないが、日本人の価値観では世界に通じないことが多いことも知ったのである。小田実は必ずしも親米的な思想の持ち主ではない。どちらかというとアメリカを批判的にみる人だったと思う。その作家がアメリカを回ったのだ。

 さて、専門職を身に着けた彼女は、いろんなホテルや酒類店からの誘いを断って9月末には飛び立っていく。しばらくは帰ってこないのだろう。どんな夢を持ち、どんな力をつけてくるのか楽しみである。別れ際にこう言っていた。「心配なのは太って帰ってくることです」と。やはり若い乙女心がちらついているのだろう。無事を祈りたい。

 やさしいタイガー


注目の「70年談話」

2015-08-14 14:35:21 | 日記・エッセイ・コラム

 多分このブログを出し終えたころ、安倍内閣は国の内外に「戦後70年談話」を発表するだろう。はたしてどのような内容になるのか、関心のある国や人たちは注目していることだろう。ことに今年は戦後一つの節目を迎え、しかもかなり頑迷はリーダーシップをとり、自身の価値観が固着している安倍さんの言葉には信頼を寄せる内容にならないような気がするものの、様々な国や人々に多大な影響を与えかねないだけに目を凝らして見つめていく必要がありそうだ。

 まるでクイズのように安倍さんの文言に「おわび」と「侵略」そして謝罪をいれるかどうかが焦点だ。日頃の発言からは本音は入れたくないという心情だろう。だが周辺からかなりのプレッシャーを感じているようにも見え、ひとまず反旗を抑えようという思惑を優先するのではないか、という観測もある。

 しかも15日には敗戦記念式典が開かれ、天皇が述べる言葉にも注目が集まっている。天皇ご自身は今までの折に触れて示されているお言葉や御歌から推察するに、昭和天皇の苦汁をまじかにご覧になり、陰惨な戦争はしてはならないという強い信念がおありのようだ。徹底した平和主義者であり、過去の戦争への道をよく熟知されていると思う。

 一定の史観は安倍さんとはかなり違う。

 某女性ジャーナリストは今の安保法の推進を主張し、ヤスクニに賛同し、中国や韓国を下に見ているかのような発言が際立つ。これをまさに得たりと受け止めるのが急進的な保守党員たちだ。このような存在は今の真実の意味での平和志向に大きな妨げになっているが、市民もまた危険度の高い発言には注意を払わないといけない。

 最近の反安保や政権への批判に立ち上がった人々の行動はどこかの組織に加わっていない人が多いように見受ける。かつて60年・70年安保の時には左右の組織に帰属することによって組織統一の見解を主張してきた。だから組織が崩壊すると、人もまた去っていった。だが今の意思表示は違う。

 一人一人個人が自由に参加し、主張し、行動する。これは成熟した社会ならではの示威行為だ。若者、女性、成人、高齢者それぞれの価値観で表現しようとしている。こうした未組織の活動が際立ってきたのは、組織的活動への失望感を意味している。私自身のの70年安保の運動は、まさに個人の集合体であった。今の政権は「個」という言葉を嫌う。

 だが今こそ、個が大事にされる社会を創っていかなければならない。個を大事にする社会こそ自由で民主的といいたい。安倍さんの談話はいずれにしても国民を代表する談話ではないことだけは言っておきたい。どのような事態でも安倍さんの責任は免れない。本当に苦しい時に民衆の思いの立って勇敢に歩む姿勢があればきっと容認されていくとは思うのだが。

 やさしいタイガー


70年談話は平和国家の終焉

2015-08-12 09:53:49 | 日記・エッセイ・コラム

 8月14日に安倍首相は「戦後70年談話」を発表するらしい。しかし、内容を巡って様々な立場の人が苦言や進言をしているが、果たして安倍さんはどう伝えようと構えているのだろうか。

 報道によると、骨子が浮き彫りにされている。歴代内閣は村山談話以降、これを継承してきた。近隣諸国とは多少なりとも関係が改善されてきたという評価はあるようだ。だが、安倍さんになって急速に中国・韓国とは疎遠になり、首脳会談すらできない状態だ。そんな状況を知っていながら、改善の余地すら見えないのは、なぜか。

 問題は先の戦争における日本政府と軍部の取った行為が侵略であるという真実を不都合とみていることであり、だからお詫びする必要はないという立場をとろうとしていることだ。稲田自民党政調会長は、「いつまでも『お詫び』をする必要がない」と発言、侵略という行為はないという解釈の発言をしている。

