自分が生んだ子どもにかけられない愛情、まるで物を投げるような憎しみの表現となってしまう親の行動にただ悲しみがつのります。多くの人は「なぜその前に回りや専門機関で何とかできなかったのか」と怒りをもっているのでしょう。
どんなことが起こっていても自分を見失ってしまった親の行動は、誰かの冷静な言葉や力を受け入れることが出来るでしょうか。今週のNHKの「ラジオ喫茶店」での話ですが、人はだれでも鬼になる要素があるという研究者や野村万作さんの発言を聞きました。
つまり人間は鬼や蛇になって向こう見ずな行動を起すことがあるということです。ぼくも多分今までに何度か鬼になったことを反省しなければなりません。同時その裏側にある「愛」をどれだけ注いだのか、これも自分を見直す必要があります。
虐待の行動を想像するだけで、息苦しくなりますが、人は誰にもいえない、言いたくない事情があることは重々承知していても、小さくても人間という子どもへの尊厳を見失わなければこのようなむごい言動は取れないと思うのですが、それは冷静になれるから言えることです。
多くの虐待によって子どもを死亡させてしまった悔やみは一生担っていかなければならない重荷でしょう。それにしても世間という世の中は暗の部分を解消していくために人の心を借るしかないとすればそのためにこそ、心の苦しみを少しでも少なくするためにできている各種の関係機関は何をするべきか、既存の考えを捨てて、命の立場で考え直して欲しいと思っているのです。
やさしいタイガー