ブログ人 話の広場

日頃の生活のなかで見つけたことなどを写真もそえて

悲しい親の虐待

2011-01-31 08:51:22 | 日記・エッセイ・コラム

 自分が生んだ子どもにかけられない愛情、まるで物を投げるような憎しみの表現となってしまう親の行動にただ悲しみがつのります。多くの人は「なぜその前に回りや専門機関で何とかできなかったのか」と怒りをもっているのでしょう。

 どんなことが起こっていても自分を見失ってしまった親の行動は、誰かの冷静な言葉や力を受け入れることが出来るでしょうか。今週のNHKの「ラジオ喫茶店」での話ですが、人はだれでも鬼になる要素があるという研究者や野村万作さんの発言を聞きました。

 つまり人間は鬼や蛇になって向こう見ずな行動を起すことがあるということです。ぼくも多分今までに何度か鬼になったことを反省しなければなりません。同時その裏側にある「愛」をどれだけ注いだのか、これも自分を見直す必要があります。

 虐待の行動を想像するだけで、息苦しくなりますが、人は誰にもいえない、言いたくない事情があることは重々承知していても、小さくても人間という子どもへの尊厳を見失わなければこのようなむごい言動は取れないと思うのですが、それは冷静になれるから言えることです。

 多くの虐待によって子どもを死亡させてしまった悔やみは一生担っていかなければならない重荷でしょう。それにしても世間という世の中は暗の部分を解消していくために人の心を借るしかないとすればそのためにこそ、心の苦しみを少しでも少なくするためにできている各種の関係機関は何をするべきか、既存の考えを捨てて、命の立場で考え直して欲しいと思っているのです。

やさしいタイガー


街は元気、そしてぼくは

2011-01-30 10:33:03 | 日記・エッセイ・コラム

 大雪もひと段落でしょうか。差し込む風はまだまだ春には遠いのですが、太陽の光を見るというのは気持ちまで明るくしてくれますね。年賀の中に冬の大変さを案じてくれる方が結構ありました。そういえば本州の東京や大阪あたりはそろそろ梅の香りが漂う季節を迎えるようです。なんともいえない豊かな香りです。

 雪国だからといって家に引っ込んでいる人は少ないかもしれませんね。街は人であふれています。ショッピングセンターに行ってもおしゃれな喫茶店もどこもいっぱいです。圧倒的に女性が多くて昼間の時間を楽しんでいる様子はいいものです。道路と店の間はガラス一枚で仕切られているだけのカウンターに座って、道ゆく人たちを見ながらコーヒーを楽しんでいるのです。ちょっと気恥ずかしい気もしますが、みんな平気な様子です。

 寒くてもこのごろの街は、すぐに暖かい建物や地下にもぐれますから、震え上がるなどという寒さはなくなってきましたね。ぼくは町の中心に行くときには市電の終点から徒歩で約20分ほど歩いているのですが、地下の暖房の温かさに気分もそう悪くはないのです。

 今、札幌でインフルエンザが流行っているようで、要注意ですが、幸いこの数年風邪の洗礼を受けることもなく、年齢に相応しく過ごしています。それでもエスカレーターやエレベーターを気にするようになり、つい怠惰になってしまいます。またうまくエスカレーターまで誘導してくれるようになっているのですから。

 だからといって街は完璧に出来ているわけではないようです。地下鉄を利用して地上に上がりきるにはおよそ3階分は山登りのように上っていかなければなりません。まだまだ年配者にとって街に出てくるというのは一苦労のいる行動でしょうね。かつてぼくも階段から落ちてカバンの中の学生のリポートをばら撒いたこともありましたから。でも皆さんとても親切で手分けして拾ってくださいました。人から受ける親切というのは本当に自然なのだなあとしみじみ感謝した経験があります。あれから階段は慎重にと自分に言い聞かせています。

やさしいタイガー


大人のおしゃべり

2011-01-29 11:45:12 | 日記・エッセイ・コラム

 男のおしゃべりはみっともない、といわれた時代がありました。男は黙ってややクールなほうが人に好感を持たれやすいなどといわれ、ぼくはそんなにおしゃべりなほうではないけれども寡黙なほうでもないなあ、と自己分析をしていた時代もありました。ところが近年の人も変わってきましたね。逞しさの影が潜んでしまって草食系などというわけのわからない男性が好まれるようです。