 1930年以降の日本の行動は、あきらかに領土拡張を狙い、満州に傀儡政権を作って資源確保に取り組んできた。軍部の傲慢で独裁的行為は許容を超えているが、その勢力を止められなかった内閣や政府、国の最高権力者の責任は大きいはずだ。

 それ故に若者を戦場に駆り出し、婦人子どもまで戦火の盾にしてきた政府の行為は、多くの体験者が語っていることからも許しがたい暴挙であろう。そんな過去を見逃してなお、戦争の危惧を抱かせるような法案を制定し、時には法を無視しても現実行為を優先するという呆れかえる政府高官の発言、まさに歴史認識にずれを起こす自民党そのものの体質を露呈している。

 このような中での「談話」はどれほどの重みをもっているのだろうか。仮に安倍さんがお詫びを文言に入れたとしても、決して自分の価値観を転向したわけではあるまい。歯の浮いたような内容になるような気がする。それでも確として歴史認識をもち、犯してきた侵略行為を謹んで詫び、それを基底に据えて未来に向けて平和国家としての歩みをする、といえば多少なりとも受容可能なのかもしれない。 

 しかし、自民党員はそう思っていないはずだ。先の稲田発言にしてからそうだ。談話が真に国際社会から安堵され、関係改善につながるのか、周囲のプレッシャーにひとまず聞いておこうという姑息な立場で出すのか、平和国家発言の終焉を意味していくのか。比較的物言わぬ日本人の習性に付け込んで独歩歩きな内容が出たら、いよいよ安保法制は戦争法といわれても仕方がない方向になるし、その行為が積極的平和主義という自己流の解釈を押し通すのではないか、と危惧する。

 たとえどんな情況になっても政府は責任は取らないということだけは肝に銘じて知っておくべきだろう。僕はそう思っている。

やさしいタイガー


8月6日を知らない子供たち

2015-08-06 18:05:08 | 日記・エッセイ・コラム

 今日8月6日、広島に原爆が投下され、30万人もの犠牲者を出した忘れてはならない日だ。平和記念式典には世界50か国の要人が参列した。広島市長は自然も家族も戻してくれ、と非人道的行為を訴えた。また市長は、核廃絶にむけて世界の為政者は努力せよ、と訴え、日本国憲法の順守を明言した。それに比べ、安倍首相の挨拶は、きわめて形式的で自戒や痛みを負うような言葉はなく、空しいものだった。午前8時15分、黙とうの知らせが告げられると、街を歩く人も登校した子どもたちも一斉にこうべを垂れていた。

 被爆者は高齢化し、平均年齢も80歳を超えたという。まもなく体験者はいなくなることになろう。今、体験を継続する語り部が生まれてきているが、それにしても経験を語るということは、とても苦しいことだなのではないだろうか。語りたくないという被爆者はあまりにも残忍な情況を忘れられないからだと思う。それにしても受け継いでいかないといけないのだ。決して風化させてはならない。

 しかし、ややショッキングなことを知った。今の子どもたちの7割が8月6日は何の日か知らないという。広島や長崎在住の人は比較的低いが、それでも思いのほか低い。どうしてこういうことになるのか。 人の記憶は時代や年齢とともに薄れていくのはやむを得ないとはいえ、世界の唯一の被爆国として日本は本当に訴求力を持っているのだろうかと、ふと疑念がわく。

 国は、子供たちの教育の内容を改変しようとしている。今教育の現場に立つ教員たちは原爆も戦争も知らない世代だ。教科書は何らかの形でこの経験を真摯に受け止め、しっかり教えるよう勧めているのか、いやむしろ軽く流す程度に教え、反権力化を恐れての無言の抑圧ではないのか、とうがった考えも出てくる。

 平和教育の難しさもあるのだろうが、一瞬に命を奪うような出来事をなぜ主張できないのか、政府の非力を感ぜざるを得ない。それどころか、福島原発の爆発で大きな犠牲を強いてしまったことも東電や政府は責任を負うどころか、再稼働にゴーサインを出すありさま。こんなことがあってよいのか、といかりをもつひともおおいはずだ。

 少しでも思いを休めることなく、自分なりの意見を持って発進することが大切なことだとこの日にさらに思うのである。

やさしいタイガー