 昨日いつもの水彩画をおえて、ちょっと時間があったので、男性のHさん、女性のT子さんと3人でJR構内の喫茶店に入っていっぱいのコーヒーでとめどなく雑談をしました。本当に面白いのは、どうして区切りなく話が続くのだろうと我ながら不思議に思うほどです。あるときにはとても生産的な話をし、あるときには互いの心の内側を覗かせ、時の経つのを忘れるほど過ごします。それがまったく苦にならないところがまた面白いのです。

 一見意味もないような話で盛り上がるのですが、まさにそういう場がだんだん少なくなっていく現代社会を意識しながらも、たった1時間ほどで充実感があるのです。その中での笑いが絶えない時間こそ、孤独など頭から消えているのでしょうね。このような楽しみ方をする人の顔は「私は孤独です」といった暗さを感じません。

 やっぱり人はいっぱいのお茶を飲める相手を持つことは大切なことです。仕方なく付き合うのではなく、歓談する時間を次への新しいエネルギーにできる人は、お誘いも多いのではと思います。加齢とともに孤独になるのではなく、おしゃべりをする相手を見つけられないことへの不安が増殖していくのでしょうね。それは年配者だからそうなるとは思いませんね。

 3人のおしゃべりの中から、目新しいアイデアが出てきました。今度仲間に話そうと余韻を楽しみつつ分かれました。

やさしいタイガー


思いもよらない別れ

2011-01-28 09:21:07 | 日記・エッセイ・コラム

 つい1ヶ月ほど前まで元気で笑顔で話し、まったくいつもと変わらない知人が天上に召されたとの知らせを受け、一瞬何かの間違いではと思うほどの驚きを受けました。いつも笑顔を絶やさぬ確かぼくよりもお若いと思うのだが、何かの体調の異変が起こったのでしょう。ただただ哀悼するばかりです。

 人との別れは直面してみないと実感がわかないのは当然でしょうが、それでも心の中では実感を受け入れがたく思うのではないでしょうか。人の死は自分の生や死と重なってきます。「葉っぱのフレディ」のように、人も自然もいつかは神の招きに応じなければなりません。しかし永遠の命は次への引継ぎであることを思ったとしても、この世の中で受け入れがたい言葉でもあります。

 知人はゴルフを趣味としていることもあって周囲には多くの友人がおり、いつも日焼けした健康そうな姿しか浮かんできません。だから、その彼が・・・、とだれもが彼の人生を悔やみとともに惜しんでいるのです。しかしもう二度と言葉をかけあうことが出来ないことを思うと、依然として現実と空想の世界が交錯しているのです。

 ご家族の心の悼みが一日も早く癒されることを祈るのみです。

やさしいタイガー


講演と原稿

2011-01-27 09:09:25 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日久しぶりに100名ほど集まった集会で20分ほどの講演をさせていただきました。もちろん事前に入念に準備をしていったのですが、出だしで書き物とは違うことをいったために、つなぎがわからなくなり、いささか戸惑ってしまいました。家で何度も内容のチェックをしたのですが、やはり字を見て話すのと、心の中を言葉に出して話すのとは違います。人前で話すということはやはり難しいものだと実感しました。

 放送で経験していることなのですが、マイクに向かって独りで話すのと、原稿を見ずに、会場の方々の顔を見ながら話すのとはまったく臨場感が違います。結局書いたものから逸れていき、どこで元に戻すか苦労します。これも話中に戻すわけですから、大変は大変です。

 情報を充分詰め込んでいても、表現や雰囲気が違うと、情報も生きたものになりません。自分が確信し、皆で共有できるものならば、自分の情報の引き出しに入れておくことが可能なのです。暗記の勝負ではなく、生かし方の問題なのでしょう。静まり返った中で聞いていただいた100名ほどの方々に感謝しながら、緊張から解放されて会場を後にしました。

やさしいタイガー